>そして、ルールや手順を遵守しながら討論をかわすでもなく、長いものに巻かれろ、で先生の意向や集団の空気で決まることへの理不尽さをよく分析しました。
理不尽は日本人の常識のようなものですからね。日本の常識は、世界の非常識。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
>彼なりに、考えに考えて出した結論なので、ダンスをやらない自由を選ぶ以上、自己責任をとらねばなりません。 >成績が悪くなっても仕方ありません。 >実は、彼は幼稚園から小学生まで、お父様の仕事の関係で、欧州各国で教育を受けていました。 >そのため、納得するまで討論し合いたいのです。
それは見上げた態度ですね。
日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。どんな場合にもお変わりのないことが何よりなことである。
>空気が支配する、日本の学校集団文化には馴染めないのでしょう。
それは非言語の世界ですね。言語がなくては筋が通りません。
>日本人から見たら、ただの我がままに見えるかもしれません。 >チームワークを乱す、悪いヤツかもしれません。
ご唱和の世界の狼藉者でしょうね。
>しかし、学校は思春期の青年たちに「なぜ、ソーラン節なのか」を少なくとも説得力を持って説明する責任はあったでしょう。
リーズンがなくては説明にはなりませんね。なれ合うしかない。それは ‘なあなあ主義’ ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
>また、民主主義はさまざまな意見を大切にします。 >反対意見の相手の人権も守るという観点からみたら、この事案は特にアフターフォローも必要でした。
それで、問題はリーズナブルに解決したのでしょうか。
立憲主義、人権、民主主義といった諸原理自体は、多様な個人の共生を可能にする基礎であり、普遍的なものとして受け入れなければならないですね。
>価値観の違いについては、私たち日本人も身近な問題から大きな問題まで、ぶれることなく正しい選択や判断ができるよう、考える力を身につけたいものです。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。
日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。
要は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神ができる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけの比較であれば、上と見るか下と見るかの判断になり現実肯定主義にならざるを得ない。日本人の場合はこれである。
非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
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