宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

「歴史の法廷は~党への弾圧が大きな過誤であったと立証する」宮本顕治の陳述(4)

2020年11月20日 | 未来社会へのプロセス

「日本共産党の80年」から続いて、紹介させていただきたいと思います。

「天皇制政府は、日本共産党を弾圧するために、スパイ・挑発者を党内に潜入させました。多くの党員がスパイの手引きで逮捕され、殺されました。かれらの手口はきわめて卑劣で、おくりこまれたスパイが党の幹部になり、『大森ギャング事件』とよばれる銀行襲撃を計画してそれに党員を動員し、日本共産党の名誉を傷つけることまでやってのけました」

「1933年11月には、病気をおして党活動をつづけてきた野呂栄太郎が、スパイの手引きで逮捕されました。野呂は、警察の拷問によって病状を悪化させ、翌年2月、33歳でその生涯をおえました。党は、中央にはいりこんだ2人のスパイの存在に気づき、調査のなかで野呂の逮捕もその手引きによることを証明しました」

「しかし、調査の過程で一人が、急性の心臓死を起こすという不幸なできごとがおこり、党は、調査を中止して、2人の除名を『赤旗』に発表しました。スパイにたいする党の最高の処分は、除名を公表し二度とスパイ活動ができないようにすることでした」

「33年12月、宮本顕治が街頭連絡中を十数人の警官に包囲されて、東京・麹町署に検挙され、はげしい拷問をうけました。スパイの急死を知った特高警察は、これを『指導部争いによるリンチ殺人事件』にしたてあげようとしました。宮本は、不当なデマ中傷をくつがえして日本共産党の名誉を将来にわたってまもりぬくために、獄中という極度に困難ななかで、このデマ宣伝をうちくだくたたかいに全力をあげてとりくみました」

「宮本はどんな拷問にも屈せず、密室での取り調べもすべて拒否して、法廷で道理をつくしてたたかう態度をつらぬきました。宮本の獄中・法廷闘争は、戦前の党の不屈のたたかいの重要な記録の1つです」

「宮本の最後の法廷は、戦争が終わる前年、1944年末にひらかれました。妻の宮本百合子以外には、被告の側に立つ傍聴人はだれひとりいない法廷のなかで、事実をときあかし、デマ宣伝をうちやぶった宮本は、法廷陳述をつぎのようにみすびました」

「『社会進歩と人類的正義に立脚する歴史の法廷は、我々が斯くの如く迫害され罰せられるべきものではなかったこと、況(いわん)や事実上生命刑に等しい長期投獄に依って加罰される事は、大きな過誤であったと云う事を立証するであろうと信ずる』(「宮本顕治公判記録」)」

「戦時下の暗黒裁判でさえ、宮本らに『殺人』や『殺人未遂』の汚名をきせることはできず、治安維持法違反を主」とした無期懲役の判決がくだされました。戦後、治安維持法が撤廃され、47年5月、宮本への『復権証明書』によって、判決自体が存在しないものとされました。戦後、宮本顕治への弾圧事件は、政治的にも法的にも完全に決着をみました」

「宮本逮捕後、党は、ひきつづく弾圧と党内に生まれた分派的な活動で、困難な状態におかれました。1935年3月、獄外に残された最後の中央委員であった袴田里見が逮捕され、『赤旗』も35年2月20日付の第187号以後は、停刊の状態となりました」(「同誌」51~53頁)