今日はなんだか忙しい日だった。
朝から演奏なんぞをさせられて・・まあ、義務のようなものでしょうがないのだが、だいたいつもこの時期に国外逃亡を企てていたkおばちゃん、参加するのは久しぶりだったので・・遅刻してしまった。あ、言い訳ですね。
お昼は近くのホテルでお仲間といただいたのだが・・案外リーズナブルなのでびっくり。まあ、ご苦労様でした・・
ささ、続き
○4月28日(土)
海辺の散歩?を終えて、山?の方に向かったkおばちゃん。そこにあったのは・・
これ
ここ、平戸は昨日も書いたとおり、古代から大陸交流の玄関口。「平戸」いう地名も「平たい門戸」の意をもつらいしい。
何人ものいわゆる外国人が訪れているのだが、そのなかでも、現在も『有名人』である、フランシスコ・ザビエル(Francisco de XavierまたはFrancisvo de Gassu y Javier, 1506年4月7日 - 1552年12月2日)。
カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人で、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名だ。そして、kおばちゃんの記憶が正しければ・・あのポルトガルのポルトの教会に属していたんじゃなかったカナ?・・
1550年に前年に日本にやってきたものの、都へ移動できなかったザビエルご一行は、島津貴久のはからいで平戸へ移動することだ出来、そこでも宣教活動を行た・・ということですある。その後、3回くらい平戸を訪れているらしい。
その、来訪を記念したのがこの、『スランシスコ・ザビエル記念碑』らしい。
一応西洋式庭園のようのものが着いているが・・ちと手入れが・・しっかり手入れがしてあったらもっと美しいのに残念!と思ったkおばちゃんです。
そして、そこから少しまたあがったところにあるのが冒頭の写真の通り・・
『三浦按針のお墓』である。
ウィリアム・アダムスこと三浦按針(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年6月16日)は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。
1598年6月24日オランダのロッテルダムを出航した彼の乗ったリーフデ号は1600年4月19日(慶長5年3月7日)、豊後の臼杵に漂着。そこから按針の日本生活は始まったようだ。
まあ、詳しいことは書かないが、帰国願いは叶うことなく日本でお雪(マリア)というお嫁さんまでもらって、、息子のジョゼフと娘のスザンナがまでもつようになり・・(本国ですでに結婚していたが東インド会社を通じて『お手当て』だけは送っていたようだ。)
そして、さらに彼は250石取りの旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えられ・・そう日本で始めての外国人の『サムライ』The first foreign samuraiになったのである。(最初って言うけど、次は誰?)
そして、1620年の5月16日、三浦按針はここ、平戸で亡くなり埋葬されたそうである。享年56歳。
このお墓の脇にはこんなプレートが・・そう、近年になって元の奥さんの下にやっと返れたのである。
ご苦労様でした。
kおばちゃんが訪れたときは、ちょうど英語を話す団体さんがマイクロバスで乗り付けていた。
あら、日本人寄り彼らに人気があるのかしら・・なんて思ってしまったkおばちゃんです。
まあ、『異国情緒』という点では、平戸より後発の『長崎』のほうがはるかに有名。ちょっぴり寂しい平戸かな?なんて思っているkおばちゃんです。
朝から演奏なんぞをさせられて・・まあ、義務のようなものでしょうがないのだが、だいたいつもこの時期に国外逃亡を企てていたkおばちゃん、参加するのは久しぶりだったので・・遅刻してしまった。あ、言い訳ですね。
お昼は近くのホテルでお仲間といただいたのだが・・案外リーズナブルなのでびっくり。まあ、ご苦労様でした・・
ささ、続き
○4月28日(土)
海辺の散歩?を終えて、山?の方に向かったkおばちゃん。そこにあったのは・・
これ
ここ、平戸は昨日も書いたとおり、古代から大陸交流の玄関口。「平戸」いう地名も「平たい門戸」の意をもつらいしい。
何人ものいわゆる外国人が訪れているのだが、そのなかでも、現在も『有名人』である、フランシスコ・ザビエル(Francisco de XavierまたはFrancisvo de Gassu y Javier, 1506年4月7日 - 1552年12月2日)。
カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人で、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名だ。そして、kおばちゃんの記憶が正しければ・・あのポルトガルのポルトの教会に属していたんじゃなかったカナ?・・
1550年に前年に日本にやってきたものの、都へ移動できなかったザビエルご一行は、島津貴久のはからいで平戸へ移動することだ出来、そこでも宣教活動を行た・・ということですある。その後、3回くらい平戸を訪れているらしい。
その、来訪を記念したのがこの、『スランシスコ・ザビエル記念碑』らしい。
一応西洋式庭園のようのものが着いているが・・ちと手入れが・・しっかり手入れがしてあったらもっと美しいのに残念!と思ったkおばちゃんです。
そして、そこから少しまたあがったところにあるのが冒頭の写真の通り・・
『三浦按針のお墓』である。
ウィリアム・アダムスこと三浦按針(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年6月16日)は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家。
1598年6月24日オランダのロッテルダムを出航した彼の乗ったリーフデ号は1600年4月19日(慶長5年3月7日)、豊後の臼杵に漂着。そこから按針の日本生活は始まったようだ。
まあ、詳しいことは書かないが、帰国願いは叶うことなく日本でお雪(マリア)というお嫁さんまでもらって、、息子のジョゼフと娘のスザンナがまでもつようになり・・(本国ですでに結婚していたが東インド会社を通じて『お手当て』だけは送っていたようだ。)
そして、さらに彼は250石取りの旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず相模国逸見(へみ)に采地も与えられ・・そう日本で始めての外国人の『サムライ』The first foreign samuraiになったのである。(最初って言うけど、次は誰?)
そして、1620年の5月16日、三浦按針はここ、平戸で亡くなり埋葬されたそうである。享年56歳。
このお墓の脇にはこんなプレートが・・そう、近年になって元の奥さんの下にやっと返れたのである。
ご苦労様でした。
kおばちゃんが訪れたときは、ちょうど英語を話す団体さんがマイクロバスで乗り付けていた。
あら、日本人寄り彼らに人気があるのかしら・・なんて思ってしまったkおばちゃんです。
まあ、『異国情緒』という点では、平戸より後発の『長崎』のほうがはるかに有名。ちょっぴり寂しい平戸かな?なんて思っているkおばちゃんです。