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メディア論から考える古書店-古本屋はなぜ潰れないのか

2010年04月24日 15時36分29秒 | 表現とメディアの話題



全国で書店の廃業が相次いでいるらしい。アマゾンやブックオフ等の新しい書籍販売ビジネスモデルの隆盛を鑑みればそれも時代の趨勢なの、鴨。それに対して、古本屋さんはそれなりに元気なように見えます。本稿は、(経営にはそれなりの苦労はあるのでしょうが、少なくとも今の所)古書店がなぜ絶滅していないのか。この切り口から文化が存在する位相を俎上に載せるものです。


【出展:出版業界紙の「新文化」・「文化通信」】


書店は冬の時代。万引きの横行や予約売掛金の焦げ付き等々の「古典的理由」だけではなく、日本人の活字離れ、就中、文学書離れがボディーブローのように効いていた中での、郊外型大型書店、ブックオフ等の街中の新古書店の攻勢、なによりアマゾン等のネッ物流の隆盛が新刊書店に止めを刺した。次の記事は5年前、私達の郷里、福岡県大牟田市の書店のあり様を描いたもの。

大牟田の衰退に合わせて書店の数も減った。また、書店の品揃えも淋しくなった。街一番の書店でも、正直、週刊誌・月刊誌、新書・文庫、若干の学習参考書以外ではほとんどマンガとエロ本とPC関連書籍しか置いていない。残念ながらね。・・・

とにかく、繁華街の書店で帰省記念の書籍を物色する。ただ、仕方がないことだが専門書は限られていた。数冊求め、元大牟田で一番大きな老舗書肆にも行った(★KABU註:創業明治24年のこの書店は2006年の5月に閉店した)。大牟田を代表する古書肆にもね。これら2書肆では大牟田でしかなかなか入手できない書籍を探す。要は、大牟田や三池炭鉱、三井三池闘争関連の書籍やそれこそ大牟田の文化をかってリードしていた人々(?)が古書店に残した書物のこと。向坂逸郎先生の著作やマルクス主義からの言語政策とか面白い英書も数年前にこの古書肆で求めたことがある。    


・地方再生と日本再生を郷里で思う
 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148540450.html


新刊書店に比べて古書肆はまだ健闘しているように見える。神田神保町や東大前の本郷通り、高田馬場から早稲田に至る通る早稲田古書店街、その早稲田を最近抜き神保町に次いで全国2位の規模を誇る高円寺から西荻窪の杉並古書店街、そして、大阪は梅田の阪急かっぱ横丁。あるいは、古書店街ではなくとも、旧制高校の所在地、例えば、金沢や熊本、松本や仙台では有力な古書肆が今でも元気に営業しておられますから。なぜなのか。




■古書店の社会的機能と経営モデル
古書店が新刊書店に比べてまだ絶滅を免れている理由は、ある意味、簡単。もちろん、一冊数百万円の稀少本を扱う古美術商の如き特殊な書肆ではなく街中の古本屋さんの場合ですが、それは「損益分岐点」が低いからだ、と。

要は、①売れそうにない/売れるとしても足の遅い書籍は扱わず、②専ら、売れる可能性の高い商材を定価の10%から20%で仕入れ、低下の60%から80%で販売する。而して、このマージン率40%~70%は新刊書店のマージン率18%~25%を遥かに上回る。だから、③例えば、古書店組合の競り市で「席料・組合費・手数料」として5%程を支払ったとしても、マージン率は35%~65%。④まして、大多数の古書店が個人営業で、店舗も大部分の場合、自分の持ち物か住居を兼ねた(法的に手厚く保護される)賃貸物件であり固定費・流動費とも古書店と新刊書店の収益構造には雲泥の差がある。    


基本的な収益構造に加えて、古書店組合の競り市という人的ネットワークだけではなく、古書店は現在、売買の両面でネット書籍販売システムの最大の利用者になっている。つまり、新刊書の如く<量としての商材>ではなく、個性と希少性をその商品価値(使用価値と交換価値)の本質とする古本が商材である古書店は、全国全世界に散らばる「その書籍:the very book」を求めるユーザーと商材を結びつけるネットの機能の、ある意味、最大と言えば言いすぎなら、最も上手な利用者グループの一つということです。

しかし、どのように優れたビジネスモデルを構築したところで、実際に商品が売れなければその経営計画やPL/BS予想は「絵に描いた餅」にすぎない。ならば、古書店が新刊書店に比べればまだ健闘している中核的理由は、(i)古書に対する有効需要が存在していて、(ii)古書店がその需要と商品をそれなりに効率よくマッチングするマーケティングに成功しているから。と、そう言うべきではないでしょうか。

古書に対する有効需要の存在
古書店マーケティングの成功


古書店のマーケティング。ネットを通した古書販売は置いておくとして、どんなマーケティングを古書店は行なっているのか。例えば、京都では京都古書三大祭りと言って「春の古書大即売会-岡崎京都勧業館」「納涼古本まつり-下鴨神社」、そして、秋には京都大学近傍の百万遍知恩寺で古書の即売会が行なわれていますが、これなどが古書店のマーケティングなのでしょうか。マルクスはこう記しています。

商品価値の商品体から金体への飛躍は、私が他のところで名づけたように、生命がけの飛躍である。この飛躍が失敗すれば、商品は別に困ることもないが、【不良在庫を抱えた】商品所有者は恐らく苦しむ。・・・商品は貨幣を愛する。が、「誠の恋が平かに進んだ例がない」ことをわれわれは知っている。

(『資本論』第1巻1篇1章, 岩波文庫 pp.188-191)   


もちろん、各地の百貨店や駅の構内で時々開催されている古本市も含めそれらもマーケティングの一環ではあるでしょう。しかし、古書店のマーケティングの根幹は、それがしかるべき場所に書肆店舗を構えていることにある。と、そう私は考えます。

畢竟、全国区の学習塾FCでは個々の教室の成功不成功を決める要因の少なくとも70%は立地条件と言われます(これは、例えば、個性の乏しいコーヒーチェーン店の場合でもほぼ同様ですが、商品単価と仕入れ単価にも左右されるにしても店の特徴で勝負する飲食店の場合には33%を切ることもあることを考えれば、学習塾FCの経営が立地条件に左右される度合は大きいと思います)。而して、古書店においても、おそらく、立地が経営、すなわち、マーケティングに占める比重の大きさは学習塾やコーヒーチェーン店とパラレルではないかと思います。   


ポイントは、東京個別学院やドトール珈琲が、(内部にいる方にとっては、自社の商品はnumber one であると同時にonly oneであると確信しておられるにせよ)消費者から見れば、それらは個性の乏しい商材であるのに対して、古書店の扱う商材はその個性を本質にしていること。畢竟、個性をその商品の使用価値と交換価値とする商材を扱う古書店がなぜに(私の仮説が正しいとすればですが)そのマーケティングの成功不成功が立地に左右される度合が大きいのか。これが、新刊書店に比べれば古書店がいまだ健闘している秘密を解く鍵ではないか。と、そう私は考えるのです。




■古書店の存在意義とメディアとしての古書店
もう大昔のことになりますが、1980年代半ば、同志社大学がその機能の過半を(現在の)京田辺市の山間の新造成地に移転する計画を正式に発表した際、移転計画に反対する教授の中にはこう述べた方がおられた。その先生曰く、

古本屋もあらへん環境で学問はできへんで


もうとっくに移転が終了した田辺問題は置いておくとして、この言葉は私に強烈な印象を与えました。而して、アマゾンやネット古書流通システムが普通になっている現在でも、否、そんな時代であればこそこの言葉は反芻するに値する。と、蓋し、学問とは書籍から得られる情報だけではなく人的な情報、例えば、「子は親の背中を見て育つ」式のヒューマンな情報を糧として行なわれるものではないか、と。この点に関して、私は前にこう書きました。

将棋や囲碁の世界でも、京都あたりの哲学研究者のコミュニティーでも、「師匠」は普通、弟子に言葉ではほとんど教えないらしい。しかし、弟子は師匠との全人格的な交わり(言葉によらない情報のやりとり)のプロセスを経てのみ<プロ>になっていく。現代のように高度な情報化社会での人と人の交わりでは、この言葉を越えるコミュニケーションこそが逆説的ではあるが最も重要になるのかもしれない。 


・衛星放送型通信教育☆サテライトの思想的可能性
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11181538604.html


人的情報とは究極的には文化としてその土地に蓄積されてきたsomethingではないだろうか。これまた、昔、私が私淑する橋爪大三郎さんや長尾龍一さんにセミナー講師として上洛していただいた時、「哲学の本場に来ると緊張します」とお世辞を述べられたこと。あるいは、古書店の多くが、神田にせよ早稲田にせよ、ライバルが密集している古書店街に店舗を構えていること。これらの事柄は、古書店が学術文化の構成要素であることを端的に表しているのではないでしょうか。

蓋し、古書店はその地域の文化をかってリードしていた/参画していた人々が残した書物という<表示義>を通して、その土地に蓄積された文化という<共示義>を伝える<メディア>なの、鴨。ならば、個性をその商品価値とする商材を扱う古書店のマーケティングの成功不成功が立地に左右される度合の点では学習塾やコーヒーチェーン店に近いことも頷けるのではないかと思います。

すなわち、古書店は、(甲)単に、知識を媒介する書籍を商材としているだけでなく、(乙)「学生街-古書店街」の構成要素であるという点でも<文化のメディア>である。畢竟、情報や経験や価値観を伝えるツールを<メディア>と定義すれば、間違いなく、人間自体が他者にとっては最も原初的で本質的な<メディア>なのでしょう。しかし、個々人の人生と知識の有限性を鑑みた場合、多くの先人の関心と智恵と情熱が蓄積されている古書店は、少なくとも、文化と覚悟を伝えるという点では極めて優れた<メディア>なの、鴨。    


ネットと報道の差異。蓋し、「自分が欲しい情報」に効率的にアクセス可能という、一見便利なようではあるが、「自分の欲しい情報」なるものが現在の有限なる自己の能力に限定されている点では、能力開発のトータルな効率の点では本質的弱点を持つネットに比べて、「玉石混淆」ではあるにせよ、広く、そして、ある意味、強制的に情報を送りつけてくる報道は今でもその存在意義を失っていない。

ならば、いかに、「玉」を増やし「石」を排除するか。少なくとも、ネットと報道の上手な利用の仕方を考える上で古書店のあり方/利用の仕方は一つのヒントを我々に提供しているのかもしれない。而して、同時性をその本質的要素とするブログコミュニケーションは、書籍からの情報入手と人的情報入手のハイブリッドシステムになる可能性もなきにしもあらず、鴨。その場合にはブログもまた文化メディアになっているのでしょうけれども。と、そう私は考えています。







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