・片手袋を分類する事の危険性と利点
さて、何カ月にもわたって毎週月曜日に書いていた“片手袋の分類法”を前回総括してみた。なにしろ物凄く細分化されていて分かりづらかったので。
ただ、この“片手袋を分類する”という行為、やればやる程僕自身、一つの大きな疑問が湧いてくるのだ。
手袋を片方だけ落としてしまう、落ちてる手袋を拾ってあげる。どちらも人間が無意識にしてしまう行為であるし、そこが最大のおかしみ、魅力であると思う。
僕が片手袋を撮り続けるような人間になった最大の影響は、赤瀬川原平さんである事はこのブログでも何度か書いていると思う。その赤瀬川さんもトマソン(知らない人は調べてみよう!)に関して、“人間の無意識”という点を重要視していたと思う。
しかし、“物事を分類する”という行為は、無意識的に拡充していく物事、世界を、人間の意識下に手繰り寄せる行為であると思う。分類が進めば進むほど、どんな片手袋に出会っても「ああ、いつものこれか。これは○○な場所で○○の状況になった時に発生しやすいんだよな」という具合に無意識からは遠く離れていってしまう。
勿論、片手袋を分類する、というのは例えば魚や虫の学術的分類をパロディ的に楽しんでやっている、という側面が大きいのだが、やり始めてからしばらくして上記のような疑問を持ってしまったのである。
しかし、前にも触れたこのタイプの片手袋に出会って疑問は氷解した。
これは最近急激に増えてきた自転車用のグローブタイプの片手袋である。
クロスバイクなどを中心とした本格的な自転車の愛好家が、何年か前から都心で急激に増大している。それを反映するように自転車用の片手袋も急激に増えているのだ。
しかし、、今までに出会った片手袋の種類などを体系的に理解していないと、このタイプが増えているという事実に気付く事すら出来なかったと思うのだ。
確かに片手袋をガチガチに分類してしまう事は、人間の無意識の面白さを消してしまう行為なのかもしれない。しかし、それをする事によって、時代や流行が生み出すその時々の“新たな無意識”に気付く事が出来る、というのもまた事実なのだ。
いずれにせよ、片手袋を撮っていく過程で、余計な考察など加えずにひたすら撮り続ける、という選択もあったかもしれない。しかし、僕はそうしなかった。そして今は、そうしなかった事で得られた利点を信じてみよう、と思う次第である。