四阪島煙害事件
はじめに
中学校の同級会で今治に行った時、眺めた燧灘。
「煙突が無くなった四阪島」が見えた。
あの島にあった精錬所が、日本の近代化の原動力になったことなど
知らない人も多いだろうなと思いながら、眺めていた。
50年余り前、今治市の「市制50周年記念事業」で刊行した『新今治市誌』には
「公害」の項目があり、掲載されているページをそのまま載せます。
実はこの項目、当時、編纂を手伝っていた私が「原稿を書いてもいい」と許可を得て、資料集めをやっていました。
しかし、どんなに頑張ってもまとめることができず、放り出したら、編纂責任者様が、あっという間に成文化していたもの。
知識と経験が豊富な方ではあったけど、明治生まれはすごいです!
一方、私の伯父(明治中頃生まれ)は、桜井で生まれ育ち、煙害被害をまともに経験。
明治43年10月、農商務大臣が視察に来た際は、父親と蓑笠腰弁当で沿道に駆けつけたとか。
本章には、次の記述あり。
農商務大臣は、農商務省の秘書官や枝師・それに知事・農事試験場長・警察部長などをひきつれ、3人びきの立派な人力車で通る大臣を、浴道の農民は地にひれ伏して迎えたという。
当時の報道を見ると、エネルギーがすごいと思った。
でも、集合した農民の数ではかなりの誇張も感じた。
「あの場所に何千人も集まれないのでは?」と伯父に聞いたら
「新聞の記事はそんな風に書くもんだ」とのこと。
『市誌』に引用されている部分、脚色されたドキュメンタリーかも知れないなあ。
でも現在の大企業の発展にも繋がる田舎での先人の足跡
興味深いものなので、お暇な方はご覧下さい。