住友の代表が来た時の記録は以上であるが、その後も煙害は止まず、農民代表は農商務省や議会に陳情や請願を続け、全国的にも重大な問題となった。
明治42年4月20日から、尾道に住友と煙害農民の代表が集まり、煙害賠償協議を行なった。住友は、過去・現在・未来の損害を一括し、農業奨励金の名目で支払うことを主張したが、農民代表は、過去・現在と将来の損害は分けて支払うことを主張し、決裂した。
このあと5月8日、日吉村別宮の地主らは、尾道会議決裂後の善後策を協談したが、そこでは「損害賠償もしくはそれ以下の方法で妥協して農作物の被害を継続せしむるが如きは農民の忍ぶ能はぎる処なり」として、あくまで煙害の除去を要求し、それができないなら、四阪島製錬所の中止もしくは遠距離への移転を要求することを決議した。また、中止もしくは移転によって鉱業主が不利を生ずるならば、別宮部落から1万円寄贈しようとも決議している。その5日のちに、日吉村の日吉・別宮・蔵敷の3部落代表の話し合いでも、四阪島製錬所の休止または移転、その場合には5万円の寄付を決議している。
この年7月、知事安藤は休職になり、伊沢多喜男が代わると、自ら積極的に煙害問題の解決に当った。12月県会では、会員一致で、製錬所の移転、または完全な除害設備、損害補償、米麦開化期の精錬中止、または制限を決議した。翌年2月、貴族院請願委員会は別子銅山煙害駆除の請願を採択した。衆議院でも別子、小坂、足尾、日立鉱山など対象とする鉱毒除害と被害救済の建議案が提出されている。東予の煙害問題もようやく解決への歩を進めた。
煙害補償協定 明治43年10月4日、知事は各地の委員と部長を県庁に集め、煙害問題解決のための協議を行ない、協議の場所は農商務省とする、各地域代表者は全員上京する、費用は各自負担、賠償金は各郡、各町に分配する、政府は被害調査を続ける、契約は3年以内にする、などを協定した。
10月12~14日、農商務大臣大浦兼武が視察に来た。まず、四阪島製錬所を視察し、そのあと越智・周桑両郡の村々をまわった。農商務省の秘書官や技師・それに知事・農事試験場長・警察部長などをひきつれ、3人びきの立派な人力車で通る大臣を、浴道の農民は地にひれ伏して迎えたという。
10月25日には、農商務大臣邸で、農商務大臣・知事列席のもとに、住友と被害農民の代表者による煙害補償協議会がひらかれた。そこで、
1.住友は農作物と材木に対する賠償金として、明治41年から43年までの分として23万9,000円を支払い、44年以降は7万7,000円を支払うこと。
また、別に10万円を支払い、前項以外の既往の損害を賠償すること。
2. 四阪島製錬所の1年の製錬量は、5,500貫以内とする。
3. 米作麦作の重要時期の各40日間は、1日の製錬量を10万貫に減少する。
また、その期間の10日(開花期)は、溶鉱炉の作業を休止する。
などが契約された。
この賠償金の使い方については、知事と農民の代表者間で検討した結果、一部を県の農事試験場に寄付して原種の設置・運営にあたり、他は各町村に分配し、別に定める農林業奨励改良基金条例準則により活用することを決定した。準則のおもな事項は、①分配された金額の全部を農林業改良基金として蓄積する。②基金は本町村(煙害地)の農業組合・水利組合・耕地整理組合・肥料共同購入組合および森林組合に農業改良奨励の資金として、利子付きで貸与することができる。貸付金利は年5分以下3分以上とする、などであった。しかし、実際には煙害補償金は煙害交渉に必要な経費を支出したあと、田の面積に応じて各戸に分配した(桜井・立花の例)
なお、最初に受け取った補償金の分配は以下の通りである。
(略)
補償契約は3年ごとに、知事が座長となり、住友側と被害者代表との間で行われたが、その金額は次のとおりであった。
(略)
(注)農林業奨励寄付金で、原種田・煙害試験地苗圃が作られた
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