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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本の大問題 3/3 

2020-12-05 05:36:34 | 文化

 

>そして、ルールや手順を遵守しながら討論をかわすでもなく、長いものに巻かれろ、で先生の意向や集団の空気で決まることへの理不尽さをよく分析しました。 

 

理不尽は日本人の常識のようなものですからね。日本の常識は、世界の非常識。     

 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>彼なりに、考えに考えて出した結論なので、ダンスをやらない自由を選ぶ以上、自己責任をとらねばなりません。 >成績が悪くなっても仕方ありません。 >実は、彼は幼稚園から小学生まで、お父様の仕事の関係で、欧州各国で教育を受けていました。 >そのため、納得するまで討論し合いたいのです。 

 

それは見上げた態度ですね。

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。どんな場合にもお変わりのないことが何よりなことである。  

 

>空気が支配する、日本の学校集団文化には馴染めないのでしょう。 

 

それは非言語の世界ですね。言語がなくては筋が通りません。   

 

>日本人から見たら、ただの我がままに見えるかもしれません。 >チームワークを乱す、悪いヤツかもしれません。 

 

ご唱和の世界の狼藉者でしょうね。   

 

>しかし、学校は思春期の青年たちに「なぜ、ソーラン節なのか」を少なくとも説得力を持って説明する責任はあったでしょう。  

 

リーズンがなくては説明にはなりませんね。なれ合うしかない。それは ‘なあなあ主義’ ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。

 

>また、民主主義はさまざまな意見を大切にします。 >反対意見の相手の人権も守るという観点からみたら、この事案は特にアフターフォローも必要でした。 

 

それで、問題はリーズナブルに解決したのでしょうか。  

立憲主義、人権、民主主義といった諸原理自体は、多様な個人の共生を可能にする基礎であり、普遍的なものとして受け入れなければならないですね。   

 

>価値観の違いについては、私たち日本人も身近な問題から大きな問題まで、ぶれることなく正しい選択や判断ができるよう、考える力を身につけたいものです。

 

 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。

要は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神ができる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけの比較であれば、上と見るか下と見るかの判断になり現実肯定主義にならざるを得ない。日本人の場合はこれである。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

 

 

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日本の大問題 2/3 

2020-12-05 05:04:31 | 文化

 

>くだらないから、やりたくない」。>なるほど、一応、理由があったわけです。

 

理屈は大人も子供も共通である。だから、大人と子供の対話も成立する。ところが、日本人は '理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる' とうそぶいて理屈を言う人を相手にしない。そして、自分たちにはもっと複雑で難しく重要な事柄があると心得ているようである。心ここ在らざれば視れども見えず。だから、自分たちの屁理屈に気づくことは無い。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることはない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。  

 

>「でも、集団のダンスなら、君一人がやらないことで調和が崩れて、台無しになってしまうし、運動だと思って割り切ってやれば」と言うと、彼は「中学生最後の思い出に、記念になるようなものを…という目的で熱心に話し合ったのに、例年通りじゃあ意味がないし、意味がないってことで、僕は筋を曲げたくない」と言い張ります。>そこまで言うなら良いでしょう。 

 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。  

 

>先生には、彼の主張は伝わっていたようなのですが、生徒たちみんな、特に他のクラスの人達には伝っていないようでした。  

 

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。    

 

>私が会った時には、彼ひとりだけで下校していましたし、カバンがいやに汚れていました。 >理由を聞いてみると、体育大会の練習がはじまってから、友人たちは彼を避けるようになり、教室では物が隠されたり、様々ないやがらせ、ハラスメントを受けているようなのです。 >彼は「たとえ、知らないところでカバンが蹴られて白くなっていても、それを見たところで先生たちは知らん顔さ。>僕は先生に逆らっているから。 

 

寄らば大樹の陰’ ですね。   

 

>いじめはダメの法治主義でなく、集団圧力という人治主義なのさ。 >これが日本という国なのさ」と言います。 >とても頭の良い子です。 >そして、“我一人行く” ある意味、見上げた根性です。 >このような学生はめったにいません。

 

そうですね。自主・独立の人ですね。わが国では潰される人ですね。わが国は、反教育的な国ですからね。     

 

 

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日本の大問題 1/3 

2020-12-05 04:35:19 | 文化

 

>362278          日本の大問題。自分の頭で考える子ばかりがいじめられる妙な空気感 >新直           20/12/04 PM00 >以下リンクより引用

>学校や職場、そして普段の生活の中にも存在する日本独特の問題、それは「集団圧力」という空気感です。 

 

 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。   

 

>この「異なる考えの人間を排除する」問題ですが、みなさんも日本で生活していれば一度は心当たりがあるのではないでしょうか。  

 

そうですね。異なる考えを持つ人には特高警察がやってくる。   

 

>●集団圧力に負けない、正しく考える力とは

>小学生や中学生の「いじめ相談」を受けていますが、子育ての相談にのることもあります。 >その中で、学校文化、いわゆる日本独特の問題につきあたることがあります。 >つまり、欧米では問題にならないのに、日本では問題になるということです。 >それは、価値観の問題でありますが、「集団圧力」という空気が支配する問題です。

 

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。  

 

>ある公立中学生男子のお母さまから、相談がありました。 >息子さんは、成績優秀で英語とピアノが得意ですし、スポーツもそこそこにできる子なのですが、すこし頑固なところがあります。 >ある日、演舞というか集団ダンスの練習をしているのが目に入りました。 >そこで息子が参加してはいるのですが、手足をふる程度で、いかにもいやいや付き合っている様子で、参加しているとは言い難い姿を見たのです。  

 

残念な現実ですね。   

 

>本人にストレートに聞いてみました。 >彼は「だって、ソーラン節だよ。 >北海道の民謡ではないですか。 >僕は昨年の先輩たちの演舞を見て、3年になってすぐクラスで話して、まとまったから全体に提案したんだ。 >この地方の音楽を使った郷土愛にあふれたものにしようって。 >一度は話し合いで、クラス代表が集まった全体の会議でそれが決まった。 

 

わが国のような《高文脈文化》の社会においては、/ 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される。

欧米のような《低文脈文化》の社会においては、 / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される。

 

>でも、先生たちが嫌な顔をして。>みんな先生たちの顔色をうかがって去年と同じにした。 

 

中学生が先生たちの意向に忖度 (推察) を働かせたのですね。   

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

 

 

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