英語と書評 de 海馬之玄関

KABU家のブログです
*コメントレスは当分ブログ友以外
原則免除にさせてください。

「国内法と国際法」の関係について

2022年04月15日 03時21分58秒 | 憲法問題

 


基盤となる<共同体>を欠いている「国際社会」なるものの間で、国際法が--国際法の存在形式、国際法の一般法は慣習的法であることとは裏腹に--慣習法的な事柄、例えば、「立憲主義」の理念であるとか、--文化帝国主義のフランス流のそれではない、中庸を得た--英米流の「法の支配」であるとかとは無縁であることも明らかだと思います。要は、国際法は慣習的法ではあるが厳密な意味での慣習法ではないということ。
 
>英米の国内法の本性・・==>慣習法(=customary law)
>国際法一般法の本性・・==>慣習的法(≒legal convention)
 
而して、日本では、憲法と国際法が同一の事態に適用される場合、かつ、両者の内容に矛盾があるときにどちらの規範が勝か(行政機関の行為規範と裁判規範として採用されるか)の問題、所謂「国際法優位説」「国内法優位説」「国際法と国内法の二元論」を巡る議論がかなり誤解されていると感じるので、ここでも書いておきます。
 
◎国内法の効力に関する諸説
(α1)一元論-国際法優位説
(α2)一元論-国内法優位説
(β0)二元論-国際法と国内法の無関係的二本立て説
 
これはですね、あくまでも、法の効力--妥当性と実効性--を巡る議論であって、どちらに属する法規範が、ある事態や事例に関して勝か負けるかとは無関係な議論なのです。国内法の内部での法の衝突(conflict of laws)に際して語られる「上位法―下位法」「特別法―一般法」とかの裁定ルールとは全然別のこと。わかりますか? 

要は、例えば、性同一性なり子供の教育権なるものの内容についてある国際法(日本の締結・批准している条約)と日本の法律が(憲法は当然のことです)抵触するように見える場合、どちらの規範が勝か負けるかは、そのある国の国内法、究極的には個々の国の憲法で定めればよいだけの話なのです

Politics should end at the water's edge.
国内の政争政は水際でとどめねばならない。
安全保障や国のアイデンティティに係わる
案件を国内政局に持ち出すべきではない。
(セオドア・ルーズベルト政権国務長官エリュー・ルート)

ウクライナ問題の一端は綺麗事と無責任な国際機関とNATOにある。第三次世界大戦は嫌です。

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d9e4363b0f52f1079a359da9351a6e4e


また、その国内法が「このままでは負けそう!」なとき、その国の権限ある立法機関なり、時には内閣が、遡って/将来に向かってその「強そうな国際法規」を破棄することも自由。なんで自由かと言えば、それが、現在に至る国際法のルールだからです。而して、約束を守らない韓国みたいな国には? はい、きっちし、軍事的・政治的・経済的に報復すればいい。それだけのことです。実定国際法というのは良くも悪くもその程度のもの。
 

これはKABU家の思い込みではなくて、

①国際法の優位というのは
個別の条約が占領憲法に優位するという意味ではありません

だから韓国が約束ごとをまもらないのも韓国の国内法的にはありですが、
逆に、こっちは政治的に制裁を淡々とかせばよいのです。
国交断絶が一番わかりやすい、鴨。

②国際法の優位というのは個別の国家がその域内で最高独立の
法秩序を維持している正当性の法哲学的な説明です

ここからはKABU 家の持論ですが

③自国の生存を危うくする権限は憲法にはない
④個別的と集団的の自衛権の区別はない
⑤よって、占領憲法下でも核武装も先制攻撃も広範な同盟参加も
問題はない。
⑥だけど、分かりにくにくいので可及的速やかに改憲か占領憲法の廃棄が
のぞましい。

えっ、じゃ、「法の効力を巡る議論」てなに? と、思っている方もおられる、鴨(笑)。はい、お答えします。それは、日本の国内法体系が「法として人々を従わせる力」を持っていることの理由・説明についての議論なのです。法の効力は、一般に、①妥当性、②実効性のふたつに分けて法哲学研究者は考えますが、ここでは専ら、前者の①の内容の一部分。
 
蓋し、①のなかに、「現在の人類史の状況を眺めるとき、国際法体系が成立しており、ある国家の国内法体系がその領土内でその国民に対して効力を持つのは、その国際法体系から認められているからですよ。任侠・神農系の世界の言葉で言えば「杯」をもらっているからですよ」という説明が、満更、筋悪ではないよね、ということ。簡単な話、誤解を恐れずに換言すれば、
↓ ↓ ↓
イェリネックの国家の--国民・領土・主権の3要素による--定義の中の「主権-統治権」(他国に対しては対等独立、国内にあっては最高唯一の国家主権)の存否とは、他の大方の諸国がその国の主権を認めたかどうか--「主権国家」と認めたかどうか--で決まるということ。
 
この経緯を、法学的に<翻訳>すると、「国際法が国内法(憲法)の効力根拠」だということになるのです。この議論は、徹頭徹尾、「国内法の効力に関する議論-ある国が国かどうかを判定する基準に関する議論」ということ。だって、シリアのあの「イスラム国」なんか、ラーメン屋さんの屋号の「ラーメン大学」みたいなもので、どの国も、「国家」とは認めないでしょう。
 
他方、われらが台湾は国連に加盟していなくとも支那がそれを激しく否定しようとも、国際政治と国際経済の現実の舞台ではどの国も--実は、支那でさえ!--「主権国家」と認めているでしょう(だって、認めざるを得ないからこそ、支那は「台湾」は「国家ではない」と目一杯叫び続けているのでしょうからね)。そのような経緯のことなのです。畢竟、このことが国際法(の実定法秩序体系)が国内法(の実定法秩序体系)の効力根拠ということそのものなのです。

・[もう一度]憲法における「法の支配」の意味と意義

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f58d7887310d1a4ab95f909423748331

・完版:保守派のための海馬之玄関ブログ<自家製・近代史年表>みたいなもの

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a3221c77ea0add17edf737d21088cf96

・[再掲]法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e33c41e2859ae8cad1c064531f0e4ab9

 
 
 
【参考-イェリネック国家論の秀逸】
国家とは何か、国民たる<私>とはどのような存在なのか。イェリネック(1851-1911)の「国家の3要素」なるものとして人口に膾炙する定義によれば、国家とは領土・人民・権力を備えた社会集団のことらしい。今でも日本では、大体、どんな書物にもそう書いてある有名で陳腐な定義。けれども、イェリネック自身は、名詞の形容詞用法である「国家の:Staats」をそれぞれの項に添えた上で「国家:Staat」を説明して、
 
・国家的領土:Staatsgebiet
・国家的人民:Staatsvolk
・国家的権力:Staatsgewalt
 
を備えた自生性と人為性の相矛盾する二つの貌を持つ社会集団と考えていました(die mit ursprünglicher Herrschaftsmacht ausgegründet Körperschaft eines sesshaften Volkes:自生的あるいは正当な統治権力によってまとめあげられた一個の定住する人々を他から切り離す社会集団)。これ、でも同語反復ですよね。つまり、「国家」を定義するのに「国家の」という同一の概念を用いているから。ならば、それは無意味か。はい。微妙なところですが論理的にはそう言える、鴨。
 
けれど、逆に、ここにこそイェリネックのセンスのよさが一閃している。而して、それこそ、マルクス主義からのそれを含む17世紀-20世紀初頭の雨後の筍のごとく叢生した数多の国家論の中で、ホッブス、そして、ケルゼンの法国家同一説--法体系と国家を同一と見る国家論--を除けばイェリネックの国家の定義だけが現在も生き残った理由ではないか。そう私は考えています。
 
すなわち、「国家」の概念規定などは不可能ということ。ならば、「国家の定義」は、このように統治権や国家的という観点からスタートする、ニワトリ玉子的に無限に続く螺旋的な思索--すなわち、間主観性を希求した行為としての思索--の過程で各論者が自分なりにイメージするしかないものだ、と。<国家>の定義は、論理的にはトートロジーであり無意味であるにしても、自己をある国家の一員と意識する<私>の間主観的な自己意識を媒介にすることなしには無意味どころか不可能である、と。
 
・[再掲]前川喜平「愛国心はならず者の最後の拠り所」・・・So what?
 
・【再掲】150年前に「朝日新聞の壊滅」を洞察したバジョットの慧眼❗
 
・海馬之斬鉄剣:朝日新聞の素人憲法論批判
 ――改憲のための改憲、所謂「改憲の自己目的化」は立憲主義と矛盾するか(余滴)
 
 

最新の画像もっと見る