「日本共産党の80年」(1922年~2002年)から、日本が本格的に中国侵略を開始した状況を紹介させていただきたいと思います。
「1931年9月18日、天皇制政府は、関東軍がでっちあげた鉄道爆破事件(柳条湖事件)を口実に中国侵略を開始しました。『満州事変』と称されたこの事件こそ、1945年8月までの15年にわたる侵略戦争のはじまりでした」(「同誌」39頁)
「党は、戦争が開始された翌日の9月19日、声明を発表し、つぎのようによびかけました。『奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ! 中国満州における日本軍隊軍艦の即時撤退! 一人の兵士も戦線におくるな! 帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ! 帝国主義戦争のあらたなる危険にたいして闘争せよ!」(「同誌」40頁)
「一方、日本共産党をのぞく各政党は、積極的に侵略戦争を支持しました。与党の民政党は、9月19日、関東軍の軍事行動を『正当防衛の挙』とする『声明書』を発表し、野党の政友会も、同日、軍事行動は当然とする幹事長談話を発表しました。また、政友会は、11月の議員総会で、『満州事変は在満同胞の保護と既得権益の擁護とを基調とする自衛権の発動』であり、『断じて撤兵を許さず』と決議しました」
「社会民衆党も、侵略を支持する態度をとり、11月には『満蒙問題に関する決議』を採択しました」
「財界は、日本商工会議所が軍部支持を声明したのにつづいて、日本工業倶楽部、日本経済連盟が『満州』侵略を支持しました」
「大新聞は、『軍部を支持し国論の統一を図るは当然の事』(「大阪朝日」)、『守れ満蒙=帝国の生命線』(「大阪毎日」)、『我生命線を死守せよ』(「読売」)とあいついで侵略を支持し、戦況講演会、ニュース映画会などを各地でひらいて、侵略戦争と排外熱をあおりました」
「翌32年3月、天皇制軍部は、日本かいらい国家として、中国の東北部に『満州国』をつくり、全面的な占領支配のもとにおきました」(以上、「同誌」41~42頁)
「日本共産党と民主運動への弾圧は中国への本格的な侵略が開始された1931年から、いっそうはげしくなりました。治安維持法による検挙者は、30年の6877人から、31年には1万1250人に急増し、32年に1万6075人、33年には1万8397人に達しました」
「作家の小林多喜二(29歳)は、今村恒夫とともに33年2月20日正午すぎ、スパイの手引きによって東京・赤坂福吉町で特高に逮捕されました。小林は築地署ですさまじい拷問をうけ、7時間後に絶命しました。小林は身をもって党と信念をまもり、最後まで屈しませんでした」
「天皇制政府は、小林の遺体の解剖を妨害し、22日の通夜、23日の告別式参会者をとらえ、3月15日には労農葬会場の築地小劇場を占拠するなど、小林の死後にまで、はげしい弾圧をくわえました。小林の虐殺にたいして、フランスのロマン・ロラン、中国の魯迅をはじめ内外から多数の抗議と弔文が寄せられました」(「同誌」46~47頁)