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書評☆中川八洋「正統の憲法 バークの哲学」(上)

2010年11月06日 13時53分47秒 | 書評のコーナー

本書、中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』(中央叢書・2001年12月)は、社会思想史上の保守主義の源流を主に英米の憲法思想に焦点を当てて紹介するものです。而して、本書は著者の理解する保守主義の憲法思想とフランス流の憲法思想の対比を通奏低音にして、米英の憲法、フランス憲法、日本の新旧の憲法を俎上に載せていきます。

本書のボリュームは序とあとがきを含めて290頁。また、一般向けということもあり、そして、細部の事象に関しては著者独自で特異な理解や解釈も少なくなく、アカデミックな著作として本書は専門研究者の真面目な批判検討に耐え得るようなものではありません。また、社会思想史上の保守主義の源流の紹介が醍醐である本書に、①グローバル化の昂進著しい、②大衆民主主義下の、③福祉国家という、工業化・情報化した先進国における(よって、「左翼-リベラル」の社会思想もかっての教条主義的なマルクス主義や能天気な所謂「ポスト構造主義」からは<脱皮>している現在、その「左翼-リベラル」の社会思想に拮抗し得る)現在の時点での保守主義の内容を期待するのはそもそも無理な注文。しかし、21世紀の現在に再構築されるべき保守主義がいかなるものかを考える上で、本書は<反面教師>あるいは<叩き台>としては参考になり得る一書だと思います。

蓋し、一般向けの小品ながら、(イ)社会思想における英米の保守主義の源流の紹介と、そして、(ロ)著者が理解する限りでのその「保守主義」と近世以降の様々な社会思想(例えば、ホッブ、ルソー、ヘーゲル、マルクス、功利主義、そして、カール・シュミットや新カント派に至るまで、広くそれらの「社会思想=憲法思想」)との位置関係を俯瞰している本書は、ご自分の社会思想史と憲法思想史の理解を読者が反芻する上で参考になる可能性があるということ。

「読んではいけない!」ではないが、「読み方注意!」の一書


畢竟、本書『正統の憲法 バークの哲学』は、専門研究書ではもちろんなく、それに従い学習を進めるべきテキストでもない。それは、謂わばテクスト自体に誤謬が組み込まれた「間違い探しクイズ形式」の<章末テスト集>である。蓋し、そのつもりで読むのならば本書はトータルでは有益な一書なの、鴨。読了してそう思いました。目次は以下の通り、

序 正統の憲法 異端の憲法 - 祖先の叡智を保守する精神
第1章 保守主義のアメリカ憲法 - デモクラシーへの不信、人民への警戒
第2章 イギリス憲法の母胎 - 封建遺制と中世思想
第3章 フランス憲法 負の遺産 - 血に渇く神々を祀る宗教革命の教理
第4章 「日本の知的遺産」明治憲法 - 自由と倫理が薫る英国型憲法
第5章 GHQ憲法のルーツ - スターリン憲法の汚染、ルソー主義の腐蝕
第6章 バーク保守主義の神髄 - 高貴なる自由、美しき道徳
あとがき 「改革」の魔霊に憑かれた日本   






◆『正統の憲法 バークの哲学』が提供する有益な視点と知見

類書に比べた場合の、かつ、最大公約数的に見た場合の本書の特長は次の4点であろうと思います。

(Ⅰ)保守主義の源流とも言うべきバークの主張の紹介
(Ⅱ)アメリカ合衆国憲法の制定に至る社会思想史の紹介
(Ⅲ)基本的人権の普遍性を当然視しないことが<世界の通説>である状況の紹介
(Ⅳ)「国家主権=国民主権」のフランス流の正当化ロジックが<世界の通説>ではない事情の紹介    


前二者(Ⅰ)(Ⅱ)は、日本の社会思想に対する貢献という点から見て、大相撲で言えば、技能・敢闘・殊勲の三賞の選には漏れるとしても、間違いなく「努力賞」「アイデア賞」には値する。実際、「バーク哲学の研究者は、日本ではどういうわけか、戦後五十年間に、小松春雄氏と岸本広司氏のたった二人だけ」(p.289)と著者も慷慨しているように、社会思想史上の保守主義の源流がアイルランド出身の英国の政治家・思想家バーク(Edmund Burke:1729-1797)であるとはどんな政治思想史のテキストにも書かれている割には、そのバーク思想の全体像や本質的特徴を俎上に上げる著作・論稿はそう多くはない。

その点で、英国においてバークに流れ至る「保守主義」の前史、すなわち、ブラクトン(1216-1268)→コーク(1552-1634)→ブラックストーン(1723-1780)の社会思想と憲法思想、そして、そのバーク保守主義のアメリカ合衆国への波及過程、就中、アメリカ合衆国憲法を起草して、かつ、初代・二代のアメリカ合衆国大統領の治世をリードしたフェデラリスト(ワシントン・アダムス・ハミルトン等々)の社会思想と憲法思想を、バークの社会思想を結節点にして平明・明晰に紹介する本書は希少価値はある。また、バークとバーク前後の「保守主義」の思潮を「法の支配」「反デモクラシー」を中軸として結びつけている手際も妥当でありその出来栄えは鮮やか。而して、

「日本では米国憲法に関する虚偽と神話の方が定説である。たとえば、宮沢俊義が編纂した『世界憲法集』では、米国憲法は「人民主権を前提としている」と書かれている。だが、米国にはそもそも「人民主権」はおろか「国民主権」という政治概念も存在しない。存在しない「人民主権」が米国憲法の基軸である、という説は荒唐無稽であろう」(p.13)

「【フランス革命に加えてフランス】人権宣言についても有害なものとみなすフランス人の方がほとんどになった。フランス人権宣言を肯定的にとらえ、時には「憲法原理」として神聖視すらするのは、今では日本だけである」(p.114)

「日本だけは、フランス革命を、「民主主義の戦い」とか、マルクス主義の教条的な「ブルジョア革命」解釈でもって思考停止したふりをして、宗教戦争という本質に迫ることを阻んできた」(p.125, cf. p.100)    


これらなどは、些か修辞学的な強調は見られるもののそう満更間違いばかりではありません。
而して、例えば、

自然法論からの「天賦人権論」から見て人権は普遍的かつ不可譲であり、その普遍的な基本的人権を保障するという一点に国家権力の正当性の根拠は存在している。総体としての国民あるいは具体的な有権者の総体(ナシオンかピープルのいずれかに)に国家権力の政治的な意思を最終的に決める権威がある。いずれにせよ、フランス人権宣言16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」を見るまでもなく、基本的人権の保障と権力分立は憲法典の必須の要素である云々   


といった、基本的人権の普遍性や(そのような基本的人権を保障する限りの「必要悪」としての国家権力の理解を前提にした)「国家主権=国民主権」を正当化するロジックもまた普遍的である、少なくとも、<世界の通説>ではある、と。そのようにいまだに教えているであろう、圧倒的多数の大学学部・ロースクールレベルの日本の憲法理解のパラダイムから見れば、上に引用した本書の情報は「目から鱗」とは言わないけれど「目には目薬」の教育効果はあるの、鴨。喩えれば、それは英文法の所謂「5文型論」が(韓国も台湾も機能英文法論にシフトした現在)、最早、世界で日本だけで通用している「英文法理論」であるという経緯の紹介と似ている、鴨。

蓋し、本書を読んで、これら(Ⅲ)(Ⅳ)の基本的人権と「国家主権=国民主権」を巡って、「自分が<世界の通説>と思っていたものが、実は、<フランスローカル>、あるいは、フランス原産だけれども現在は日本にだけ存在する<ガラパゴス的>の憲法思想なのね」ということが理解できたとすれば、それだけでも本書の交換価値(1890円)は十分にもとが取れたと言えるのではないでしょうか。尚、本項に関しては下記拙稿を併せてご参照いただければ嬉しいです。

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65230144.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231299.html

・戦後民主主義的国家論の打破☆国民国家と民族国家の
 二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-5.html



◆『正統の憲法 バークの哲学』が孕む構造的な問題点
日本の社会思想に対する貢献から見て、本書は「努力賞」か「アイデア賞」に値する一書ではある。けれども、繰り返しますが、それは「読み方注意!」の一書でもある。要は、『正統の憲法 バークの哲学』というか一般的に著者の中川さんの書かれる書籍には、彼の憲法解釈学と法哲学と哲学の専門知識の不足、そして、哲学的な基礎的思考の部面での訓練不足によるものでしょうか、


(甲)幾つかの構造的な問題点が組み込まれている
(乙)著者独自の用語の理解・解釈が散見される    


正直に言えば、前者の(甲)の問題は読み手がそれを織り込んでいれば害は少ないけれども、寧ろ、後者の(乙)は、(例えば、HLAハートや日本の矢崎光圀先生を中心に「法実証主義」に多様で重層的な意味を認める法哲学の現下の地平を看過して、「人間が無制限に法律を定めることができる」などという現在最も厳格な法実証主義者もおそらく口にしないだろう著者独自の語義から「法実証主義→人定法主義」(p.215)の訳語変更を提案するが如きを見れば)、就中、本書を「社会思想史のテキスト」として使用する予定の読者にとっては笑いごとではない。まして、そんな学部生・大学院生を指導するこっちの身にとっては忌々しき事態。蓋し、畢竟、それは文字通り

読み方注意!


の事態と言わざるを得ません。

蓋し、(甲)本書が孕む構造的な問題点とは下記の2点。

(A)歴史的な生態学的社会構造の変化の看過
(B)哲学の認識論と存在論、存在論と価値論の混同   


前者は、例えば、現下の、①グローバル化の昂進著しい、②大衆民主主義下の、③福祉国家という、工業化・情報化した先進国を前提にすれば、18世紀のホウィッグ的なバークの保守主義なるものの内容も大幅な変容を甘受せざるを得ないだろうということ(尚、この点に関しては下記拙稿を是非ご参照ください)。

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html


後者は(例えば、あのアガサ・クリスティーのポアロ氏の決まり文句「小さな灰色の脳細胞を働かす」というイメージを「唯物論」と捉えるとき)、あくまでも存在論レベルの思考パターン類型である「唯物論-唯心論」と、他方、認識論レベルの類型である「実在論-観念論」のレベルと範疇を越える<ダイナミックな論理違反>が本書には散見されている。価値相対主義批判(pp.215ff)などはその最たるものであろう。要は、「素人が法哲学と哲学を舐めんなよ」、ということなの、鴨。そう私は考えています。以下、敷衍します。


<続く>


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