これから、旧三沢川に沿って「小澤城跡」に向かいます。最初の画像は途中で見かけた小学校(東菅小学校)。なんの変哲もないけれど、いかにも夏休みの小学校という感じが出ていて思わずパチリ。つでに、自分の記念撮影のパチリ。後は、旧三沢川の川面をそよぐ風に促されて進みます。ちなみに、この記事では現在、新百合ヶ丘方面に進んでいるのですが、旧稿(↓)でも紹介したように「弘法の松」と「高石神社」を結ぶ線が多摩川水系と鶴見川水系を隔てる分水嶺になっていて、その分水嶺より北東を流れる新旧の三沢川にとって新百合ヶ丘方面は上流。よって、小澤城跡のある里山に向かう道中はこの小川を遡る形になります。
・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:五月台~栗平~平尾~古沢編(上)
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58393449.html
15分程で、小澤城跡に続く里山の入り口に到着です。上の二枚目の画像がその登り口。で、一枚目の画像はその近くの、旧三沢川に架かるこれまたなんというこもない橋。しかし、この橋「指月橋」はそんじょそこらの橋ではないそうなのです。橋のたもとの案内板に概略こう書いてありました。
文治2年(1186年)のこと。兄の頼朝に追われる身になったことを現在の静岡県あたりで察した義経主従は、奥州の藤原氏を頼ろうとしてこの辺りを通りかかり、一夜の宿を寿福寺に求めてこの橋まできた。けれど、橋は古くなっており橋板が朽ちて人馬が渡れるかどうか分からなかった。そこで義経は下馬して橋を点検しようとしたが、ふと夜空を見上げると満月が煌々と輝いているではないか。而して、源義経、月を指さして曰く、「今宵もよい月じゃのー」と。この故事からこの橋が「指月橋」と呼ばれるようになったとさ。めでたし、めでたし。
しかし、(腰越状自体の真偽には議論があるものの)所謂「腰越状」提出の前であればこの故事は史実と異なるし、その提出以降、義経が頼朝と敵対することを決断した後であれば、鎌倉から比較的近く、(北条得宗体制成立以前、まだ、有力御家人が個々に頼朝と密接に結びついていた1186年段階に)北条氏・比企氏を除き頼朝の最も信頼する御家人、稲毛重成等、小山田氏の勢力圏であった現在のこのエリアを義経主従が移動することも考えにくいと私は思います。けれども、この「指月橋」の名称には、(恐らく、北条得宗体制下で小山田一族が粛清された後でしょうか)義経や小山田一族を巡る当時の庶民の哀悼の気持ちが込められているようにも感じました。と、そう思い、心して指月橋を渡らせていただきました。
さて、山道を進むこと約20分。この里山の山頂(小澤峰)に到着。そして、その眼下には小澤城跡の碑が。小澤城は小山田一族の1人、旧稿(↓)で紹介した枡形城城主・稲毛重成とその嫡男小澤重政が城主。つまり、枡形城・小澤城を結ぶこの山城のラインは多摩川を挟み関東平野に睨みを利かす鎌倉幕府、そして、北条早雲に始まる後北条氏にとって死活的に重要な防衛ラインだったのです。小澤城跡の碑の案内板にもこう書かれていました。
・ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:弘法の松~向ヶ丘遊園編(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58026658.html
【小沢城址】
小沢城は、鎌倉時代北の防衛線としての山城であったと伝えられています。当時、北側は多摩川を眼下にのぞむ急峻な崖で、敵が容易には近付けない天然の要害としての条件をよく備え、府中方面を見渡せる戦略上重要な拠点でありました。城主は、小沢郷を領した稲毛三郎重成、妻は源頼朝の妻政子の妹で、頼朝の重臣として厚い信頼を受けたひとです。重成は、この城を拠点として今の高津・中原区方面まで勢力を拡大しました。建久6年(1195)妻綾子を亡くしてからは入道重成と称し、その後城を長男の小沢小太郎重政に譲り、自らは東南4Kmにある枡形城へ移ったといわれています。この城の近くは、鎌倉道が通る交通の要衝で、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となりました。なかでも、鎌倉時代末の元弘3年(1333)新田義貞の軍勢と北条高時の幕府軍との分倍河原(府中市)の合戦は有名です。「太平記」には、5月15・16日の両軍の激戦で、多摩川の防衛線を破られた幕府は6日後の5月22日に新田義貞により滅ぼされたことが記されています。
南北朝時代には、足利陣営の分裂により観応2年(1351)足利尊氏の弟直義の軍勢が立てこもる小沢城を、尊氏の子義詮の命を受けた関東の武士高麗経澄が攻め落とすという戦いがありました。また、戦国時代の永正元年(1504)には、扇谷上杉朝良を助けるため北条早雲の軍勢が山内上杉顕定の軍を打ち破った戦い。さらに、享禄3年(1530)には、小沢城の争奪戦ともいえ城の近くの小沢原で北条氏綱の子氏康と武蔵最大の勢力を持つ上杉朝興との大きな戦いがあり、若干16才で初陣した氏康の北条方の勝利を「小田原記」は記しています。このように歴史上多くの足跡を残してきた小沢城址には、今なお空堀・土塁・物見櫓・館・馬場・井戸などの跡と思われる遺構がが残っています。また、近くには城下・馬場・おきの鍛冶屋などの地名も残っていて、城であった頃のなごりを今に伝えています。江戸時代になると、この城跡は地元や近郷近在の人達による初午行事や富士山信仰の場として利用されるようになりました。峰沿いには当時の講中の人達によって建てられた文化3年の祠や万延元年の富士登山33度大願成就の記念碑などがあります。
小澤城跡からサブルートに向かいます。サブルートは二つ。一つは小澤城跡~穴沢神社~京王よみうりランド駅を往復するもの、そしてもう一つのルートは「秘密」です。でも、すぐ分かります(笑) 上の画像が穴沢神社に続く山道から神社の拝殿が見えてきたときのもの。下は説明しなくともわかる、神社そのもの。
鳥居をくぐるとそこは東京都稲城市矢野口。農地と住宅地が混在する、東京近郊の普通の風景。なになに、ブルーベリーが摘み取れる農園とな。はい、このブルーベリーの幟の奥に写っているのが京王よみうりランド駅のプラットホーム。穴沢神社から京王よみうりランド駅までは歩いて300メートル(ちなみに、匍匐前進してもスキップしても300メートル)。で、小田急線と京王線の<読売ランド-読売ランド>両駅間走破の記念に気分だけ記念撮影してもらいました(笑)
さて、道中を急ぎます。小澤城跡までとんぼ返りして次のサブルートへ。
いやー、緑が目に心地よかった。この小澤城跡のある里山周辺は、江戸幕府の三代将軍・徳川家光(1604年-1651年)のお気に入りの鷹狩りの猟場だったとか。そして、鷹狩りの際家光は近隣の庄屋か寿福寺に泊まったとのこと。そりゃー、江戸時代の天下人一押しの緑だもの21世紀の私達が感銘を受けるのも当然かも、ですね。
と、ここで目に飛び込んできたのは、読売ランドのアトラクション施設。寺尾台から眺めた時には豆粒ほどだったのが結構な迫力。
そして、その手前に我々が見たものは!
はい、これが二つ目のサブルートのお目当て、
ジャイアンツ球場と巨人軍室内練習場。
まあ、私は野球はあんまり興味ないのですが(郷里のソフトバンク・ホークスと元郷里の西武ライオンズは除く!!)、流石にミーハーの血が騒ぎましたぁー(笑)
と、ミーハー気分を満喫して小澤城跡のある里山を離れます。鎌倉時代・戦国時代・江戸時代と時代を超えて多くの歴史上のプロミネントフィギュアが痕跡を残した里山。最後の画像は、その里山から小田急読売ランド方面に向かう途中で振り返った里山の風景です。
というところで、適度な長さなので次回に続きます(;・ω・;)。
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