kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

100年前の煙害事件−2

2024年11月17日 | 100年前の煙害事件

燧灘を眺めて思い出した「四阪島精錬所煙害事件」について

 

住友財閥繁栄の礎になった「別子銅山」

その銅採掘は、元禄4(1691)年、住友家によって始められた

資材調達での伐採と煙害のため、周りは禿げ山に

(対策のため、住友林業の原点が出来た)

 

1883(明治17)年 現在の新居浜市惣開に銅精錬所を移転

      すぐあとの明治20年春から、周りで煙害が発生したため

      移転が検討され、四阪島に決まる

1904(明治37)年 8月から四阪島で精錬開始

      直後から、付近の島や沿岸地域で煙害発生

明治末期(1906〜1910)が最悪

      被害農民の反対運動が起こる

解決策のため、脱硫装置が発達していった

      回収された硫黄成分は硫安(肥料)になった

      (住友化学の原点)

その後、四阪島精錬所での粗銅生産は、

1960(昭和30)年代、後半から急激に上昇

1969(昭和44)年は粗銅生産がピーク

1971(昭和46)年 新居浜・西条境の磯浦に東予精錬所が操業開始

1976(昭和51)年 この年で、四阪島の銅精錬は廃止となった

 

煙害が起きたのは明治の末期、110年くらい昔のこと。

そして私が高校生だったのは、55年昔の、昭和30年代の後半。

当時は高度経済成長期、四阪島精錬所が最盛期だったようで

島に小学校も中学校もあった。

 

今治には県立高校が3校あり、普通科は小学区制で

中学校区ごとに進学先が決まっていた。

私の高校は、四阪島中学と同じ校区だったので

クラスに同中学出身の人もいた。

島で自転車は使えないので、自転車には乗れないと言っていた。

 

その何年後かに、四阪島へ行った。

船賃は20円と、格別に安かった。

島と地方(じかた)との往来は、船しかない。

普通の道ならタダで通れるのと同じなんだ、と説明された。

 

春の連休頃で、島の至る所でアカシア(ニセアカシア)の花が満開。

島全体がハチミツの甘い香りに包まれている感じだった。

 

 

次のページでは、明治末期に焦点を置いた

「四阪島煙害反対運動の記録」を書き留めておきます。


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