KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

マラソンを愛する皆様、こんにちは。
2022年は積極的に更新していく心算です。

アーカイブス「マラソン春秋」vol.10

2007年03月21日 | 「マラソン春秋」アーカイブス
僕の「土佐日記」:“大丈夫”は愛の言葉vol.1
at 2004 04/01 21:17

 3月20日(土)

「女子マラソン五輪代表は、国民投票で選べ!」という、僕としては皮肉のつもりで書いたことがけっこうリアクションがあった。思いもよらぬ人からも評価していただいたし、TBS系の朝のニュース番組でみのもんたも似たような事を言ってたらしい。(友人からの情報)

週刊誌で時々「ワイド企画」として行う「天下の暴論」といった特集で、誰か似たようなことを言う人が出現するかもしれない。(アイデア料払ってよ)

ところで、週刊誌と言えば、元総理の孫娘の離婚についての記事で発売差し止めを食らった週刊誌に、金メダリストがなぜ、名古屋を走らなかったかという記事が載っていたそうだが、どんな内容だったのかな?

20年来愛聴していて、何度かライブを見に行ったことのあるシンガー・ソングライターの久々の松山でのライブをキャンセルしてまでも行くべき用事ができた。水曜日にもらったメール。

土佐礼子の祝賀会への案内だった!!!

彼女の大学の陸上部の先輩であり、数年前から交流している人が幹事となり、僕も誘ってくれた。彼女とは確かに、大学の15年先輩にあたるのは確かだが、陸上部ではなかったし、と遠慮しつつも嬉々として、松山市内のホテルへ出かけていく。

彼女の高校、大学の同級生、先輩、後輩らが中心の集まりで、僕は参加者の中でも年配の方だった。マスコミ関係者の取材はなし。まったくのプライベートなパーティーだった。

紺のブレザーにジーンズという姿の彼女はなかなか新鮮。けっこう顔見知りの人もして、リラックスすることができた。

サインは持っているので、一緒に写真をとってもらった。写真をとりこむための機器を持っていないので、ここにお見せできないのが残念だ。彼女には、
「ドラえもんの弟です。」
と挨拶した。僕の姉が彼女の中学の担任教師だった頃のニックネームである。

これまで、県内の大会等で見かけていたが、年齢も記録もかけ離れていたために、話をしたことのなかったランナーたちとも話ができた。彼らが、このホームページを見ていてくれていて、掲示板を閉じてしまったことを残念がっていたのが意外と同時に、うれしく思えた。

「必ず、再開するけんね。うん、野球が始まったら、みんなマラソンの事なんか忘れるやろから、その頃にはね。」

幹事氏には
「大変でしたね。」
と声をかけてもらい、
「このひとが、あの『土佐礼子応援掲示板』のWEBマスターですよ。」
と、他の人に紹介してもらった。松山商業の同級生たちには、二宮清純氏の
「奇跡のバックホームのごとき走り」
という喩えがけっこうウケていた。

彼女もお約束の知事や市長らへの挨拶回り等で、せっかく帰って来てもなかなか休めなかっただろうから、今日一日でなつかしい仲間たちと再会できて、リフレッシュできただろう。

今度、彼女に会えるのは、アテネの祝賀会だろう。

デビュー曲がいきなり、オリコンのトップ10入りした松山出身のバンド、ジャパハリネットも彼女と同じ松山大学の出身だ。彼らに、応援ソングでも作らせたらどうかな?

 3月21日(日)

マラソン・ファン以外の友人からも、
「よかったよかった。」
「感動した。」
とメールをもらった。東京在住で、娘が愛媛大学に通っている友人に、
「お嬢ちゃんの大学の隣りの学校からオリンピック選手が出たから、応援よろしくね。」
とメールを出した。
愛媛大学と、松山大学は隣同士なのである。キャンパスを郊外に移転させる大学が多い中、両校とも創立以来ずっと同じ、市内の中心部に近い場所にある。友人の娘さんが松山を気に入った理由のひとつが、
「ラフォーレやタワー・レコードまで、自転車で行ける!」
ことだったという。彼女の実家、八王子から渋谷や原宿までは遠い。

そんな大学まで、土佐の自宅からは約15km。原チャリで通学していて、時にはランニングで帰宅することもあったという。

まつえレディースハーフマラソン、三井住友海上の大平美樹がコースレコードで、2位に1分以上の差をつける独走で優勝。彼女も松山商業の出身である。3年前の実業団駅伝で優勝のゴールテープを切った時よりも、フォームがよくなった。あの時は土佐が彼女に付き添っていたのをテレビで見た。「すぽると」で密着特集があったが、タスキを受け取って走り出した大平を目に涙を浮かべて見送る土佐を、テレビで見る渋井陽子が、
「オマエが泣いてどうすんだよ!」
とつぶやきながら、涙を流していたのが印象的だ。エースが不調の時に、優勝できるチームを作り上げた鈴木秀夫監督の手腕は大したものだと思う。大平も、先週の先輩の力走に大いに刺激されただろう。そして、この春からは、故郷の隣の町(4月1日より合併して、ひとつの市になった。)出身の山下郁代がチームに入ってくる!

土佐だけじゃない!彼女たち、土佐を追いかける後輩たちにエールを送るためにも、閉じたままの掲示板を再開しなくては!と思った。


僕の「土佐日記」~大丈夫”は愛の言葉vol.2
at 2004 04/13 22:36

 3月22日(月)

ひっそりと、ひっそりと、できるだけひっそりと「土佐礼子応援掲示板」を再開した。気づいた人だけが書き込んでくれたらそれでいい、と思った。

再開して半日しても、書き込みはゼロ。それ以降ようやくぽつぽつと現われた。再開を喜んでいる人が書き込んでくださったのが嬉しかった。

再開と同時に、タイトルも変える事にした。検索エンジンを頼りに、わけのわからん連中が嵐となって押し寄せるのを防ぐためである。昨日、「風早娘」というニックネームを思いついていた。TBSが世界選手権の代表選手におかしなニックネームを付けているのに倣って、掲示板で自分たちの考えたおかしなニックネームを披露しあったことがあった。土佐さんに、「高速お遍路さん」と名づけたら、一部ではウケた。

彼女の、そして僕の故郷である北条は、古来より「風早の地」と呼ばれていた。今でも、この名称は根強く残っている。たとえば、昨年の阪神タイガース優勝の瞬間、「風早猛虎会」の人たちが近所の川に飛び込んでいた。

それにちなんで、風のように早い、というイメージで彼女のニックネームにしようと思った。全国的に定着させたいなと思うくらいだ。

掲示板のタイトルを「伊予路から世界へ」に変えた。愛媛出身のランナーたちにエールを送る掲示板にしようと(駅伝シーズンには、土佐さんの話題がなく、他のランナーのことばかり書き込んでいた)思ったのだ。

 3月23日(火)

一部を除いて、愛媛では週刊誌の発売が一日遅れる。「フライデー」が土曜日発売というのはしまらない話だが。

今週発売の週刊誌、五輪の代表選考をめぐるごたごたを多くの雑誌が取り上げたが、予想はしていたが、どこも大したものはなかった。相も変わらず、
「はじめに陸連批判ありき」
「はじめに選考方法批判ありき」
を前提として書かれていて、今回の選考が過去の選考と比べて、いかに「画期的」かという評価など皆無。どんな選び方をしたところで、漏れた選手を悲劇の主人公扱いしたがるのも予想通りだったが、今回は特に、「国民栄誉賞のヒロイン」を落選させたということで、「悲劇度」が過去最高である。

当然ながら、鯉川なつえさんのようなコメントや、海外のマラソン選手の代理人がかつて朝日新聞で語っていた、
「日本の代表選考方式は、実に理にかなったすばらしいものだ。」
という意見は完全に黙殺されている。

放映権料目当てに、選考レースを複数開催していることが果たして、そんなに悪いことなのか?そうやって得た収入を、陸連はマラソン以外のトラック&フィールド種目の強化費に充てているのだが。

日頃、プロ野球界の「盟主」を標榜する球団と、そのオーナーを批判しているスポーツライターまでもが陸連を批判しているのには失望した。と言うのも、僕は誤解を恐れずに言うと、金メダリストとその指導者は、マラソン界における「ジャイアンツ」だと思っているからだ。ジャイアンツが嫌いで、
「あれだけ金を使えば、勝って当然だ。面白くない。」
と言っている人が、金メダリストがアテネに行けないのはおかしい、と言っているのが僕には不思議に思える。

特に僕を苛立たせたのが、週刊現代に掲載された陸連副会長、今回の選考会議で唯一、金メダリストの代表入りを主張し却下された人物の激白記事だ。

「名古屋のレースを見て、心を動かされなかった人間に、マラソンのことを語って欲しくない。」

と先に僕は書いた。あろうことか、陸連副会長がそういう人物だった。金メダリストを、どうしてもアテネに出したかったのなら、それでいいさ。せめて、名古屋で優勝したランナーに対して、ねぎらいの言葉のひとつをかけてもやれんのか!!!!

怒りが収まらず、それを鎮めるために、ホームページを更新した。今回の名古屋の直前から、レース当日の感動、代表決定の喜び、そして、それらがずたずたに引き裂かれたこと、それを包み隠さず記録しようと思った。あの夜、いい年したオヤジのくせに、友人に泣きながら電話をかけたことなど、書くまいと思ったが、書かなくてはいけない、と考えを変えた。


こうして、書き始めたのが、今回、「土佐日記」と名づけたシリーズである。パソコンを修理に出しているために、更新が大幅に遅れたが今回で一応、完結としよう。その間、事情は少し変わった。サブタイトルは、彼女が色紙に書き添える「大丈夫」というメッセージに由来するものだが、更新が遅れている間に、彼女の高校時代のライバル校が甲子園で偉業を達成し、
「やればできるは魔法の合言葉」
というもっと印象的なフレーズが全国に知られることとなった。

今回、実に貴重な経験ができたと思う。マスコミやインターネットの、負の要因を垣間見ることができた。

予想通り、野球が始まれば、マラソンの話題など皆、忘れ去ってしまったみたいだ。五輪が近づけば、また、盛り上がるのかもしれない。その時は、また「土佐日記」が再開するかもしれない。

このサイトを開設したときからずっと、エールを送って来た、土佐礼子のアテネでの健闘を、そして他の代表選手、さらに選考レースで敗れた多くのランナーたちの、新たなる目標に向けての健闘を祈りたい。

※※※※※※※※※※※

文中に出てくる「土佐礼子応援掲示板」は、現在は「マラソン掲示板・Neo MOMA」と
改題している。

3年前の名古屋から代表発表、そして土佐の祝賀会に出席するまでの日々のことは、僕にとっては決して忘れることのできない日々であった。そして、その時の喜びは、今の喜びであり、その時の怒りは、今の怒りである。

僕が3年前に経験したことを、最近、このサイトにいらっしゃるようになった方にも読んでいただこうと思い、今回こうして再収録した。しかし、これが来年の今頃の未来予想図になるかもしれないのだ。

「土佐礼子の優勝祝賀会の幹事」が誰かは、説明するまでもないと思う。





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