まずはお詫びします。前回の「アーカイブス」をvol.17と表記しましたが、16の誤りでした。それと、改めて過去の「アーカイブス」をチェックしていたら、同じ記事を2回掲載しておりました。あえて削除はしないことにしましたので、お暇な方は探してみてくださいませ。
「プロフィール」の僕の全マラソン成績に記したように、これまで僕は2回海外マラソンに出場している。初めての海外マラソンのことを記した記事を再掲載してみる。ちょうど12年前の今日のことだった。
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回想/バンクーバーマラソン’96 vol.1~人生で最も長い一日
at 2001 05/06 11:26
5年前の5月5日、35歳の誕生日を僕はカナダのバンクーバーで迎えた。僕にとって初めての海外マラソン出場というより、海外旅行そのものが生まれて初めてだったのだ。
バンクーバーは、毎年5月の第1日曜日に開催される。その年の第1日曜が僕の誕生日であったことが、旅立ちを決心させるきっかけになった。
生まれて初めてのことというのは、いろいろと大変だ。パスポートも取りに行った。僕の前で順番を待っているのは土木作業員のおじさんたち。彼等の行く先は台湾。何しにいくのかは、問うまいぞ。彼等からすれば、マラソンを走るために海外へ行く、しんどい想いをするために大枚をはたくという事の方がよほど信じがたいことかもしれない。
ゴールデンウイークに海外旅行なんて、自分には一生縁の無いものだと思っていた。マラソンでも始めてなければ、行きたいなどとは思いつかなかったはずである。実際、マラソン・ツアー以外の海外旅行には、今も興味がない。しかし、この大会、思ったより人気がないのではないかと思えるような事があった。
3月の半ば、旅行会社から電話があった。参加者が規定の人数に達しないために、ツアーが中止になるかもしれないので、その際はご了承していただきたいとの事。
!!!!そんな事言われても、どないせいいうんや?しかし、どうにか人も集まったようで、無事出発の運びとなる。
参加者の名簿が届く。12人ほどのこじんまりとしたツアー。女性の参加者は一人。しかも、メンバー最高齢の男性の奥方。後はほとんど、40~50代のおじさんばかりで、僕より若い人は2人。「出会い」に期待していた僕がバカだった。
後で聞いた話では、こういうマラソンツアーの主役は、ほとんど熟年の男女で、若い独身女性が多数参加するのはホノルルくらいらしい。
添乗員さんの話
「いやあ、ホノルルはいいですよお。(以下略)」
出発も近づいてきた時に、腰痛が出てきた。当時は、一日中立ち仕事だったし、8時9時までの残業は当たり前、そんな毎日の中、少しでも距離を踏むために、通勤ランまでしていた。その疲れが出たのだろうか。
出発前日も9時まで残業。帰宅してあれこれ準備していたら、就寝は1時。それでも、5時には目をさましてしまった。
松山から羽田まで飛行機で。そこからリムジンバスで2時間かけて成田まで。成田空港は広かった。この広い空港がどれほどの犠牲とともに生まれたものであるか、僕が子供の頃、テレビのニュースは毎日、空港建設に反対する人々と機動隊の衝突とを映していた。北山修氏のエッセイ「さすらいびとの子守唄」にも、
「正義の味方、月光仮面は三里塚でどちらを味方するだろう?」
と書かれていた。
(当時大学生だった僕の姉にこの質問をすると
「やっぱり、月光仮面は権力の味方はしないんじゃないの?」
という返事がもどってきた。)
つい、数日前に反対派のセクトの一つが和解に応じたばかりで、三里塚の闘争はまだ終わっていなかった。バスが空港の入り口に入る直前に、数人のガードマンが車内に入ってきて、パスポートをチェックされた。海外旅行が「大変な事」であることを思い知らされた。
空港の東京三菱銀行の窓口で両替。「人生ゲーム」の紙幣のようなカナダドルを渡される。カナダ西部との時差は17時間。17時45分発カナディアン航空のDC-10で太平洋を越える。隣の席の、坂東英二みたいなおっさんがやたらうるさい。機内で3回も食事が出た。一体正味何時間寝られたのかはわからない。大柄でマギー・ミネンコ(古い!)に似た顔立ちのスッチーが、実は日本人で、絵に描いたような東洋系美女が実は中国系マレーシア人なので日本語が通じなかった。
機内は全面禁煙。トイレですってもダメ。マラソンランナーにでもなってなけりゃ、海外旅行なんて行けなかっただろうな。
バンクーバー空港に着いたのは、現地時間で3日の朝。気温は10℃、成田よりも10℃以上低い。バスで市内へと。レストランで食事。これまで食べた食事で最もうまかったのは野菜サラダだった。レタスの味が濃いのだ。ドレッシングなどつけずに、塩をふっただけで十分。
ショッピングセンターの中にある受付会場で、参加受け付けを済ませる。バンクーバーは移民の町である。多民族都市というのか、目立つのは本来の意味のインディアン。ネイティブ・アメリカンのことではない。ターバンを巻いたひげ面の男性と、サリー姿の女性をよく見かける。日本人も多い、と思ったら、日本人同士に見えたカップルが英語で会話している。この町は北米西海岸では、サンフランシスコに次いで二番目に大きなチャイナタウンがあるという。
後で聞くと、香港の中国への返還を1年後に控え、香港からの移住者が多くなっているが、中にはカタギの仕事にあらざる方々も流入していて、現地の同業者と抗争を起こしているとかで、チャイナタウンには、今は近寄らぬ方が無難と言われた。
バスでコースを下見。スタンレー・パークの美しさは想像以上。来てよかった、と思える。
夕食は添乗員さんに案内され、地元で評判の「ブラザーズ」というレストランへ。店内はまるで古い教会のようで、店内で働く人は皆、修道士のような服を着ている。店の名前は「兄弟」という意味ではないようだ。パスタにサーモン・ステーキ、サラダを頼むが、量が多すぎて食べきれなかった。
ホテル・ジョージアの1216号室に戻ってきたのは18時15分。成田を出発してから30分しか経っていない!!!1996年5月3日は僕の人生でもっとも長い一日となった。
回想/バンクーバーマラソン’96 vol.2~ささやかなカルチャー・ショック
at 2001 05/07 00:01
5月4日の朝は少し寝坊した。朝5時半にロビーに集合して、モーニングランというブランがあったのだが、目を覚ましたのは6時過ぎ。
せっかくなので、たったひとりでジョグにでかける。市内の中心部からわずか20分も走れば、自然のあふれる公園、日比谷公園の何百倍とか言っていた公園にやって来れる。何人かのジョガーとすれ違う。僕はナイキのシューズとシャツを使っているのに、カナダのランナーがアシックスをはいている。イングリッシュ・ベイに沿ったコースには、自転車やローラースケート専用のレーンもある。奥へと足を運べば、えひめ森林公園のごとき、ハイキングコース。足が喜んでいるのがわかる。足だけでなく、身体全体が走れることを喜んでいるのだ。気がつけば、2時間近く走っていた。マラソン前日に走る距離としては度を越している。この代償は翌日のレースで払わされることとなるのだが。
日本ではめったに使わない、ウォークマンで音楽を聴きながら走っていた。持ってきたカセットは、二ール・ヤング、ザ・バンド、ジョニ・ミッチェル、ブルース・コバーン、ロビー・ロバートソン。そう、みんなカナダ人ばかり。
今日は夜までフリー。ひとりで市内をぶらぶら歩く。
ブルース・コバーンというのは、カナダでは人気の高いシンガー・ソング・ライターであり、ギタリストである。彼のアルバムは歌詞が英語とフランス語で書かれている。この国はバイリンガル国家なのである。ホテルの部屋に置いてあるシャンプーも、観光パンフも、二ヶ国語表記である。バンクーバーを州都とするのは、ブリティシュ・コロンビア州というだけあって、英国の影響の強い地域である。それが伺えたのは、市内の中心を赤い二階建てバスが走っていたこと、公園でクリケットをしていたこと、公園にフィッシュ&チップスの屋台があったことなどだ。国民的人気スポーツはアイス・ホッケーだが、野球は人気なく、まだ、ラグビーやサッカーの方が人気があるようである。日本の実業団のラグビー部の選手のサイン色紙を飾る土産物屋も見かけた。
そういえば、中村祐二選手はイェーデボリ世界陸上の前に、この地で合宿を行っていた。僕と入れ違いに、アトランタ五輪マラソン代表となった真木和さんが合宿に来たらしい。
日本人の学生が短期留学で多数来ていて、彼等がアルバイトしている土産物店が多いので、英語が話せなくても買い物はできる。しかし、僕が感激したのは、自分の話す英語が通じた瞬間である。
僕は免税店で売られているようなものには全く興味が無く、町のレコード店に足を運んだ。CDは安い。旧譜なら900円前後。ニルス・ロフグレンやブルース・コバーンの日本盤では出ていないCDを買う。ポイント・カードを渡されたので、店員に
「のー・にーど、あいあむ・つーりすと、あんど・まらそんらんなあ。つもろう、あい・ういる・らん。」
と言うと
「Oh!」
と感心したような表情を見せた。
ビートルズ・マニアでロック・シンガーだった、作家の松村雄策氏の本に、ロンドンへポール・マッカートニーの取材に出かけた時の話が書かれているが、その中に、ロンドンでは、白人からは早口で英語で話しかけ、何度も
「もっとゆっくり話してくれ。」
と頼んだのに、黒人のタクシー運転手や店員などは、日本人と分かると、聞き取りやすい発音でゆっくり話しかけてくれるというエピソードが記されていたが、同様のことは、バンクーバーでもあった。土産を買った店で、中国人の店長が
「ドーモアリガトウ。」
とお礼を言い、それに応えて僕が
「さんきゅーべりまっち。」
と答え、回りにいた客が大笑いしていた。
バンクーバーの街は、前年に北海道マラソンに出るために訪れた札幌に似ていると思った。人口百万を越える都会なのに、おおらかというか、ゆったりしている。時間もゆっくり流れている。道幅が広いせいか、クルマの流れもスムーズだ。公共交通が充実しているせいか、自転車も少なく、原付は皆無である。日本ではもう見られなくなったトロリー・バスを僕は初めて見た。市内を走るバスは先に述べた、ロンドン名物と同じ二階建てバスの他に、普通のバスは車椅子でもそのまま乗れる、ノン・ステップ・バスである。(実は僕の大学での専攻は都市交通論だった。)
さて、僕がバンクーバーで最もおすすめするスポット、そこはB・Cドームの中にあるスポーツ・ミュージアムである。
NFLのバンクーバー・グリズリーズのホーム・グラウンドである、このドームが、明日のマラソンのスタート/ゴール地点である。スタジアムの前は、子供たちがスケボーをしている。うまい。松山の総合公園や、土曜の夜の大街道商店街に連れて行けば、すぐにヒーローになれるはずだ。そこにあった、スポーツ・ミュージアム。カナダの有名スポーツ選手にまつわるものが展示されているが、いきなり飛び込んでくるのが、ジン・キニスキーのポスター。さらに、横に置いてあるビデオで流しているのが、カルガリーのハート兄弟の試合、となると、マラソンマニアとなる前には、プロレスマニアだった僕にはたまりません。
さすがに、アイス・ホッケーの選手に関する展示物が多い。カナダ代表にとっては、歴史に残る名勝負なのであろう、何年か前のソ連との試合がビデオで流れていた。好きな人にはたまらんだろうな。
僕にとっては感激の涙ものは、札幌冬季五輪のフィギア・スケート銀メダリスト、カレン・マグヌッセンのメダルや、当時の衣装、日本で買ったであろう日本人形。そしてプロに転向後に出された彼女の人形。
マグヌッセンの名前は、意外と忘れられている。ジャネット・リンは今でも知られているのに。しかし、僕は札幌のエキジビションで小さな傘を片手に、「雨にぬれても」に合わせて踊っていた彼女を覚えていた。リンよりも彼女の方が美人だった。
そして、もうひとつ、忘れられないのは、カナダの年間優秀スポーツ選手たちの写真を飾っていたところ。そこでは、五輪のメダリストも、パラリンピックのメダリストも同格に扱われていた。これは、ちょっとしたカルチャー・ショックだった。僕たちは、パラリンピックの日本人メダリストの名前を何人知っているか?
マラソンの柳川さんくらいなら、かろうじて知っていたが。
そして、これは、市内を走るバスがノン・ステップであることと、つながっていると思った。このとき、まだ、日本に「バリヤフリー」という言葉は定着していなかった。それどころか、2年後の長野パラリンピックの代表選手が五輪代表と同じユニフォームを着ることに異議を唱える人間が閣僚の中にいた。
日本という国が嫌になる原因をつくるのは、「自虐的な」歴史教科書のせいだけじゃない、と僕は思う。
夜はオプション・ツアー。在カナダ歴30年で帰化もした、黒鉄ヒロシ似のガイドさんとともに、レストランで食事し、まだ雪の残る山にケーブルで登り、夜景を楽しんだ。明日はいよいよマラソン。しかし、ベッドにもぐりこんでも、なかなか眠れない。
回想/バンクーバーマラソン’96 vol.3 時差ぼけと空腹
at 2001 06/02 11:08
レースのスタート時刻は朝の7時。ホテルのロビーには4時半集合。しかし、ベッドにもぐりこんで目を閉じてもなかなか眠れない。午前中20kmもジョグをし、午後には市内を歩き回り、夜はビールも飲んでいる。なのに、目がさえて頭がはっきりしている。これが時差ボケというものか。体内時計が麻痺してるのかもしれない。
テレビをつける。カナダ版のMTVともいうべき、音楽専門チャンネル「MUCH MUSIC」を子守唄代わりにしようとしてもだめだ。うるさい曲が多いからというわけでもなく、寝つくことができない。ベッドに横たわったまま、まんじりともせずに、4時のモーニングコールを聞いた。
外に出て、軽くジョグ。空気がつめたい。暗い無人のビル街を月の光が照らす。今日はいい天気になりそうだ。
4時半に弁当が届く。地元の日本料理店の人がつくったおにぎりにおかず、バナナ。坂東英二似のオヤジが
「遅いぞ!」
などという。このおやじ、このツアーではしょっちゅう顰蹙を買うような言動があったが、なにぶん五年前のことで、記憶も薄らいでいるのでここには書き記さない。
弁当だけでは不足しそうで、参加賞の袋に入っていたPower Barを食べる。なかなかうまかった。5時45分にホテルを出発。スタート地点は昨日行ったスポーツ・ミュージアムのちょうど裏側。
着替えて、記念写真をとり、荷物をあずけてとかしていると、スタート時間が近づいてきた。場内アナウンスで、出場者の中で、本日誕生日の人の名前を呼んでいて、僕の名前も呼ばれたらしいが気がつかなかった。英会話を習う必要性を実感した。
ハーフマラソンと同時スタートなので、スタートラインはかなり混み合う。場内アナウンスが声を荒げている。なんでも、最前列がスタートラインをはみ出してしまっているので、
「下がれ下がれ」
と言っているらしい。誘導ミスか?スタート時間が迫っているのに、どうなるのだ?
予定より10分遅れで、フルマラソン2287人、ハーフマラソン1986人のランナーが同時にスタート。約20数秒遅れでスタートラインを通過。人ごみの中をゆっくりと走り始め、人と人との間隔が広がっていくと次第にペースを上げていく。
大都市の中心部を走るわりに、沿道に応援の人は少ない。日曜日の朝、7時のオフィス街にマラソン見物に来るような人は少ないのか。皆、まだ寝てるのだろう。出発前に不安だった腰痛は湿布薬でおさまっている。足取りは軽い。1kmを4分15~20秒くらいのペースで快調に走る。同じツアー・メンバーのNさんを捕らえる。日体大陸上部のジャージを着ていた人だ。本人の話では
「娘のを借りたんだよ。」
とのことだったが。Nさんたちは、神奈川から走る仲間とともに参加していた。ボストンに出たこともあるという実力者ぞろいのおじさんたちだ。反対車線を救急車が走っている。
「おいおい、もう倒れた奴がいるのか?」
と独り言をつぶやくと、横で走っていた女性ランナーが
「ガンバッテクダサイネ。」
と声をかけてきた。褐色の肌に大きな黒い瞳。インド系の女性ランナー。女子大生くらいに見えた。少し驚き、
「きゃん、ゆう、すぴいく、じゃぱにいず?」
と話しかけると
「スコシダケナラネ。」
と返ってくる。
「僕の英語よりはましみたいですね。」
と、日本語で言うと、彼女は笑った。
10km過ぎて、スタンレー・パークの中に入っていく。この大会のもっともユニークなところが、都市の中心部からスタートして、10kmも走れば、日比谷公園の25倍とも言われる自然の中を走ることができることだろう。松山でいうと、市内の中心にある堀の内公園のある位置に、キャンプ場もある伊予市の森林公園があるようなものだ。ここはアップダウンも少々ある。大柄な白人のランナーが蒸気機関車のように息を吐きながら走っていく。ハーフマラソンのランナーは、ここからB.Cドームへと戻っていく。フルマラソンのランナーはライオンズ・ゲート・ブリッジという橋を渡るのだ。水面から100mの高さを渡るこの橋、前だけを見て走るのは惜しい。すれ違うバスの乗客もランナーたちに手を振っていく。ここを走るだけでも、十分価値がある、と思えるほど、橋の上からの眺めは素晴らしかった。もし、バンクーバーにあなたが行くつもりなら、フルの方をお勧めする。
スタンレー・パークの中にはほとんどいなかった沿道の応援が橋を渡ると増えてきた。ここからは住宅地。沿道がにぎやかになってくる。遠くには雪をかぶったカナディアン・ロッキーの山々も見える。沿道の応援についつい手をふって応えながら走る。国内のレースではやらないことだ。このあたり、応援の効果だろうか、20km~25kmのスプリットタイムがもっとも良かった。しかし、反動はすぐにやってきた。港の倉庫が立ち並ぶあたりにさしかかると、また、沿道に人影が消えた。貨物列車のコンテナの横をひた走る。音楽が聞こえる。ジプシー・キングスのフラメンコ・ギターだ。このあたりがきつくなってくる。気温も上がってきていた。給水は取りつづけていたが、水を身体にもかけるようになった。気温は沿道にあった電光掲示板によると16℃。20km地点で続々とごぼう抜きしていったランナーたちに抜き返されていく。もう一つの橋、ナロー・ブリッジにさしかかる。「空中散歩」のライオンズ・ゲートと違って、ここは、「心臓破りの橋」である。汗と、頭からかぶった水のせいで、腰の湿布ははがれかけている。思い切って、はがす。身体のどこかが痛いということはないのに、身体が動かなくなっている。腹が減って腹が減って仕方がない。30km地点を2時間11分で通過したときは、3ヶ月前の愛媛マラソンでマークした自己ベスト、3時間9分58秒はクリアできると思えたが、既に1km辺りのペースは5分を越えている。自己ベスト更新は無理かなと思えてきた。
いわゆる、ガス欠状態になっていたのだ。腹が減った体が欲しがっていたのはお好み焼きだった。肉玉うどん入りが食べたかった。
初めての海外マラソン、完走できただけで十分じゃないかと、気持ちを切り替えたが、空腹感は収まらない。遠くにドームが見えてきたが、まだゴールまで3kmもある。40km地点を知らぬまに過ぎたあたりで、右足の太ももが痙攣を起こし立ち止まる。若い日本人のランナーが
「がんばれ!」
と声をかけて過ぎて行った。ストレッチをすると痛みは無くなり、再び走りはじめる。沿道に日本人が多いな、と思ったら、チャイナタウンだった。1度抜かれた横浜市役所のランシャツを着たベテラン・ランナーに追いつく。
「きついコースだったねえ。」
と話かけられる。横浜とバンクーバーは友好姉妹都市の関係である。
ゴール手前で彼の前に出て、ゴール。手元の時計では3時間16分23秒。7回目のマラソンで、3番目のタイム。
「これも運です。精一杯やりました。」
あの
「こけちゃいました。」
に続いて、谷口さんが言ったこの言葉が実感できた。痙攣がなければ良かったが、初めての海外マラソン、なんとか完走できた。
食べ放題のフルーツをとる。りんごとオレンジがうまい。フルーツ味のゲーターレイドを飲む。
完走Tシャツ、LLサイズを注文していたのは失敗だった。身長179cmの僕でも、MかLで十分だった。首まわりや袖がぶかぶかである。
ツアーで最初にゴールインしたのは、Nさんたちのグループのリーダー格のMさん。若い頃は実業団にいたというほどの人で3時間3分27秒というタイムは男子の50~54歳の部で堂々の2位。
着替えてから、食事に出かける。お好み焼き屋は見つからないし、さがし回る元気もない。ラーメン屋に入る。味がJAPAN、CHINA、KOREAと3種類選べる。しょうゆラーメン、チャンポン、キムチ入りラーメンのことだ。ジャパンとチャイナのどちらかを選んだが忘れた。店を見回すと、座敷には黒人の親子4人が中華料理を箸でつついている。店には日本酒のポスターも貼ってある。多くの民族が共存する都市、そこがバンクーバー。
夜はホテルのレストランで完走パーティー。ついでに、僕の誕生祝いもしてもらえた。小さなケーキをもらえた。ビールをがぶがぶ。ホテルのバーで二次会をやりましょうと、ツアーの中で、最も海外マラソン歴が豊富な自衛隊員、F-Mさんが提案。彼は先月、第100回記念のボストンマラソンを走ったばかりで、今回はハーフマラソンに参加していた。それならば、パーティーでもらった記念品を部屋に置き、ジャケットにでも着替えてこようと部屋にもどったが、入った瞬間、ベッドの上に倒れこんだ。
気がつけば、夜が明けていた。出発までまだ時間がある。疲れはなくなっていた。着替えて、スタンレーパークにジョギングしにいく。ウォークマンで二ール・ヤング&クレイジー・ホースを聞きながら、トレイルコースを走る。レース前日に2時間も走ってなければ、ガス欠も痙攣も経験しなかったはずだが、少しも後悔はない。何ものにもかけがえのない経験ができた喜びがあるだけだ。昨日フルを完走したばかりなに、80分も走った。クレイジー・ホースがたたき出す、大らかなリズムにあわせて、二ールがかきむしるギターソロに合わせて、カナダの
大地を踏みしめる。今、この瞬間しか味わえぬ快感。
午後2時発のボーイング747で成田へ。帰りの飛行機の中は行きよりも少し時間の流れが速かった。成田に着いたのは7日の夕方。5月6日の夜と7日の日中が、人生で最も長かった5月3日の代わりに、どこかへ消えていった。
カナダに行って見つけたもの。というか、分かったもの。僕はどうやら、マラソンが好きになっていたのだということ。マラソンを走るためなら、カナダにまで行ってしまうような人間になってしまっていたという事。これはもう、よほどのことがないとやめられないな、と思った。
5年が過ぎた今、僕は今も走っている。それどころか、マラソンに関するホームページまで作って、5年前のレースの話を世界中に向けて語っている。面白がって読んでくれている人がどのくらいいるのかなと思いながら、キーをたたいている。
※※※※※※※※※※
この記事を書いて、さらに7年経った。もはやマラソン出場は年に1回の愛媛マラソンだけになった。しかし、僕はまだ走っている。当時の半分くらいしか走ってはいないけれど。バンクーバーは2年後の冬季五輪開催地に決まり、脚光を浴びるだろう。初めての海外旅行にはいい場所だった、とお勧めしておく。
1996バンクーバー・マラソンの結果
男子マラソン
1位 ファン・サルバドール・ゴンザレス(メキシコ)2:17:47
2位 ティボル・ナジ・ネメス(ハンガリー)2:26:08
3位 亀岡 功(佐川急便)2:26:53
4位 シノザキ カズオ 2:27:26
8位 オクニシ ヤスジ 2:33:47
女子マラソン
1位 エニコ・フェファー(ハンガリー)2:52:38
2位 モロボシ ユウコ 2:57:00
3位 ロザリンダ・ガルシア(カナダ)3:00:00
6位 サギヤ ツネミ 3:06:25
10位 谷川幸江(帝京大)3:12:26
男子ハーフ
1位 ラリー・ナイチンゲール(カナダ)1:09:13
2位 コリン・ディグナム(カナダ)1:09:57
3位 フランシスコ・ムノス・パロマル(メキシコ)1:10:46
女子ハーフ
1位 小川ミーナ(日立)1:12:33
2位 小尾麻美(早稲田大)1:13:01
3位 羽鳥悦子(横浜銀行)1:13:07
4位 佐々木律子(横浜銀行)1:13:17
「プロフィール」の僕の全マラソン成績に記したように、これまで僕は2回海外マラソンに出場している。初めての海外マラソンのことを記した記事を再掲載してみる。ちょうど12年前の今日のことだった。
※※※※※※※※※※
回想/バンクーバーマラソン’96 vol.1~人生で最も長い一日
at 2001 05/06 11:26
5年前の5月5日、35歳の誕生日を僕はカナダのバンクーバーで迎えた。僕にとって初めての海外マラソン出場というより、海外旅行そのものが生まれて初めてだったのだ。
バンクーバーは、毎年5月の第1日曜日に開催される。その年の第1日曜が僕の誕生日であったことが、旅立ちを決心させるきっかけになった。
生まれて初めてのことというのは、いろいろと大変だ。パスポートも取りに行った。僕の前で順番を待っているのは土木作業員のおじさんたち。彼等の行く先は台湾。何しにいくのかは、問うまいぞ。彼等からすれば、マラソンを走るために海外へ行く、しんどい想いをするために大枚をはたくという事の方がよほど信じがたいことかもしれない。
ゴールデンウイークに海外旅行なんて、自分には一生縁の無いものだと思っていた。マラソンでも始めてなければ、行きたいなどとは思いつかなかったはずである。実際、マラソン・ツアー以外の海外旅行には、今も興味がない。しかし、この大会、思ったより人気がないのではないかと思えるような事があった。
3月の半ば、旅行会社から電話があった。参加者が規定の人数に達しないために、ツアーが中止になるかもしれないので、その際はご了承していただきたいとの事。
!!!!そんな事言われても、どないせいいうんや?しかし、どうにか人も集まったようで、無事出発の運びとなる。
参加者の名簿が届く。12人ほどのこじんまりとしたツアー。女性の参加者は一人。しかも、メンバー最高齢の男性の奥方。後はほとんど、40~50代のおじさんばかりで、僕より若い人は2人。「出会い」に期待していた僕がバカだった。
後で聞いた話では、こういうマラソンツアーの主役は、ほとんど熟年の男女で、若い独身女性が多数参加するのはホノルルくらいらしい。
添乗員さんの話
「いやあ、ホノルルはいいですよお。(以下略)」
出発も近づいてきた時に、腰痛が出てきた。当時は、一日中立ち仕事だったし、8時9時までの残業は当たり前、そんな毎日の中、少しでも距離を踏むために、通勤ランまでしていた。その疲れが出たのだろうか。
出発前日も9時まで残業。帰宅してあれこれ準備していたら、就寝は1時。それでも、5時には目をさましてしまった。
松山から羽田まで飛行機で。そこからリムジンバスで2時間かけて成田まで。成田空港は広かった。この広い空港がどれほどの犠牲とともに生まれたものであるか、僕が子供の頃、テレビのニュースは毎日、空港建設に反対する人々と機動隊の衝突とを映していた。北山修氏のエッセイ「さすらいびとの子守唄」にも、
「正義の味方、月光仮面は三里塚でどちらを味方するだろう?」
と書かれていた。
(当時大学生だった僕の姉にこの質問をすると
「やっぱり、月光仮面は権力の味方はしないんじゃないの?」
という返事がもどってきた。)
つい、数日前に反対派のセクトの一つが和解に応じたばかりで、三里塚の闘争はまだ終わっていなかった。バスが空港の入り口に入る直前に、数人のガードマンが車内に入ってきて、パスポートをチェックされた。海外旅行が「大変な事」であることを思い知らされた。
空港の東京三菱銀行の窓口で両替。「人生ゲーム」の紙幣のようなカナダドルを渡される。カナダ西部との時差は17時間。17時45分発カナディアン航空のDC-10で太平洋を越える。隣の席の、坂東英二みたいなおっさんがやたらうるさい。機内で3回も食事が出た。一体正味何時間寝られたのかはわからない。大柄でマギー・ミネンコ(古い!)に似た顔立ちのスッチーが、実は日本人で、絵に描いたような東洋系美女が実は中国系マレーシア人なので日本語が通じなかった。
機内は全面禁煙。トイレですってもダメ。マラソンランナーにでもなってなけりゃ、海外旅行なんて行けなかっただろうな。
バンクーバー空港に着いたのは、現地時間で3日の朝。気温は10℃、成田よりも10℃以上低い。バスで市内へと。レストランで食事。これまで食べた食事で最もうまかったのは野菜サラダだった。レタスの味が濃いのだ。ドレッシングなどつけずに、塩をふっただけで十分。
ショッピングセンターの中にある受付会場で、参加受け付けを済ませる。バンクーバーは移民の町である。多民族都市というのか、目立つのは本来の意味のインディアン。ネイティブ・アメリカンのことではない。ターバンを巻いたひげ面の男性と、サリー姿の女性をよく見かける。日本人も多い、と思ったら、日本人同士に見えたカップルが英語で会話している。この町は北米西海岸では、サンフランシスコに次いで二番目に大きなチャイナタウンがあるという。
後で聞くと、香港の中国への返還を1年後に控え、香港からの移住者が多くなっているが、中にはカタギの仕事にあらざる方々も流入していて、現地の同業者と抗争を起こしているとかで、チャイナタウンには、今は近寄らぬ方が無難と言われた。
バスでコースを下見。スタンレー・パークの美しさは想像以上。来てよかった、と思える。
夕食は添乗員さんに案内され、地元で評判の「ブラザーズ」というレストランへ。店内はまるで古い教会のようで、店内で働く人は皆、修道士のような服を着ている。店の名前は「兄弟」という意味ではないようだ。パスタにサーモン・ステーキ、サラダを頼むが、量が多すぎて食べきれなかった。
ホテル・ジョージアの1216号室に戻ってきたのは18時15分。成田を出発してから30分しか経っていない!!!1996年5月3日は僕の人生でもっとも長い一日となった。
回想/バンクーバーマラソン’96 vol.2~ささやかなカルチャー・ショック
at 2001 05/07 00:01
5月4日の朝は少し寝坊した。朝5時半にロビーに集合して、モーニングランというブランがあったのだが、目を覚ましたのは6時過ぎ。
せっかくなので、たったひとりでジョグにでかける。市内の中心部からわずか20分も走れば、自然のあふれる公園、日比谷公園の何百倍とか言っていた公園にやって来れる。何人かのジョガーとすれ違う。僕はナイキのシューズとシャツを使っているのに、カナダのランナーがアシックスをはいている。イングリッシュ・ベイに沿ったコースには、自転車やローラースケート専用のレーンもある。奥へと足を運べば、えひめ森林公園のごとき、ハイキングコース。足が喜んでいるのがわかる。足だけでなく、身体全体が走れることを喜んでいるのだ。気がつけば、2時間近く走っていた。マラソン前日に走る距離としては度を越している。この代償は翌日のレースで払わされることとなるのだが。
日本ではめったに使わない、ウォークマンで音楽を聴きながら走っていた。持ってきたカセットは、二ール・ヤング、ザ・バンド、ジョニ・ミッチェル、ブルース・コバーン、ロビー・ロバートソン。そう、みんなカナダ人ばかり。
今日は夜までフリー。ひとりで市内をぶらぶら歩く。
ブルース・コバーンというのは、カナダでは人気の高いシンガー・ソング・ライターであり、ギタリストである。彼のアルバムは歌詞が英語とフランス語で書かれている。この国はバイリンガル国家なのである。ホテルの部屋に置いてあるシャンプーも、観光パンフも、二ヶ国語表記である。バンクーバーを州都とするのは、ブリティシュ・コロンビア州というだけあって、英国の影響の強い地域である。それが伺えたのは、市内の中心を赤い二階建てバスが走っていたこと、公園でクリケットをしていたこと、公園にフィッシュ&チップスの屋台があったことなどだ。国民的人気スポーツはアイス・ホッケーだが、野球は人気なく、まだ、ラグビーやサッカーの方が人気があるようである。日本の実業団のラグビー部の選手のサイン色紙を飾る土産物屋も見かけた。
そういえば、中村祐二選手はイェーデボリ世界陸上の前に、この地で合宿を行っていた。僕と入れ違いに、アトランタ五輪マラソン代表となった真木和さんが合宿に来たらしい。
日本人の学生が短期留学で多数来ていて、彼等がアルバイトしている土産物店が多いので、英語が話せなくても買い物はできる。しかし、僕が感激したのは、自分の話す英語が通じた瞬間である。
僕は免税店で売られているようなものには全く興味が無く、町のレコード店に足を運んだ。CDは安い。旧譜なら900円前後。ニルス・ロフグレンやブルース・コバーンの日本盤では出ていないCDを買う。ポイント・カードを渡されたので、店員に
「のー・にーど、あいあむ・つーりすと、あんど・まらそんらんなあ。つもろう、あい・ういる・らん。」
と言うと
「Oh!」
と感心したような表情を見せた。
ビートルズ・マニアでロック・シンガーだった、作家の松村雄策氏の本に、ロンドンへポール・マッカートニーの取材に出かけた時の話が書かれているが、その中に、ロンドンでは、白人からは早口で英語で話しかけ、何度も
「もっとゆっくり話してくれ。」
と頼んだのに、黒人のタクシー運転手や店員などは、日本人と分かると、聞き取りやすい発音でゆっくり話しかけてくれるというエピソードが記されていたが、同様のことは、バンクーバーでもあった。土産を買った店で、中国人の店長が
「ドーモアリガトウ。」
とお礼を言い、それに応えて僕が
「さんきゅーべりまっち。」
と答え、回りにいた客が大笑いしていた。
バンクーバーの街は、前年に北海道マラソンに出るために訪れた札幌に似ていると思った。人口百万を越える都会なのに、おおらかというか、ゆったりしている。時間もゆっくり流れている。道幅が広いせいか、クルマの流れもスムーズだ。公共交通が充実しているせいか、自転車も少なく、原付は皆無である。日本ではもう見られなくなったトロリー・バスを僕は初めて見た。市内を走るバスは先に述べた、ロンドン名物と同じ二階建てバスの他に、普通のバスは車椅子でもそのまま乗れる、ノン・ステップ・バスである。(実は僕の大学での専攻は都市交通論だった。)
さて、僕がバンクーバーで最もおすすめするスポット、そこはB・Cドームの中にあるスポーツ・ミュージアムである。
NFLのバンクーバー・グリズリーズのホーム・グラウンドである、このドームが、明日のマラソンのスタート/ゴール地点である。スタジアムの前は、子供たちがスケボーをしている。うまい。松山の総合公園や、土曜の夜の大街道商店街に連れて行けば、すぐにヒーローになれるはずだ。そこにあった、スポーツ・ミュージアム。カナダの有名スポーツ選手にまつわるものが展示されているが、いきなり飛び込んでくるのが、ジン・キニスキーのポスター。さらに、横に置いてあるビデオで流しているのが、カルガリーのハート兄弟の試合、となると、マラソンマニアとなる前には、プロレスマニアだった僕にはたまりません。
さすがに、アイス・ホッケーの選手に関する展示物が多い。カナダ代表にとっては、歴史に残る名勝負なのであろう、何年か前のソ連との試合がビデオで流れていた。好きな人にはたまらんだろうな。
僕にとっては感激の涙ものは、札幌冬季五輪のフィギア・スケート銀メダリスト、カレン・マグヌッセンのメダルや、当時の衣装、日本で買ったであろう日本人形。そしてプロに転向後に出された彼女の人形。
マグヌッセンの名前は、意外と忘れられている。ジャネット・リンは今でも知られているのに。しかし、僕は札幌のエキジビションで小さな傘を片手に、「雨にぬれても」に合わせて踊っていた彼女を覚えていた。リンよりも彼女の方が美人だった。
そして、もうひとつ、忘れられないのは、カナダの年間優秀スポーツ選手たちの写真を飾っていたところ。そこでは、五輪のメダリストも、パラリンピックのメダリストも同格に扱われていた。これは、ちょっとしたカルチャー・ショックだった。僕たちは、パラリンピックの日本人メダリストの名前を何人知っているか?
マラソンの柳川さんくらいなら、かろうじて知っていたが。
そして、これは、市内を走るバスがノン・ステップであることと、つながっていると思った。このとき、まだ、日本に「バリヤフリー」という言葉は定着していなかった。それどころか、2年後の長野パラリンピックの代表選手が五輪代表と同じユニフォームを着ることに異議を唱える人間が閣僚の中にいた。
日本という国が嫌になる原因をつくるのは、「自虐的な」歴史教科書のせいだけじゃない、と僕は思う。
夜はオプション・ツアー。在カナダ歴30年で帰化もした、黒鉄ヒロシ似のガイドさんとともに、レストランで食事し、まだ雪の残る山にケーブルで登り、夜景を楽しんだ。明日はいよいよマラソン。しかし、ベッドにもぐりこんでも、なかなか眠れない。
回想/バンクーバーマラソン’96 vol.3 時差ぼけと空腹
at 2001 06/02 11:08
レースのスタート時刻は朝の7時。ホテルのロビーには4時半集合。しかし、ベッドにもぐりこんで目を閉じてもなかなか眠れない。午前中20kmもジョグをし、午後には市内を歩き回り、夜はビールも飲んでいる。なのに、目がさえて頭がはっきりしている。これが時差ボケというものか。体内時計が麻痺してるのかもしれない。
テレビをつける。カナダ版のMTVともいうべき、音楽専門チャンネル「MUCH MUSIC」を子守唄代わりにしようとしてもだめだ。うるさい曲が多いからというわけでもなく、寝つくことができない。ベッドに横たわったまま、まんじりともせずに、4時のモーニングコールを聞いた。
外に出て、軽くジョグ。空気がつめたい。暗い無人のビル街を月の光が照らす。今日はいい天気になりそうだ。
4時半に弁当が届く。地元の日本料理店の人がつくったおにぎりにおかず、バナナ。坂東英二似のオヤジが
「遅いぞ!」
などという。このおやじ、このツアーではしょっちゅう顰蹙を買うような言動があったが、なにぶん五年前のことで、記憶も薄らいでいるのでここには書き記さない。
弁当だけでは不足しそうで、参加賞の袋に入っていたPower Barを食べる。なかなかうまかった。5時45分にホテルを出発。スタート地点は昨日行ったスポーツ・ミュージアムのちょうど裏側。
着替えて、記念写真をとり、荷物をあずけてとかしていると、スタート時間が近づいてきた。場内アナウンスで、出場者の中で、本日誕生日の人の名前を呼んでいて、僕の名前も呼ばれたらしいが気がつかなかった。英会話を習う必要性を実感した。
ハーフマラソンと同時スタートなので、スタートラインはかなり混み合う。場内アナウンスが声を荒げている。なんでも、最前列がスタートラインをはみ出してしまっているので、
「下がれ下がれ」
と言っているらしい。誘導ミスか?スタート時間が迫っているのに、どうなるのだ?
予定より10分遅れで、フルマラソン2287人、ハーフマラソン1986人のランナーが同時にスタート。約20数秒遅れでスタートラインを通過。人ごみの中をゆっくりと走り始め、人と人との間隔が広がっていくと次第にペースを上げていく。
大都市の中心部を走るわりに、沿道に応援の人は少ない。日曜日の朝、7時のオフィス街にマラソン見物に来るような人は少ないのか。皆、まだ寝てるのだろう。出発前に不安だった腰痛は湿布薬でおさまっている。足取りは軽い。1kmを4分15~20秒くらいのペースで快調に走る。同じツアー・メンバーのNさんを捕らえる。日体大陸上部のジャージを着ていた人だ。本人の話では
「娘のを借りたんだよ。」
とのことだったが。Nさんたちは、神奈川から走る仲間とともに参加していた。ボストンに出たこともあるという実力者ぞろいのおじさんたちだ。反対車線を救急車が走っている。
「おいおい、もう倒れた奴がいるのか?」
と独り言をつぶやくと、横で走っていた女性ランナーが
「ガンバッテクダサイネ。」
と声をかけてきた。褐色の肌に大きな黒い瞳。インド系の女性ランナー。女子大生くらいに見えた。少し驚き、
「きゃん、ゆう、すぴいく、じゃぱにいず?」
と話しかけると
「スコシダケナラネ。」
と返ってくる。
「僕の英語よりはましみたいですね。」
と、日本語で言うと、彼女は笑った。
10km過ぎて、スタンレー・パークの中に入っていく。この大会のもっともユニークなところが、都市の中心部からスタートして、10kmも走れば、日比谷公園の25倍とも言われる自然の中を走ることができることだろう。松山でいうと、市内の中心にある堀の内公園のある位置に、キャンプ場もある伊予市の森林公園があるようなものだ。ここはアップダウンも少々ある。大柄な白人のランナーが蒸気機関車のように息を吐きながら走っていく。ハーフマラソンのランナーは、ここからB.Cドームへと戻っていく。フルマラソンのランナーはライオンズ・ゲート・ブリッジという橋を渡るのだ。水面から100mの高さを渡るこの橋、前だけを見て走るのは惜しい。すれ違うバスの乗客もランナーたちに手を振っていく。ここを走るだけでも、十分価値がある、と思えるほど、橋の上からの眺めは素晴らしかった。もし、バンクーバーにあなたが行くつもりなら、フルの方をお勧めする。
スタンレー・パークの中にはほとんどいなかった沿道の応援が橋を渡ると増えてきた。ここからは住宅地。沿道がにぎやかになってくる。遠くには雪をかぶったカナディアン・ロッキーの山々も見える。沿道の応援についつい手をふって応えながら走る。国内のレースではやらないことだ。このあたり、応援の効果だろうか、20km~25kmのスプリットタイムがもっとも良かった。しかし、反動はすぐにやってきた。港の倉庫が立ち並ぶあたりにさしかかると、また、沿道に人影が消えた。貨物列車のコンテナの横をひた走る。音楽が聞こえる。ジプシー・キングスのフラメンコ・ギターだ。このあたりがきつくなってくる。気温も上がってきていた。給水は取りつづけていたが、水を身体にもかけるようになった。気温は沿道にあった電光掲示板によると16℃。20km地点で続々とごぼう抜きしていったランナーたちに抜き返されていく。もう一つの橋、ナロー・ブリッジにさしかかる。「空中散歩」のライオンズ・ゲートと違って、ここは、「心臓破りの橋」である。汗と、頭からかぶった水のせいで、腰の湿布ははがれかけている。思い切って、はがす。身体のどこかが痛いということはないのに、身体が動かなくなっている。腹が減って腹が減って仕方がない。30km地点を2時間11分で通過したときは、3ヶ月前の愛媛マラソンでマークした自己ベスト、3時間9分58秒はクリアできると思えたが、既に1km辺りのペースは5分を越えている。自己ベスト更新は無理かなと思えてきた。
いわゆる、ガス欠状態になっていたのだ。腹が減った体が欲しがっていたのはお好み焼きだった。肉玉うどん入りが食べたかった。
初めての海外マラソン、完走できただけで十分じゃないかと、気持ちを切り替えたが、空腹感は収まらない。遠くにドームが見えてきたが、まだゴールまで3kmもある。40km地点を知らぬまに過ぎたあたりで、右足の太ももが痙攣を起こし立ち止まる。若い日本人のランナーが
「がんばれ!」
と声をかけて過ぎて行った。ストレッチをすると痛みは無くなり、再び走りはじめる。沿道に日本人が多いな、と思ったら、チャイナタウンだった。1度抜かれた横浜市役所のランシャツを着たベテラン・ランナーに追いつく。
「きついコースだったねえ。」
と話かけられる。横浜とバンクーバーは友好姉妹都市の関係である。
ゴール手前で彼の前に出て、ゴール。手元の時計では3時間16分23秒。7回目のマラソンで、3番目のタイム。
「これも運です。精一杯やりました。」
あの
「こけちゃいました。」
に続いて、谷口さんが言ったこの言葉が実感できた。痙攣がなければ良かったが、初めての海外マラソン、なんとか完走できた。
食べ放題のフルーツをとる。りんごとオレンジがうまい。フルーツ味のゲーターレイドを飲む。
完走Tシャツ、LLサイズを注文していたのは失敗だった。身長179cmの僕でも、MかLで十分だった。首まわりや袖がぶかぶかである。
ツアーで最初にゴールインしたのは、Nさんたちのグループのリーダー格のMさん。若い頃は実業団にいたというほどの人で3時間3分27秒というタイムは男子の50~54歳の部で堂々の2位。
着替えてから、食事に出かける。お好み焼き屋は見つからないし、さがし回る元気もない。ラーメン屋に入る。味がJAPAN、CHINA、KOREAと3種類選べる。しょうゆラーメン、チャンポン、キムチ入りラーメンのことだ。ジャパンとチャイナのどちらかを選んだが忘れた。店を見回すと、座敷には黒人の親子4人が中華料理を箸でつついている。店には日本酒のポスターも貼ってある。多くの民族が共存する都市、そこがバンクーバー。
夜はホテルのレストランで完走パーティー。ついでに、僕の誕生祝いもしてもらえた。小さなケーキをもらえた。ビールをがぶがぶ。ホテルのバーで二次会をやりましょうと、ツアーの中で、最も海外マラソン歴が豊富な自衛隊員、F-Mさんが提案。彼は先月、第100回記念のボストンマラソンを走ったばかりで、今回はハーフマラソンに参加していた。それならば、パーティーでもらった記念品を部屋に置き、ジャケットにでも着替えてこようと部屋にもどったが、入った瞬間、ベッドの上に倒れこんだ。
気がつけば、夜が明けていた。出発までまだ時間がある。疲れはなくなっていた。着替えて、スタンレーパークにジョギングしにいく。ウォークマンで二ール・ヤング&クレイジー・ホースを聞きながら、トレイルコースを走る。レース前日に2時間も走ってなければ、ガス欠も痙攣も経験しなかったはずだが、少しも後悔はない。何ものにもかけがえのない経験ができた喜びがあるだけだ。昨日フルを完走したばかりなに、80分も走った。クレイジー・ホースがたたき出す、大らかなリズムにあわせて、二ールがかきむしるギターソロに合わせて、カナダの
大地を踏みしめる。今、この瞬間しか味わえぬ快感。
午後2時発のボーイング747で成田へ。帰りの飛行機の中は行きよりも少し時間の流れが速かった。成田に着いたのは7日の夕方。5月6日の夜と7日の日中が、人生で最も長かった5月3日の代わりに、どこかへ消えていった。
カナダに行って見つけたもの。というか、分かったもの。僕はどうやら、マラソンが好きになっていたのだということ。マラソンを走るためなら、カナダにまで行ってしまうような人間になってしまっていたという事。これはもう、よほどのことがないとやめられないな、と思った。
5年が過ぎた今、僕は今も走っている。それどころか、マラソンに関するホームページまで作って、5年前のレースの話を世界中に向けて語っている。面白がって読んでくれている人がどのくらいいるのかなと思いながら、キーをたたいている。
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この記事を書いて、さらに7年経った。もはやマラソン出場は年に1回の愛媛マラソンだけになった。しかし、僕はまだ走っている。当時の半分くらいしか走ってはいないけれど。バンクーバーは2年後の冬季五輪開催地に決まり、脚光を浴びるだろう。初めての海外旅行にはいい場所だった、とお勧めしておく。
1996バンクーバー・マラソンの結果
男子マラソン
1位 ファン・サルバドール・ゴンザレス(メキシコ)2:17:47
2位 ティボル・ナジ・ネメス(ハンガリー)2:26:08
3位 亀岡 功(佐川急便)2:26:53
4位 シノザキ カズオ 2:27:26
8位 オクニシ ヤスジ 2:33:47
女子マラソン
1位 エニコ・フェファー(ハンガリー)2:52:38
2位 モロボシ ユウコ 2:57:00
3位 ロザリンダ・ガルシア(カナダ)3:00:00
6位 サギヤ ツネミ 3:06:25
10位 谷川幸江(帝京大)3:12:26
男子ハーフ
1位 ラリー・ナイチンゲール(カナダ)1:09:13
2位 コリン・ディグナム(カナダ)1:09:57
3位 フランシスコ・ムノス・パロマル(メキシコ)1:10:46
女子ハーフ
1位 小川ミーナ(日立)1:12:33
2位 小尾麻美(早稲田大)1:13:01
3位 羽鳥悦子(横浜銀行)1:13:07
4位 佐々木律子(横浜銀行)1:13:17
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