君が行く道の長手(ながて)を繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも
<現代語訳>あなたが行く長い道のりを手繰り寄せて、
焼き尽くしてしまう天の火がどうしても欲しいものだ
高校の教科書に出てくるので、よく知られている和歌だが、その背景は実に深い。
古くからの貴族の家柄にあった中臣宅守(なかとみの やかもり)は
宮中の下級女官・狭野茅上娘子(さのの ちがみの おとめ)を娶ったため
越前へ流罪となった。
刑の内容は「法華経を写し、七重の塔を造る」だった。
狭野娘子(さのの おとめ)が、
宅守(やかもり)の出発にあたって詠んだ和歌
奈良の平安京から越前までの遠い道のりを、たぐり寄せてたたんで
燃やしてしまうことができる天の火が欲しい!
(道が無くなれば、越前には行けないだろう)
これに答えて、宅守(やかもり)も和歌を返した。
2首から14首のまとまりで、計9回。
それらが『万葉集』に出ている。
宅守(やかもり)の罪は、宮中の女官を妻にしたこと。
宮中の女官は、たとえ下級であっても、天皇が妻にすることがあり得るので
「不敬罪」になった。
当時の刑法である「律(りょう)」は、唐のものを輸入し
そのまま使っていたので、実態に合わず、運用は恣意的だった。
天皇は、寛大な政(まつりごと)をするために
大赦を発したが、例外も多く
流罪になっていた宅守(やかもり)は、許されなかった。
宅守(やかもり)の流罪がいつ解けたかは不明だが
のちに都に戻った記録はある。
茅上娘子(ちがみのおとめ)については、記録がない。
*****
当時、天然痘が大流行していた。
政権の中枢にあった藤原不比等をはじめ
4人の息子も全員、天然痘で若死にしていた。
民衆も3人に1人は天然痘で亡くなったといわれる。
*****
天然痘の流行について
663年、日本が白村江で敗れた後も
新羅に対しては高圧的な態度を取り、朝貢を要求していた。
対等を主張する新羅と折り合わず、要求を受け入れさせるため
736年、「遣新羅使」を派遣するが、門前払いされた。
そのころ、新羅では天然痘が流行っていた。
使節団は病にかかり、暴風雨にも遭うなどで
多くの犠牲を払いながら1年半の歳月をかけて
737年、無駄足で都にたどり着いた。
使節団の帰国直後、都をはじめ、一般民衆にいたるまで天然痘が大流行した。
病を収めるには神仏に頼るしかない。
聖武天皇が、741年に「諸国国分寺建立事業」を始めた経緯。
*****
中臣宅守(なかとみの やかもり)
中臣一族は、古くからの貴族。
大化の改新で功のあった中臣鎌足は、死の前日、天皇から「藤原姓」を賜った。
中臣一族で藤原姓を名乗れたのは、不比等の一族だけ。
他の一族は、政治の要職には就けず、中臣姓のままで、神祇官として祭祀のみを担当していた。
ー----
以上、古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」(40)
を聞いての覚え書き。
2023年3月11日まで「聞き逃しサービス」があります。
<現代語訳>あなたが行く長い道のりを手繰り寄せて、
焼き尽くしてしまう天の火がどうしても欲しいものだ
高校の教科書に出てくるので、よく知られている和歌だが、その背景は実に深い。
古くからの貴族の家柄にあった中臣宅守(なかとみの やかもり)は
宮中の下級女官・狭野茅上娘子(さのの ちがみの おとめ)を娶ったため
越前へ流罪となった。
刑の内容は「法華経を写し、七重の塔を造る」だった。
狭野娘子(さのの おとめ)が、
宅守(やかもり)の出発にあたって詠んだ和歌
奈良の平安京から越前までの遠い道のりを、たぐり寄せてたたんで
燃やしてしまうことができる天の火が欲しい!
(道が無くなれば、越前には行けないだろう)
これに答えて、宅守(やかもり)も和歌を返した。
2首から14首のまとまりで、計9回。
それらが『万葉集』に出ている。
宅守(やかもり)の罪は、宮中の女官を妻にしたこと。
宮中の女官は、たとえ下級であっても、天皇が妻にすることがあり得るので
「不敬罪」になった。
当時の刑法である「律(りょう)」は、唐のものを輸入し
そのまま使っていたので、実態に合わず、運用は恣意的だった。
天皇は、寛大な政(まつりごと)をするために
大赦を発したが、例外も多く
流罪になっていた宅守(やかもり)は、許されなかった。
宅守(やかもり)の流罪がいつ解けたかは不明だが
のちに都に戻った記録はある。
茅上娘子(ちがみのおとめ)については、記録がない。
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当時、天然痘が大流行していた。
政権の中枢にあった藤原不比等をはじめ
4人の息子も全員、天然痘で若死にしていた。
民衆も3人に1人は天然痘で亡くなったといわれる。
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天然痘の流行について
663年、日本が白村江で敗れた後も
新羅に対しては高圧的な態度を取り、朝貢を要求していた。
対等を主張する新羅と折り合わず、要求を受け入れさせるため
736年、「遣新羅使」を派遣するが、門前払いされた。
そのころ、新羅では天然痘が流行っていた。
使節団は病にかかり、暴風雨にも遭うなどで
多くの犠牲を払いながら1年半の歳月をかけて
737年、無駄足で都にたどり着いた。
使節団の帰国直後、都をはじめ、一般民衆にいたるまで天然痘が大流行した。
病を収めるには神仏に頼るしかない。
聖武天皇が、741年に「諸国国分寺建立事業」を始めた経緯。
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中臣宅守(なかとみの やかもり)
中臣一族は、古くからの貴族。
大化の改新で功のあった中臣鎌足は、死の前日、天皇から「藤原姓」を賜った。
中臣一族で藤原姓を名乗れたのは、不比等の一族だけ。
他の一族は、政治の要職には就けず、中臣姓のままで、神祇官として祭祀のみを担当していた。
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以上、古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」(40)
を聞いての覚え書き。
2023年3月11日まで「聞き逃しサービス」があります。