gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

根深い害 2/2 

2020-12-23 18:14:56 | 文化

 

日本人は・奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。日本人は、無哲学・能天気である。

政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。だから、序列人間は人間の序列を作る。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自己の存在を確認している。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列人間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

わが国は、人手不足はあっても、頭脳不足の無い国である。人間に頭を使う習慣のないのは、大きな損失である。特に、我が国のような資源小国においては特にそうである。  

 

>中学受験塾、進む低年齢化 「席埋まる前に」早めに入塾リンク

>— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) November 28, 2020

>------------------------------

>東京学芸大学附属高から東京大学理学部に入学し、同法学部まで卒業(Wikipediaより)した受験界の圧倒的エリートである茂木氏に偏差値や受験そのものを否定されるいわれもないのだが、幼少期から詰め込み型の学習塾に通うことが健全な心身の発達に好ましくないだろうことは、脳科学の素人でも分かる。

 

外国にも程度の高い大学が沢山あるのですがね。どうして日本人は世界に目を向けないのでしょうかね。   

 

>しかし、中学受験塾入塾の低年齢化に警鐘を鳴らすとしたら、はっきり言ってこの朝日新聞の記事は甘い。 

 

序列人間の序列社会に生きる生き様をもっと客観的に見るべきですね。   

 

>首都圏の一部のSAPIX校舎で見られる低年齢化は、記事にあるどころの騒ぎではない。 >都心部のとある校舎では、現幼稚園年長向けに11月3日実施された新1年生の入塾テストの申し込みを、募集開始直後の10月早々に締め切った。 >申込みが殺到したからだ。 

 

ますます盛んに熱中しますね。   

 

>入塾テストを受けられないということはつまり、まだ小学校に入学もしていない幼稚園児の段階で、SAPIXには入塾できないことが確定してしまったということだ。 >数年前までは、「小2の2月から始まる新3年の入塾ではすでに定員が埋まっているから遅い。>新2年ならギリギリ入塾できる」と言われていたのが、一昨年あたりから「いや、新2年でも遅い。入学前の新1年から始めないと席が埋まる」という話が広まり、幼稚園生活最後の運動会を休んでまで、SAPIXの入塾テストを受けた、という親子を筆者は実際に何組も知っている。

>(略)

>「保育園落ちた、日本死ね」が国会でも取り上げられた「待機児童」問題だが、今や、東京やその近郊の小学生ママたちの間では、「待機SAPIX」問題が深刻化しているのだ。

>(略)

>SAPIXが牽引(?)してきた中学受験塾入塾の低年齢化は他の有名進学塾にも及び、四谷大塚などの一部の校舎でも、すでに新1年向けの入塾体験講座が満席になっている。 >これから募集を始めるエルカミノなどの比較的新興の塾も、開始早々に席が埋まる校舎も出てくるだろう。>異常なまでの過熱ぶりで、茂木先生のおっしゃるとおり、「国家的な損失」にも繋がりかねない事態であるが、渦中にいる保護者たちは、ただただ、「席の確保」に必死なのだ。

 

日本人は無哲学・能天気だから処世術に熱中するのでしょうね。  

 

>新4年生から入塾などと悠長に構えていると、いざその時に満席で受け入れ可能な塾が通える範囲にない、ということになってしまいかねないのだから。>近年、中学受験は、早くから金をかければかけるほど強くなる「課金ゲーム」に例えられているが、塾に入りたくても入れないようでは、もはや「無理ゲー」と言っても過言ではないだろう。   

 

まさに序列社会の悲劇ですね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

.

 

 


根深い害 1/2 

2020-12-23 17:52:09 | 文化

 

>試験・身分制度の根深い害

>362885          中学受験塾の低年齢化で小1でも満席続出、もはや「無理ゲー」 >山本紀克 ( 31 会社員 )          20/12/23 AM10

>中学受験塾の低年齢化が進み、小1でも満席…。

 

人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。

 

>学校はもはや不要と言われる中、逆行する保護者の意識はどなっているのか。 

 

受験勉強は、学問の道につながっていない。単なる処世術に過ぎない。学問の内容は非現実であり、即ち考えである。処世術は目の前の課題の処理の仕方であり、現実の内容である。     

 

>しかし『渦中にいる保護者たちは、ただただ、「席の確保」に必死』なだけ。  

 

保護者達は、ただ現実に振り回されているだけですね。

 

>脳科学者の茂木健一郎氏はこの状況を「脳が柔軟な大切な時期をこのような狭い学習に費やすのは国家的な損失」と断罪している。 

 

そうですね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

>■中学受験塾の低年齢化で小1でも満席続出、もはや「無理ゲー」リンク

>脳科学者の茂木健一郎氏が28日のツイートで、『中学受験塾、進む低年齢化 「席埋まる前に」早めに入塾』という朝日新聞の記事を引用し、「脳が柔軟な大切な時期をこのような狭い学習に費やすのは国家的な損失」と断罪した。

>------------------------------

>受験のペーパーテストのために、脳が柔軟な大切な時期をこのような狭い学習に費やすのは一人ひとりの人生がもったいないだけでなく、国家的な損失。

>「偏差値」という受験産業のマッチポンプにいつまで付き合うのか?  

 

理屈は大人にも子供にも共通である。だから、大人と子供の対話も成立する。ところが、日本人は '理屈を言うな。理屈なら子供にでも分かる' とうそぶいて理屈を言う人を相手にしない。そして、自分たちにはもっと複雑で難しく重要な事柄があると心得ているようである。'心ここ在らざれば視れども見えず' であるから、自分たちの屁理屈に気づくことは無い。   

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

 

 

 

.