四阪島精錬所と煙害 たまたま、新居浜から18km、今治から15kmの燧灘中に、水のわかない5つの小島があった。いずれも無人島で、越智郡宮窪村に属し、四阪島といって美ノ島 ・ 家ノ島 ・ 鼠島 ・ 明神島 ・ 梶島から成っていた。合わせても120ha余りに過ぎない荒地の島で、付近の住民の私有地であった。今治常盤町の竹内某が10年くらい前に25円で売ったこれらの土地こそ願ってもない適地と、常識外の高値の約 1 万円で買収し、28年11月、住友本店 支配人伊庭剛が個人名義で登記した。早速、ここへ溶鉱炉を移転することを農商務大臣に出願し、管下の大阪鉱山監督署が許可を与え、30年に新居浜の煙害が地方的問題になると、できるだけ早く移転するよう住友に命 じた。
こうして溶鉱炉の四阪島移転がはじまり、37年8月には吹初式が行なわれた。会社も世間も、これで煙害は解消すると期待したが、同年12月には、早くも宮窪村友浦で被害が現われた。 さらに、全面操業を始めた38年 1 月ころからは、従来煙害とは無関係であった越智郡の地方(じかた)の村々や周桑郡で大被害が現われた。被害地の桜井村長曽我部右吉と、壬生川村長一色耕平は直ちに事態を県に報告して専門技師の派遣を要請した。越智郡では曽我部が中心となり、村長12名を委員とする煙害調査委員会を設立し、対策にのりだした。
県でも県農会技師岡田温に調査を命じた。岡田は精密に調査し、39年11月21日調査書を提出したが、 その結論は次のとおりであった。
1.亜硫 酸ガスは作物 に有害なり
1.島製錬所より噴出する煤煙中には多量の亜硫酸ガスを含有す
1.本年度に於ける越智・周桑両郡に於ける稲作被害の直接原因は病害・虫害・土壌の悪変・暴風・霖雨・旱魃にあらず
1.本年度に於ける越智 ・周桑両郡に突然現出したる稲作被害の直接原因は四阪島の煤煙なり
1.煙毒に抵抗する活力の強からざる植物 のに接するときは、或る程度の被害は免れざるものなり
1.四阪島媒煙の襲来する区域内に於て、昨三十八年以来、或る種類の樹木・作物・雑草等に発現したる変徴の内、被害の徴候異様にして、其原因の不明なるものは煙害の疑あり
1.四阪島の煤煙は、越智・周桑両郡の農業に対し頗る危険なり
これによって事態は、新居浜惣開時よりは深刻化し、関係区域は拡大し
問題はいっそう重大化することとなった。
農民の怒り 明治40年にも日吉町で100町歩にわたり稲作に著しい被害がでた。
41 年には、煙害は一段と激しくなった。煙害は海軟風のとき、日光が強く気温が高く、また湿度の高いときは 著しくその度 を増 す 。 のちに 、こういう気象を 「煙害日和」というようになったが、 この年はこうした日和が頻々と続いた。雨の日には、戸外へでると煙が臭くてせきがでて、とてもたまらなかったという 。麦作はきわめて不作であったし、稲作にも一様に茶褐色の班点を生じ、だんだん枯れはじめ、もはや前年程度の結実は望めなくなったので、被害農民はしだいに不穏の形勢をまきおこすようになった。この年は、県下で煙害に抗議する農民の運動が最高潮に達したときである。 なかでも、愛媛県知事安藤謙介の勧告により、住友の支配人久保無二雄と大阪本店理事中田錦吉が現地視察のため越智郡内に来た時が頂点であった。 一角耕平はその著 書 『東予煙害史 』 に、あらまし次のように 、 農民の動きを記録している。
8月23日、桜井の法華寺で集会をしていた農民の請求で、現地視察中の久保・中田の両人は法華寺へ向かった。桜井及びその周辺から集まって来たものは数千人を数えたという。農民を代表して桜井の加藤徹太郎が、明治38年の被害当初からの経過を詳細に説明し、「激甚の被害度」を詳しく述べ、農民の苦しみと農業の見とおしの暗さを訴え、鉱業というものは農民の忍耐を足げにすることも、絶好の利益を得るためには容赦をしないものかとつっこんだ。さらに、それまでの煙害の解決を促し、将来の方針はと鋭く迫ったが、両人は、調査中なので待ってほしいと述べるだけであった。
この時、富田村の鴻の森に集まった農民からも、直ちに視察を求められたので両人は富田へ向かったが、ここでも農民の興奮は極度にたかまり、被害は明白であるのに、まだ調査などとは何事かと雨中にたつ数千の農民は鋭くつめ寄り、怒りの声はば声とかわった。形勢は不穏となったので、両人は雨中を今治の吉忠旅館へのがれた。農民はこれを追って吉忠旅館へおしよせ、即決を迫った。警官の制止と郡長の説論で大部分は辰ノ口の大神宮に引きあげ、徹夜で協議を続けた。代表は中田に別宮の南光坊で会見することを要請した。
8月24日、南光坊には今治はもとより、富田・桜井・周桑からも農民が集まり、前日の数倍となって門の内外をうずめ、そのあまり、押しあいへしあいとなって騒ぎはきらに大きくなった。今治察署長はこの有様を見て尋常では沈静しないことを感じ、巡査らに抜剣の用意を命じた。農民は実力行動にはでなかったので大事にはならず、久保・中田の両人は巡査に護られて吉忠旅館へ逃げた。群衆はこれを追って吉忠旅館を囲み、雨の中・みのかさ・腰弁当で頑張った。そこで両人は、27日未明、ひそかに変装して松山へ逃れた。