落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

中国人団体旅行ビザ発給拡大

2007年05月21日 | 政治・外交
 冬柴国交大臣(公明党)が外務省に圧力?
団体旅行ビザ発給 在中国全公館に拡大 見切り発車懸念 不法残留温床に?産経新聞 2007年5月21日(月)02:54
 外務省は中国人に対する団体観光査証(ビザ)について、今月末から在瀋陽総領事館と在大連出張駐在官事務所でも取り扱いを始め、ビザ発給拠点を中国本土の全6公館に拡大する。ただ、この決定の背景には冬柴鉄三国土交通相から外務省への「強い働きかけ」(同省関係者)があったといい、ビザ発給事務にかかわる公館の態勢整備や不法残留対策などはなおざりにされたまま。「見切り発車」的な決定に政府部内から懸念の声が漏れている。
 政府は平成12年、日中両国の交流拡大を目的に、両政府が指定する旅行会社が日本への団体旅行を組織する場合、日本側に身元保証人を立てることなく、15日以内の短期滞在ビザを発給する制度を導入した。
 当初は北京市など2市1省に発給対象地域を限定していたが、17年には中国全土に拡大。瀋陽、大連両地域の在住者は16年9月からビザ発給を受けられるようになったが、北京の日本大使館に出向かなければならなかった。今年が日中国交正常化35周年の節目にあたることもあり、与党幹部らからは、両地域をカバーする公館での発給を求める「圧力」が強まっていた。
 複数の政府関係者によると、冬柴氏は昨年12月に中国国家観光局の招きで訪中した際、北京の日本大使館に「訪日観光客を増やすためにビザ発給の事務を瀋陽、大連でもできるよう検討してほしい」と要請。しかし、大使館サイドは「ビザ発給事務のためには両公館の人員増が必要」と難色を示し、冬柴氏は帰国直後、麻生太郎外相に直談判。外務省の担当部局にも電話し、増員の状況を確認していた。冬柴氏側は産経新聞の取材に対し、こうした事実を認めている。
 外務省が在瀋陽、大連の両公館でビザ発給を行っていなかったのは「人員不足が原因」(幹部)だったが、冬柴氏の働きかけを「与党有力政治家からの強い要請と受け止めた」(同省筋)として、両公館でのビザ発給取り扱いに踏み切る方向に傾いた。同省では方針決定を受けて急遽(きゅうきょ)、「関連機械の導入や人員強化を準備する」ことになった。

 18年の中国人の出身地域別のビザ申請件数は北京、上海、広東省に続き、瀋陽が4位、大連が5位を占める。一方で、両地域については「経済的に豊かな地域の旅行者に比べ、不法残留発生率が高い」(外務省筋)とされ、同省幹部は「解禁後の不法残留の統計を慎重にみる必要がある」としている。
                   ◇
【用語解説】中国人の査証発給と不法残留者
 中国での査証(ビザ)の発給件数は平成18年、前年比25.1%増の約51万件で、韓国を抜いて各国・地域中最多となった。団体観光を含む短期滞在ビザは17年の対象地域拡大後に急増し、このうち約39万件に上っている。
 一方、法務省によると、19年1月現在の中国人の不法残留者数は2万7698人で、韓国人、フィリピン人に次ぐ。中国人の不法残留者の約2割は、短期滞在資格での入国者で、団体観光ビザの発給拡大が新たな温床となる恐れも否定できない。不法残留者が日本国内で犯罪に関与するケースも少なくなく、政府は在外公館でのビザ発給審査の強化などにより、16年から不法滞在者を半減させる5カ年計画を実施している。

 中国人犯罪、朝鮮人犯罪が増加し社会不安を招いている。外務省も問題ありと認識しながら了承するとはどういうことなのか。そんなに急ぐ必要があるのだろうか。

大相撲5月場所・中日

2007年05月20日 | 日常・身辺
 ようやく風邪も退散し、TVの相撲を少し見た。

 全勝  朝青龍、白鵬、出島、普天王
 1敗  琴欧洲、魁皇、千代大海、琴光喜、朝赤龍
 2敗  高見盛、龍皇、北勝力

 白鵬(押し出し)稀勢の里
 白鵬の表情が先場所と違い清々しく、視線もしっかりして精神的にぐっと安定感が増したように見受けた。稀勢の里のなんとか食らいついてやろうという攻めに冷静に対処したように思う。
 白鵬の大ファンという橋幸夫さんの解説によると白鵬は日本語も書けるそうだ。相撲だけでく日本文化面への理解を深めようという姿勢はたいしたもの。橋さんは相撲の世界的な普及を強調されていたが全く同感。シラク氏に代わって新しく就任したサルコジ仏大統領が「相撲は知的なスポーツではない」と仰ったそうだが、そんなことを云わず国際放送でも見て親しんでもらいたいものだ。

 千代大海(押し出し)垣添
 昨日の豊ノ島戦での1敗を吹っ切るかのような回転のよい突き押し。

 前半戦、珍しく(?)普天王、北勝力が快調。明日からの後半が楽しみ。

西脇市黒田庄町 白山(510m)、妙見山(622m)

2007年05月15日 | 散歩・山歩き
(2007/05/19記 HPにも掲載しています)
 快晴。しかし、鼻水がやたら出る、風邪かな? ま、熱もないようだし大丈夫だろうと出かけた。だが帰ってから2,3日寝込むことになった。

 村中・住吉神社(8:55)~妙見登山口分岐(9:05)~かぎかけ岩(10:10)~つえたて(10:15)~妙見堂(10:25)~まばを展望所(10:45)~妙見山622m頂上(11:00)~十字路(11:15)~途中で昼食~白山510m頂上(12:30-12:40)~門柳分岐(13:12)~門柳・白山登山口(13:55)~村中・住吉神社(14:05)

 白山、妙見山は先日登った西光寺山の北側になる(間には同じぐらいの高さの峰が一つ入る)。
 丹波、篠山、西脇方面も度々走ったのでおぼろげながら道路網も頭に入り、スムーズに現場に到着した。黒田庄でR559線に入るとますます端正な田園風景になってきた。この道はやがて行き止まりになる。その北側に目的の山があるが登山口の標識は県道からは見えない。バイクを駐めて、草刈り機をおいて悠然と一服しているご主人(80前後にお見受け)に「あれが白山ですね、登山口は・・」と尋ねてみた。「・・・と行きなさったらええ」と親切丁寧な答えが返ってきた。

 「村の鎮守の神様の」住吉神社はすぐに見つかった。すぐ前にある小さな空き地に駐めさせていただき、行動を開始した。ゴミ一つ落ちていないきれいな村、時折郵便配達のバイクが通るくらいでとても静かだ。ここから妙見山、白山と巡回し帰ってくる。
 神社脇から登ると妙見山登山口があった。獣害防止の電柵をくぐってゆく。高度が上がると妙見山の後に辿る白山が見えてきた。山道はシダの若葉に覆われていた。汗が滴ってくるが、今日は鼻水もしきりに出る。首から提げた手ぬぐいの左で鼻水、右で汗と使い分けていたがしまいにはどちらでもよくなってしまった。ときどきくしゃみも出る。誰もいないので思い切り大きくやる。

 山道がひんやりした桧林になるころ妙見堂に付いた。辺りはマムシ草(ホソバテンナンショウ)が目立って多い。妙見堂にお参りし、周辺を撮った。
 「まばを」は、白山までの唯一の展望所である。そこからは三角点山が望まれた。その山が先日登った西光寺山によく似ていたので西光寺山と思いこみ、白山頂上で出会った4人パーティーに指摘されるまで勘違いしたままであった。西光寺山は713mありそれより低い山から眼下に見えるはずがないし、方角も違うのだがどうかしていた。これも風邪のせいか。
 妙見山頂上は尾根の一部のような感じで、標識と三角点が静かな林の中にある。登山者記録箱が備えてあり中を見ると5月連休以降の記録はなかった。
 白山頂上までは桧林や自然林の間を行き、たまに木々の間から下界が見える程度であった。
 白山頂上手前で一組の夫婦が降りてくるのに出会った。頂上は広い岩が露出して見晴らしがよい。5月の日射しは強くまぶしい。写真を撮っていると、前坂ルートから二組の夫婦のパーティーが上がってきた。「こんにちは」と賑やかになる。自分の門柳(もんりゅう)妙見、白山周回コースを説明したりする。「前坂からの尾根歩きはいいよ、今度は是非歩いてみて」などと薦められた。例によって今まで歩いた兵庫の山々を話あったりする。私の靴を指して「相当年季が入った靴ですね、もう何年も履いているの?」「いえいえ、まだ1年余りですがあちこち登っているとこうなりました」と答えると「ほう、すごいね」と感心された。話の中で若い方のご主人はは3歳上であることが分かった。もう一人のご主人はさらに上のようだ。今日はここで弁当にしてまた引き返すとのこと。「ではお先に」「お気を付けてね」とお別れして白山を後にした。

 門柳への下りはなかなか急斜面で完全に回復していない膝にはこたえた。ストックを使い休み々々根気よく降りることにした。

 元の住吉神社には午後2時頃帰ってきた。やはり風邪気味のためか疲労度がいつもと違う。アンダーシャツを着替えベンチでぐったりしていると一輪車を押しながら小柄なお婆さんが通りかかった。背中の曲がり具合からみると80歳前後だろうか。きっちりと日よけ帽を被り午後の作業に出かけるところらしい。会釈すると
 「こんにちは、どちらから」上品なお顔で美人だ。
 「神戸からです」
 「ほう、そりゃ遠いところから来なさった」
 「遠いと云っても1時間半ぐらいでこれるんですよ」
 「なんにもないところでしょう」
 「いえ、今日は妙見山と白山に登ってきたところです」
 「そうでしたか・・ 私の娘が神戸の水道筋におります。孫がちいさい頃はキャンプなどといってよく来てくれましたが最近はとんと」
 「そうですね、中学生以上になるとクラブ活動やなんかでもう遊んではくれませんねぇ」
 「ほんとにね」
 「夜は静かでしょう」
 「そう、これからは蛙の声、昼は蝉の声」
 「まだこんな農作業のまねごとをしてるんですよ」
 「いやいや、それがいいんですよ」・・・
 神社の前でごま塩頭爺さんとお婆さんの会話がしばらく続いた。

 午前に登山口を教えてもらったお爺さんといい、このお婆さんといい悠々と落ち着いた表情、この静かな村のたたずまいが素晴らしかった。

 バイク走行 130km  帰宅 16:00

日本海呼称

2007年05月13日 | 政治・外交
 韓国は「日本海」という名前を「東海(トンヘ)」に変えたいらしい。
議長提案の不表記案は表決されず 日本海呼称問題 産経(2007/05/11 20:49)
 塩崎恭久官房長官は11日午後の記者会見で、日本と韓国が対立している日本海の呼称問題をめぐり、モナコでの国際水路機関(IHO)総会で、海図の改訂版策定作業について「日本海」の表記を含まない形で当面進める議長提案がいったん出されたが、日本の反対を受けて表決されなかったことを明らかにした。
 韓国は日本海の呼称を「東海(トンヘ)」と主張し、日韓間で呼称に関する同意が成立するまで併記すべきだと主張、北朝鮮も同調している。
 塩崎氏は総会の状況に関し「韓国に有利な展開になっていない」と強調した。

 既に竹島を乗っ取り、日本海呼称を変えることによって既成事実化しようとしている意図が丸見えだ。次は対馬が危ないというまことしやかな噂も聞く。
 Wikipediaによれば、長崎県対馬は韓国と姉妹都市提携や姉妹校縁組みをしたりして交流が盛んで、韓国の観光客も多いらしい。反面、その一部の観光客のマナーの悪さが目立っているという。
 大統領自ら日本の歴史認識を改めよと反日発言をするお国柄だ。NHKの韓流ドラマに端を発したブームは去ったようだが、まだまだ韓国に対する日本国民の認識は甘いのではないか。経済交流は結構だがそれなりの付き合い方があるはずだ。

グランド・ホテル

2007年05月12日 | 音楽、映画
 1932年(昭和7年)アメリカ映画。特定の場所で様々な人生模様を描き出す「グランド・ホテル形式」の語源となった作品と云われている。

 「ホテル、そこは様々な人が去来するところ」というキャッチフレーズに惹かれて観た。5人の男女が登場するがその中に病気で余命幾ばくもなく最後に贅沢をしてホテルの最高級の部屋を借りた男が面白かった。まだご覧になっていない方のために書くのは控えるが、人によっては興味の対象となる登場人物は様々だろう。

 (写真を拡大するとあらすじが読めます)
 DVDは399円になった。いやぁー、古い映画って面白い・・・
 

篠山市 西光寺山(713m)

2007年05月08日 | 散歩・山歩き
 GWも終わりすっかり初夏の陽気になった。
 膝の調子はイマイチだが、出かけることにした。西光寺山は篠山市今田町本荘から入っていった。山頂は西脇市との市境になる。

 webで知人がブログでサギソウの花を紹介されていた。西光寺山の登山口にサギソウの自生地がある。暖かいこともあってひょっとしたら見られるかと思ったが、残念ながら場所の確認だけに終わった。通りかかった地元のおじさんの話では8月頃とのことだった。自然環境と園芸ではやはり違うのだろう。自生地のサギソウはだんだん数が減っている。復活のため3年ほど前、小学生がみんなで苗を植え込む作業をしたが今はそれもしなくなったとのこと。掘って持ち去る不心得者が後を絶たないそうである。残念なことだ。

 山頂までは展望がきかず、新緑の下を汗をかき鶯の鳴き声を聞きながらひたすら登り、降りるだけであった。山頂では東から南にかけて眺望が開けている。以前登った虚空蔵山も確認できた。北側の畑谷川の俯瞰は立木で見えなかった。4月に登った氷上町の向山からこの西光寺山が見えていたが、向山も視界が遮られは確認できなかった。
 下山は寺坂道を通った。山中の寺屋敷跡は僅かに礎石らしきものがあった。登山口には13時頃帰ってきた。

 今日は大失敗をやらかした。登山口の西光寺池の畔に小さな空き地がある。そこにバイクを駐めようとして足を着きながら回り込むときゴロゴロ石に乗り上げバイクを倒してしまった。危ないと思いながら足を踏ん張ったが寄り倒され、肘と膝小僧を擦りむいた。バイクのマフラーが少しへこんだ。緊急にエンジンを止めるボタンを今回初めて使った。やや傾斜している下側から130kgのバイクを起こすのはなかなか重く一苦労した。
 血が滲んだところにばんそこうを貼っているとき、さきほどのおじさんが通りかかった。バイクと相撲という格好の悪いところは見られずにすんだ。話をしながら手当をしていたが気に留める風でもなくサギソウの話を聞かせていただいた。

 帰りはのどかな西光寺池で一服した後、どこにも寄らず早々に帰宅した。
 まだ日の高い時間だが風呂を沸かし汗を流した。昼寝をしたがまだ明るく、随分日が長くなったものだ。

 バイク走行 130km  帰宅 14:45
(写真:本荘付近の代掻きの終わった水田から西光寺山を望む)

栃東引退

2007年05月07日 | 日常・身辺
 横綱朝青龍を脅かす存在だった栃東が引退を発表した。
大関栃東が引退表明 優勝3回、けがにも苦しむ 産経(2007/05/07 11:28)
記者会見で引退を表明する大関栃東=7日午前、東京都足立区の玉ノ井部屋
 大相撲の大関栃東(30)=本名志賀太祐、東京都出身、玉ノ井部屋=が7日、東京都足立区の玉ノ井部屋で記者会見し、「気力がなくなった」と正式に引退を表明した。

 栃東は3月の春場所で頭痛を訴え、途中休場。精密検査で過去に脳梗塞を患っていたことが判明し、医師から引退を勧められたという。「(現役を)やりたい気持ちもすごくあったが、頭のことがあって前向きな気持ちになれなかった」と語った。今後は年寄「栃東」として玉ノ井部屋で後進を指導し、父で師匠の玉ノ井親方(元関脇栃東)の定年退職後に部屋を継承する。

 栃東はおっつけ、はず押しを武器に2001年九州場所後に大関に昇進した。新大関の02年初場所で初優勝し、序ノ口から各段すべてで優勝。肩や両ひざのけがに苦しみ大関から関脇に2度落ちたが、史上初めて2度とも復帰した。春場所まで大関を30場所務め、優勝3回を記録した。

 ■栃東の話 医師から相撲を続けることは考えられないと言われた。こればかりは仕方ない。今まで一生懸命やってきたので悔いはない。いい方たちに恵まれて相撲人生が送れた。

 ■栃東の父で師匠の玉ノ井親方(元関脇栃東)の話 入門したときは不安だったが、小さい体で精いっぱいやった。病気が分かったのは不幸中の幸いだった。本人も悔いはないと思う。

 栃東 大裕(とちあずま・だいすけ=本名志賀太祐) 東京都足立区出身、玉ノ井部屋。師匠の玉ノ井親方(元関脇栃東)の二男。94年九州場所で初土俵を踏み、96年九州場所新入幕。新大関の02年初場所で初優勝した。けがで2度大関から関脇に転落したが、2度とも復帰した。優勝3回。三賞受賞12回(殊勲3、敢闘2、技能7)は史上9位。得意は左右のおっつけ、押し。180センチ、155キロ。30歳。

 先場所は膝をかばいながらも勝ち越し、休みはしたものの再起をかけてのことと5月場所を期待していたのだが残念。
 無理をして脳梗塞になったりしては元も子もない、こんどは後進の指導で玉ノ井部屋から素晴らしい横綱の輩出に期待しよう。

アルバムの子供達

2007年05月05日 | 日常・身辺
 子供の日


 我が団地(200所帯)内は鯉のぼりは見ない。一昨年自治会役員をしたときは小学生は20人にも満たなかった。赤ちゃんも見かけるので今もその程度と思われる。
 子供の成長は小さい間は早く大きくなれ、まだかまだかと思っているが済んでみるとあっというまだ。次男はこの連休に母親のもとを離れ大学の近くのアパートに引越し完全にバラバラ家族になった。
 他人様に迷惑をかけず、他人様のお役に立てるようになってくれればそれでいい。
 (写真:1991年)


 倅達の世代は生まれたときからTVがあり、パソコンがある。自分の子供の頃とは格段に情報量が違う。多分良いことなんだろう。
 (私の古いPCの簡単なゲームで遊ぶ 1991年頃)

 
 1993年 父子3人で芦屋から有馬まで六甲山を歩いた。