50年余り前に、今治市の市制50周年記念で刊行した『新今治市誌』
発行日 昭和49年3月31日
発行者 今治市役所
この本の830ページから836ページまでをスキャンし、テキスト化したものです
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第3 章 公害
第1節 四阪島製錬所煙害事件
別子銅山 公害が今治地方で最初に問題になったのは、明治38年に住友別子鉱業所四阪島製錬所が稼動して、大きな高い煙突から、くさい黄色い煙を付近の島方や越智・周桑の地方に漂よわせ、農作物や山林に大被害を及ぼしたことからである。
別子銅山は、わが国屈指の銅鉱脈をもち、元禄4 (1692)年、大阪の巨商住友吉左衛門の手により開鉱され、幕府から下請して経営された。従業者も一 時は 4,000人以上に達し、消費する飯米は 年間 13,000石 にも及んだ 。孫兵衛作村 ・長沢村 ・桜井村 ・旦村・登畑村・宮ヶ崎村は、朝倉中村 ・上朝倉村の 一部とともに天和年代(1680年代)から天領となり、この地方の年貢米は、いつの頃からか銅山米として別子山へ送られていたから、現在は今治市となっている前記の村々の人とは、多少の因縁もあったことになる。
別子の製錬所の煙突からでる煙に含まれる亜硫酸 ガスは、付近の山々を裸にし、植物には恐ろしく有害であることはよく知られていたが、被害の山林・田畑は鉱山主が買収し、また、この地方の人々にとって鉱山は格好の職場で商業者に対しても十分な利益を与えた。こうした銅山側の態度は地元民の不平を和らげ、むしろ住友家を徳とする風さえ起こっていた。
新居浜の煙害 明治21年洋式の溶鉱炉が新居浜村惣開に完成すると、別子の和式製錬所は廃止された。25年には別子山の抗口から惣開迄私設鉄道が建設され、原鉱の運搬が容易になったので、採鉱量も増し、精錬が拡張されると亜硫酸ガスの被害が拡大した。
惣開に溶鉱炉を設置することについては、鉱山側はすでに明治15年に県に出願していた。この時、関係の村方は、製錬が付近に与える損害に ついては見聞していたから 建 設に同意しなかったが、県 はこ れを無 視し て17年に許可を与えたものであった。はたして、溶鉱炉が活発に稼動しはじめた26年には新居浜付近の農作物に大被害がでた。村は原因の共同調査を住友の総開分店に文書で依頼した。被害4 部落の代表農民は県に陳情し、さらに地区の農民は大集団で惣開分店におしかけようとしたが、警官の説得で解散した。翌27年にも麦作に著しい被害がでて、農民は直接談判しょうと惣開分店に押しかけ、途中響官と衝突し、双方に負傷者がでて、21名が送局された。30年7 月にも稲作に著しい被害があらわれ、村長らは県に陳情し、被害民は農商務大臣に請願した。県議会も惨状を認め、 決議をもって内務 大臣に建議した。
これより先 、住友側でも煙 害は察知していたが、日清戦争後の国家の要請から事業を中断せず、被害を減少するため、溶鉱炉の移転を計画した。
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