ある遠い国でのお話です。
アイリス国では、政府軍と反政府軍とが国を二分する戦争が続いている。
その戦争のさ中、どちらかの軍が毒ガスをまいたという。
それはダメだと他の国からも批判が起こった。毒ガスで人を殺しちゃダメだ。
そして、世界の2大大国である、アシレマ国と、アイスル国の偉い人たちが話し合った。
「毒ガスを使ったほうのいるところを爆撃しよう。」
「いや、それよりも毒ガスは、やめさせよう。」
偉い人たちは、アイリス国に対して、爆撃をしない代わりに、毒ガスを使わないという約束をさせた。
しかし、アイリス国の政府軍は、
「毒ガスはダメだけど、普通の爆弾ならいいんだね。それならいっぱいあるし、
アイスル国の偉い人が、また送ってくれると言ってたし。」
爆撃もされない今のうちに、反政府軍を徹底的にやっつけてしまおう。
ところが、もう一方のアシレマ国は、反政府軍に武器を送って支援しているという。
みんな、ずるい。
たくさんの人の尊い命、生活、健康、そういったものをないがしろにしてまでする戦争って
なんなんだ。戦闘機って、20年落ちの中古でも30億円もする。戦争になれば、もっと高性能
の何百億もする戦闘機が何十機もいる。
国の偉いひとはとても儲かるらしい。
なにも持たない、なにも悪いことしてない人たちは、殺されたり、国を追われて何百万人も
難民といって、劣悪な環境で暮らしている。食糧はおろか、水でさえ不十分で衛生環境も
悪く感染症が蔓延する。生き地獄。
世界の2大大国である、アシレマ国と、アイスル国の偉い人たちは、なぜ毒ガスのみ
ダメで、すべての武器がダメだと言わないのか。
ぼくにはわからない。
いまじんの50%OFFの棚で発見した。
ポリスのギタリスト、アンディ・サマーズの’98年録音。
タイトルの通り、セロニアスモンクのカヴァー。
そう、モンクはピアニスト。アンディはギタリスト。
いつも好奇心に対して、フトコロが追い付かないが、50%OFFならね。
「16歳で初めてモンクを聞いてノックアウトされた」のだそうである。
ポリスのシンプルでありながら、胸を打つギターの根源がこれだったのかと納得。
モンクのピアノの素晴らしさは、型にはまっているようで、はみ出している感じだと思う。
窮屈なようで自由。のびしろのある自由。聞くものに存在しない音を補って完成させる音楽。
ほら、アンディのギターみたいでしょ。
ここでは、元ポリスではないアンディ。おそらくポリス以前のアンディに戻っているのだろう。
いったいどうやってギターでピアノ曲をアレンジするのか。
いかにも野心的な試みかと思ったが、そうではなく、本人はすでに、楽器こそ違え、
音楽的に共通する何かを確信していたのだろう。違和感がなく、モンクの音楽になっている。
これが、なんとも良い感じ。ああ、ほんとにモンクが好きだったんだなあって。
何度聞いても飽きない。
初めて小津安二郎作品を見た。
退屈であったという感想を見る前から用意していた。
いつか見ようとずっと思っていたのが今日になった。1953年作品。
事前に用意した感想はくつがえされた。
なんともテンポがよいし、心地よいリズムがある。
遠く離れて暮らす家族の物語には、これといった派手な事件もない。
一般的で地味な話。
監督名も役者も伏せて、あらすじだけ読んだとすると、誰もこの映画を見たいとは
思わないだろう。
だからこそ、映画としての基本的なことがしっかりとできていないとおもしろい
ものにはならないであろう。シンプルな素材こそ、料理の腕がためされるのであろう。
俳優の演技力。
原節子の自分に対する憤りの表現には、しびれた。
感情を抑えることで激しい内面を伝える。声を荒げたり、オーバーなアクション
ではなく、抑制によって波立つような強い感情を表現する。
そして、すべての風景が、日本的であると感じた。
着物、下駄、木造家屋、土間、瓦屋根、土手、古寺、灯ろう、機関車、居酒屋。
おそらくその時代の象徴であることを認識されていたそれらは、すなわち、
いずれ失われるであろう、はかない日常であるがゆえに美しい。
後世に、なつかしいものとなる予言であったかのように思えた。
このシーンが、いちばん好き。
じつは、このストーリー、今の自分の状況と通じるところがある。
全くの偶然のタイミングで見たストーリーも知らない60年前の映画に胸打たれた。
そのことが最も大きな驚きであった。
タイトルだけ覚えてて、内容に関しては、なんとなく戦争映画というくらいしか知らなかった。
つい最近、映画評を見て、いてもたってもいられなくなり、レンタルした。
ニューギニア戦線は、食糧補給もないまま、行軍を続け、泥水を飲み、生きているものなら何でも食べる
という極限状態であったという。その帰還兵である奥崎謙三のドキュメンタリー。
戦地で終戦後に上官に処刑された兵士の真相追及がメインテーマである。
かつての上官を探し、そして真相を暴いてゆく。その手法は、恫喝と暴力。殴る、蹴る。
派手な宣伝カーに乗り、アジテーションする冒頭、この男の精神が破たんしていると思えた。
しかし、その言行動は、逸脱しているが、「戦争を許さない」という貫かれた意志に気づいたとき、
至極まともな人間に思えた。
最近、主張のマイノリティーについて考えさせられる。
正論は怒涛のごとく、いとも簡単にマイノリティーを押しつぶすことをいとわない。
しかし、少数の反対意見は、数は少なくとも重みがある場合も多々ある。
そこを見誤るといずれ権力者の意のままにされはしまいか。
「はだしのゲン」は、そもそも人気マンガなので、今さら閉架がどうこうというのは、ナンセンスなのだ。
すなわち、そこでの批判は多数であることがすでに前提の安全な批判である。
残虐さゆえに戦争を否定するのは、動機として弱いと思う。だから、「はだしのゲン」をはじめ、
そういったショック描写を反戦の根拠に据えるのは稚拙ではあるまいか。
戦争は、国民が騙され続けたが故に否定されるべきだと思う。国が国民を欺くなど本末転倒。
戦争について考えることを再スタートさせられた。