パソコンの故障に伴い、1ヶ月間更新が途絶えてしまったことを皆様にお詫びしたい。
中断前にアップした、日本男子マラソンの現有勢力についての考察記事について、続編を仕上げるつもりであったが、1ヶ月もの沈黙の間にネタそのものの鮮度が賞味期限になってしまった。どこかの料亭みたいに、ネタの使いまわしをするのは止めておこう。五輪代表については、いずれ、他国の代表の顔ぶれが判明してから、予想めいた事を書くことにするつもりだ。まあ、いつも言っていることだが、男子のマラソンも、バレーやサッカーよりは、メダルを獲れる可能性は高いと思っている。
修理に出したパソコン、8年間使用していた、僕が最初に買ったパソコンだが、既に部品の在庫がメーカーにもなく、修理は不可能との宣告を受けた。覚悟はしていたが、仕方がない。
悔やまれるのは、アテネ五輪以前に書いた記事の大半、「アーカイブス」として再掲載したもの以外が全て閲覧不能となったことである。せめてもの救いは、アテネ五輪代表選考をめぐる日々の心境を描いたシリーズ「土佐日記」、「大丈夫は愛の言葉」を再掲載しておいたことだけだ。
消えてしまった雑文も追々、記憶を頼りに復元していこうと思う。今回、早速、僕がパソコンを買うきっかけについて、再び、語ってみようと思う。
僕が初めてパソコンを買ったのが、ちょうど8年前の6月である。それまで、パソコンとは全く縁の無い生活を送っていた。
インターネットには多少興味が沸いていた。しかしながら、例の「2000年問題」をめぐる報道が、二の足を踏ませていた。
「ケータイでインターネットが見られる。」
という謳い文句で、iモード対応の携帯電話を買ったが、当時は携帯に対応したサイトが本当に少なかった。
2000年が明けた直後に読んだ「ランナーズ」誌の2000年4月号に掲載された、「ランナーズ・オピニオン」というコラムがきっかけだった。
「パソコンネットが広げるランナーの輪」というタイトルで、有名実業団チームのコーチが寄稿していた。
パソコン通信で市民ランナーとの交流を深めたり、さまざまな情報を得ることの楽しさがそこに描かれていた。コーチ氏の引退レースとなった'97年のびわ湖マラソンでは、「ネット上でしか知らなかった」仲間たちが沿道に駆けつけ、応援してくださったのだという。
'99年の北海道マラソンに出場した際、スタート地点の真駒内競技場の周辺で、そろいのランシャツを着たグループがやたらと盛り上がっていたのを見かけた。大阪弁も耳に入ってくる。関西から団体で来たのですかと声をかけると、ネットを通じて知り合った全国の仲間で作ったクラブチームだという。年に何度か、大会に出る時が、メンバーたちと顔を合わせる機会なのだとのこと。このような交流があるのかと、珍しいものを見る目で彼らを見ていた。
なるほど、こういった交流の輪がひろがっているのか。コラムの最後に記されていたコーチ氏のホームページに携帯からアクセスしてみた。掲示板や、大会の情報はなんとか見ることができた。メールを出してみると、返事が返って来たのもうれしかった。コーチ氏は僕より一学年下になるが、彼らが高校三年生の時のインターハイは四国で行われ、陸上競技は愛媛マラソンの発着点である、総合運動公園の陸上競技場で行われた。コーチ氏にとっては、それが初めての県外遠征だったという。ちなみに、同学年には、世界選手権マラソン代表の篠原太氏、福岡とびわ湖に優勝している渋谷俊浩氏、30kmロード元日本記録保持者の西本一也氏らがいる。
何度か、メールをやりとりしているうちに、コーチ氏から思い切り背中を押された。
「かんちゃん、パソコン買っちゃいましょうよ!面白いですよ!」
当時の僕の勤務先には、家電販売の部門があり、毎年6月にはキャンペーンが行われていた。その時を待って、カタログ等を集めてみた。コーチ氏にもアドバイスをいただいた記憶がある。彼も愛用していた、T社のノートパソコン、ダイナブックに決めた。勤務先の取引関係の事情で、T社の製品がもっとも割引き率が高かったのも決め手になった。
注文して、製品が届き、ウインドウ98を起動させて、インターネットのプロバイダに加入し、接続を完了した。二日間はまともに睡眠を取らなかった記憶がある。最初に加入したプロバイダは、かつては陸上競技部を持っていた企業のものだった。当時は、よくテレビでもCMを打っていた。「傷だらけの天使」のテーマ曲を使用していた記憶がある。
シドニー五輪を目前に控えていた時期、マラソン関連のサイトもいくつか見つけた。当時から今にいたるまで続いているのは、陸上記者T氏のサイトくらいではないかと思う。いくつかの掲示板に書き込みもした。あの巨大掲示板とは、距離を置くようにした。
数ヶ月で、自分でもホームページを持ちたくなってきたが、どうやって作ればいいのか、見当がつかなかった。ホームページビルダーというソフトを買わないといけないようだが、果たして、自分の思うようなものが作れるだろうか?
明けて2001年の元旦。ニューイヤー駅伝の情報を探していて、偶然にも、スポーツ新聞社が管理している、G社のサーバーを使用した「簡単ホームページサービス」のサイトを発見した。即、会員となった。メールの送受信と、掲示板の書き込みができる程度のパソコン知識で簡単にサイトが持てるというのが売りだった。
21世紀の始まりとともに、「KANCHAN'S AID STATION」を立ち上げることができたのが、本当に幸運だったと思う。以後7年間、G社のシステムは、その後ブログにとって代わられ、先細りとなり、サーバーも2回変更したが、今も「3」として、続けることができている。サイトを媒介として、さまざまな人と知り合うことができ、その中には、かけがえのない友人も出来た。40歳を過ぎて、ここまで自分の生活を変えてくれるようなものにめぐり合えるとは、思いもしなかったことだ。
匿名によるコミュニケーションというのが、ネットの利点でもあり、問題点でもある。僕の場合、ランナーとしての自分の実績やレースの成績を掲載することに当初は迷いがあった。それによって、僕がどこの何者であるかが容易に判明するからだ。結果として、「かんちゃん」というハンドルネームを使用してはいるが、事実上、「実名」で書き込みをしているのと同様の運営をしていることとなっている。そのことが、一定の「信頼」と「責任」をこのサイトに与えているものだと、自負している。
7年以上にわたって働きつづけたダイナブックも、先月その寿命を終えた。空白期間を経て、今月8日に新しいノートパソコンが、我が家にやってきた。中古ではあるが、現役時代、遅咲きの苦労人ランナーとして、応援していた人が駅伝監督を務めている企業の製品だ。8年間で、ネット接続に関わる経費も半額以下に減ったが、今のパソコンでは、動画も楽しめる。
今後も新たな気分で、拙サイトを更新していこうと思う。今後は、もっと、僕個人の走ることについて、もっと語っていこうと思っている。
僕をネットの世界に導いてくださったコーチ氏も、現在はそのチームの監督に就任している。チームには今や、ケニア代表ランナーやサブテンランナーも所属し、今後が楽しみなランナーも育っている。彼、若倉和也さんと、小森コーポレーション陸上競技部の今後の更なる発展と健闘を祈りたい。
中断前にアップした、日本男子マラソンの現有勢力についての考察記事について、続編を仕上げるつもりであったが、1ヶ月もの沈黙の間にネタそのものの鮮度が賞味期限になってしまった。どこかの料亭みたいに、ネタの使いまわしをするのは止めておこう。五輪代表については、いずれ、他国の代表の顔ぶれが判明してから、予想めいた事を書くことにするつもりだ。まあ、いつも言っていることだが、男子のマラソンも、バレーやサッカーよりは、メダルを獲れる可能性は高いと思っている。
修理に出したパソコン、8年間使用していた、僕が最初に買ったパソコンだが、既に部品の在庫がメーカーにもなく、修理は不可能との宣告を受けた。覚悟はしていたが、仕方がない。
悔やまれるのは、アテネ五輪以前に書いた記事の大半、「アーカイブス」として再掲載したもの以外が全て閲覧不能となったことである。せめてもの救いは、アテネ五輪代表選考をめぐる日々の心境を描いたシリーズ「土佐日記」、「大丈夫は愛の言葉」を再掲載しておいたことだけだ。
消えてしまった雑文も追々、記憶を頼りに復元していこうと思う。今回、早速、僕がパソコンを買うきっかけについて、再び、語ってみようと思う。
僕が初めてパソコンを買ったのが、ちょうど8年前の6月である。それまで、パソコンとは全く縁の無い生活を送っていた。
インターネットには多少興味が沸いていた。しかしながら、例の「2000年問題」をめぐる報道が、二の足を踏ませていた。
「ケータイでインターネットが見られる。」
という謳い文句で、iモード対応の携帯電話を買ったが、当時は携帯に対応したサイトが本当に少なかった。
2000年が明けた直後に読んだ「ランナーズ」誌の2000年4月号に掲載された、「ランナーズ・オピニオン」というコラムがきっかけだった。
「パソコンネットが広げるランナーの輪」というタイトルで、有名実業団チームのコーチが寄稿していた。
パソコン通信で市民ランナーとの交流を深めたり、さまざまな情報を得ることの楽しさがそこに描かれていた。コーチ氏の引退レースとなった'97年のびわ湖マラソンでは、「ネット上でしか知らなかった」仲間たちが沿道に駆けつけ、応援してくださったのだという。
'99年の北海道マラソンに出場した際、スタート地点の真駒内競技場の周辺で、そろいのランシャツを着たグループがやたらと盛り上がっていたのを見かけた。大阪弁も耳に入ってくる。関西から団体で来たのですかと声をかけると、ネットを通じて知り合った全国の仲間で作ったクラブチームだという。年に何度か、大会に出る時が、メンバーたちと顔を合わせる機会なのだとのこと。このような交流があるのかと、珍しいものを見る目で彼らを見ていた。
なるほど、こういった交流の輪がひろがっているのか。コラムの最後に記されていたコーチ氏のホームページに携帯からアクセスしてみた。掲示板や、大会の情報はなんとか見ることができた。メールを出してみると、返事が返って来たのもうれしかった。コーチ氏は僕より一学年下になるが、彼らが高校三年生の時のインターハイは四国で行われ、陸上競技は愛媛マラソンの発着点である、総合運動公園の陸上競技場で行われた。コーチ氏にとっては、それが初めての県外遠征だったという。ちなみに、同学年には、世界選手権マラソン代表の篠原太氏、福岡とびわ湖に優勝している渋谷俊浩氏、30kmロード元日本記録保持者の西本一也氏らがいる。
何度か、メールをやりとりしているうちに、コーチ氏から思い切り背中を押された。
「かんちゃん、パソコン買っちゃいましょうよ!面白いですよ!」
当時の僕の勤務先には、家電販売の部門があり、毎年6月にはキャンペーンが行われていた。その時を待って、カタログ等を集めてみた。コーチ氏にもアドバイスをいただいた記憶がある。彼も愛用していた、T社のノートパソコン、ダイナブックに決めた。勤務先の取引関係の事情で、T社の製品がもっとも割引き率が高かったのも決め手になった。
注文して、製品が届き、ウインドウ98を起動させて、インターネットのプロバイダに加入し、接続を完了した。二日間はまともに睡眠を取らなかった記憶がある。最初に加入したプロバイダは、かつては陸上競技部を持っていた企業のものだった。当時は、よくテレビでもCMを打っていた。「傷だらけの天使」のテーマ曲を使用していた記憶がある。
シドニー五輪を目前に控えていた時期、マラソン関連のサイトもいくつか見つけた。当時から今にいたるまで続いているのは、陸上記者T氏のサイトくらいではないかと思う。いくつかの掲示板に書き込みもした。あの巨大掲示板とは、距離を置くようにした。
数ヶ月で、自分でもホームページを持ちたくなってきたが、どうやって作ればいいのか、見当がつかなかった。ホームページビルダーというソフトを買わないといけないようだが、果たして、自分の思うようなものが作れるだろうか?
明けて2001年の元旦。ニューイヤー駅伝の情報を探していて、偶然にも、スポーツ新聞社が管理している、G社のサーバーを使用した「簡単ホームページサービス」のサイトを発見した。即、会員となった。メールの送受信と、掲示板の書き込みができる程度のパソコン知識で簡単にサイトが持てるというのが売りだった。
21世紀の始まりとともに、「KANCHAN'S AID STATION」を立ち上げることができたのが、本当に幸運だったと思う。以後7年間、G社のシステムは、その後ブログにとって代わられ、先細りとなり、サーバーも2回変更したが、今も「3」として、続けることができている。サイトを媒介として、さまざまな人と知り合うことができ、その中には、かけがえのない友人も出来た。40歳を過ぎて、ここまで自分の生活を変えてくれるようなものにめぐり合えるとは、思いもしなかったことだ。
匿名によるコミュニケーションというのが、ネットの利点でもあり、問題点でもある。僕の場合、ランナーとしての自分の実績やレースの成績を掲載することに当初は迷いがあった。それによって、僕がどこの何者であるかが容易に判明するからだ。結果として、「かんちゃん」というハンドルネームを使用してはいるが、事実上、「実名」で書き込みをしているのと同様の運営をしていることとなっている。そのことが、一定の「信頼」と「責任」をこのサイトに与えているものだと、自負している。
7年以上にわたって働きつづけたダイナブックも、先月その寿命を終えた。空白期間を経て、今月8日に新しいノートパソコンが、我が家にやってきた。中古ではあるが、現役時代、遅咲きの苦労人ランナーとして、応援していた人が駅伝監督を務めている企業の製品だ。8年間で、ネット接続に関わる経費も半額以下に減ったが、今のパソコンでは、動画も楽しめる。
今後も新たな気分で、拙サイトを更新していこうと思う。今後は、もっと、僕個人の走ることについて、もっと語っていこうと思っている。
僕をネットの世界に導いてくださったコーチ氏も、現在はそのチームの監督に就任している。チームには今や、ケニア代表ランナーやサブテンランナーも所属し、今後が楽しみなランナーも育っている。彼、若倉和也さんと、小森コーポレーション陸上競技部の今後の更なる発展と健闘を祈りたい。
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