歳のせいか明け方暗いうちに目が覚めることがある。そんなとき枕元のラジオのスイッチを入れて夜明けを待ったりする。
先日(3月31日)のラジオ深夜便「こころの時代」は「空から日本を見続けて~民間パイロット42年間の軌跡」と題して元パイロット 水間博志氏が語っていた。(聞き手 榊寿之)
氏は1923年生まれ、現在は現場から離れ、講演や著作で活躍されている。1944年逓信省航空機乗員養成所操縦科を卒業し、戦時中は要人の空輸にも従事し命がけの飛行を余儀なくされた。戦後は日本航空創立と共に入社し、乗員訓練、自身も機長として国際線を飛翔し1983年飛行時間1万9003時間の無事故安全運行を達成し定年を迎えられた。
ラジオでは数々の波瀾万丈のエピソードを語られていて、平凡人生だった私にとっては思わず聴き入る内容であった。
朝起きてから早速ご著書の「空と人生 42年の奇跡」文芸社をネットで注文すると2日後の配達されてきた。
本の帯には「戦中戦後の激動期に航空と携わり、民間航空の歩みとともにあった、パイロットとしての希有な体験と壮絶な生き様を綴った昭和史」とある。いまだに自分は飛行機には縁がなく乗ったこともない、3次元の世界、飛行機野郎とは・・・興味津々で読んだ。
昭和20年陸軍航空本部軍属嘱託を命ぜられ、要人空輸を行ったくだりがある。
「福岡から上海に軍司令官、副官、参謀将校らをのせあと30分もすると上海というところで敵機の襲来に遭う。敵は米P51戦闘機で不気味なバリバリという機関砲の音が炸裂した。こちらの飛行機は無防備の旅客輸送機で逃げるしかない。餌食になるのは時間の問題というとき、高度2000mから海面スレスレの超低空飛行が脳裏に浮かび決行する。波しぶきが操縦室の窓ガラスを容赦なく叩きつける。敵機は執拗に追ってき、機銃掃射を浴びせてくる。銃弾は愛機の後方海中に流れ被弾は免れ低空飛行が一応成功しているのだ。数分後、後方で大きな爆発音と波しぶきが高々と打ち上げる光景が見えた。敵機が深く突っ込みすぎてそのまま海中に突入、爆発炎上した。編隊のため二機とも運命をともにした。
この命がけの冒険の後、無事上海飛行場に着陸すると、要人一行は深々と私たちに向かって拝むような表情で最敬礼をしてくれた。飛行機野郎冥利に尽きる感激であった・・・・」
また、原爆投下後の広島視察に要人を空輸した体験も語られている。
「乗員は参謀将校のほかに仁科博士が乗っていた。広島上空にさしかかった途端、私は「アッ!」と叫んだ後絶句してしまった。市内一面がローラーで押し潰したように、黒くノッペリしているのだ。人も車も、電車も生き物も、上空から見る限り、何一つ動いていない。・・・
飛行場に降り立った仁科博士は『操縦士の人たちは、絶対外に出ないようにしてください。そして、なるべく早く此処を飛び立ちなさい』という。この助言によって死の灰から守られ、命が救われたことを後に専門家から聞かされた。
当時の要人空輸メンバーは11人、すでに私以外は他界された。広島原爆上空観察唯一の生き証人として原爆の悲劇、核兵器廃絶を著者や講演で全世界に向けて訴えさせていただいている」
巻末には、「空の安全はどうやってもたらされるか」という節があって、「所詮はどんなに技術革新が進んでも、人間が機械をコントロールすることに違いはないのだ。どんなに優秀でどんなに研修を積み重ねた人間でも、錯覚、勘違い、うっかりミス、そして疲れや、慣れによるミスを起こす。
ハイテク、自動化が進む中で、機械への慣れ、過信はますます要注意で、精巧な機械になればなるほど、その落とし穴には心していくひつようがある。」と書かれている。
ジェット機だけではなく、船舶、自動車、工場、病院、個人の生活すべてに当てはまるだろう。地上とは違い3次元の世界、神経を使う離着陸作業、何度か危機一髪の状況を経験されたが、自分のことを生来小心で臆病であると仰っている。自信過剰にならず万全の準備と訓練で乗り越えてこられた著者ならではの言葉だと思う。
「達観人生の勧め」では老年期の心の持ち方にも言及されていて大変参考になった。
先日(3月31日)のラジオ深夜便「こころの時代」は「空から日本を見続けて~民間パイロット42年間の軌跡」と題して元パイロット 水間博志氏が語っていた。(聞き手 榊寿之)
氏は1923年生まれ、現在は現場から離れ、講演や著作で活躍されている。1944年逓信省航空機乗員養成所操縦科を卒業し、戦時中は要人の空輸にも従事し命がけの飛行を余儀なくされた。戦後は日本航空創立と共に入社し、乗員訓練、自身も機長として国際線を飛翔し1983年飛行時間1万9003時間の無事故安全運行を達成し定年を迎えられた。
ラジオでは数々の波瀾万丈のエピソードを語られていて、平凡人生だった私にとっては思わず聴き入る内容であった。
朝起きてから早速ご著書の「空と人生 42年の奇跡」文芸社をネットで注文すると2日後の配達されてきた。
本の帯には「戦中戦後の激動期に航空と携わり、民間航空の歩みとともにあった、パイロットとしての希有な体験と壮絶な生き様を綴った昭和史」とある。いまだに自分は飛行機には縁がなく乗ったこともない、3次元の世界、飛行機野郎とは・・・興味津々で読んだ。
昭和20年陸軍航空本部軍属嘱託を命ぜられ、要人空輸を行ったくだりがある。
「福岡から上海に軍司令官、副官、参謀将校らをのせあと30分もすると上海というところで敵機の襲来に遭う。敵は米P51戦闘機で不気味なバリバリという機関砲の音が炸裂した。こちらの飛行機は無防備の旅客輸送機で逃げるしかない。餌食になるのは時間の問題というとき、高度2000mから海面スレスレの超低空飛行が脳裏に浮かび決行する。波しぶきが操縦室の窓ガラスを容赦なく叩きつける。敵機は執拗に追ってき、機銃掃射を浴びせてくる。銃弾は愛機の後方海中に流れ被弾は免れ低空飛行が一応成功しているのだ。数分後、後方で大きな爆発音と波しぶきが高々と打ち上げる光景が見えた。敵機が深く突っ込みすぎてそのまま海中に突入、爆発炎上した。編隊のため二機とも運命をともにした。
この命がけの冒険の後、無事上海飛行場に着陸すると、要人一行は深々と私たちに向かって拝むような表情で最敬礼をしてくれた。飛行機野郎冥利に尽きる感激であった・・・・」
また、原爆投下後の広島視察に要人を空輸した体験も語られている。
「乗員は参謀将校のほかに仁科博士が乗っていた。広島上空にさしかかった途端、私は「アッ!」と叫んだ後絶句してしまった。市内一面がローラーで押し潰したように、黒くノッペリしているのだ。人も車も、電車も生き物も、上空から見る限り、何一つ動いていない。・・・
飛行場に降り立った仁科博士は『操縦士の人たちは、絶対外に出ないようにしてください。そして、なるべく早く此処を飛び立ちなさい』という。この助言によって死の灰から守られ、命が救われたことを後に専門家から聞かされた。
当時の要人空輸メンバーは11人、すでに私以外は他界された。広島原爆上空観察唯一の生き証人として原爆の悲劇、核兵器廃絶を著者や講演で全世界に向けて訴えさせていただいている」
巻末には、「空の安全はどうやってもたらされるか」という節があって、「所詮はどんなに技術革新が進んでも、人間が機械をコントロールすることに違いはないのだ。どんなに優秀でどんなに研修を積み重ねた人間でも、錯覚、勘違い、うっかりミス、そして疲れや、慣れによるミスを起こす。
ハイテク、自動化が進む中で、機械への慣れ、過信はますます要注意で、精巧な機械になればなるほど、その落とし穴には心していくひつようがある。」と書かれている。
ジェット機だけではなく、船舶、自動車、工場、病院、個人の生活すべてに当てはまるだろう。地上とは違い3次元の世界、神経を使う離着陸作業、何度か危機一髪の状況を経験されたが、自分のことを生来小心で臆病であると仰っている。自信過剰にならず万全の準備と訓練で乗り越えてこられた著者ならではの言葉だと思う。
「達観人生の勧め」では老年期の心の持ち方にも言及されていて大変参考になった。