>◆だれにも嫌われたくない心理
>確かに、「~させていただく」は、「話す相手に敬意を表し、許しを請う」表現であり、話す相手との上下関係の開きがはっきりとしている、 >つまり自分が相手よりずっと下であることを示しているという点では、「~します」はもとより「~いたします」などより低姿勢の、もっとも下手に出た表現だと言えるだろう。>その意味で、どんな人にも好かれることを目的とする芸能人向きの表現であり、いわばへりくだりの最上級である。
我が国特有の言語問題なのでしょうね。
>これがどうしてかくも人口に膾炙するかと想像するに、一つには相手に対して不快な気持ちにさせることを過剰に恐れる心理があるような気がする。
人を見損なってはいけないのですね。その祟りは恐ろしい。
>若い人の間で他人とのコミュニケーションの取り方がうまくいかないというのは、近年話題になっていることである。>新書をみても、ここ数年「コミュニケーション」をテーマにした本が目立っている。
なにしろ日本人は非理性と感情の塊ですからね。意思疎通が難しい。恣意疎通は範囲が狭く限られている。
>丁寧に下手に出ていれば、まず相手に嫌な思いをさせることはないという、嫌われたくない心理が、極端に丁寧な言い回しにつながっているとはいえないか。 >それに加えて、語彙が不足して場面に応じて敬語の使い分けができないのでとにかく、下手の最上級の「~させていただきます」を濫用してしまう。>そうは考えられないだろうか。
そうですね。安全第一ですね。
>それともう一つこの濫用の理由として考えられるのはメディアの影響である。 >テレビのなかでの芸能人の発言やギョーカイ人のものの言い方に毒されているともいえる。 >なんだ、そんなことかと思うかもしれないが、これは意外に奥が深い。 >例えば、「○○という映画に出させていただきました」とか「○○に感動させていただきました」などというのをよく聞く。 >「これらは、スポンサーやビジネス上の相手に対するヨイショや配慮ではないか」という人がいた。 >平たく言えば、商売上の言い回しということになる。
これも日本人特有なのでしょうかね。
>そうだとすればなんともいやらしい感じがするが、同じように感じている人もかなりいるのではないだろうか。>「よろしかったでしょうか」と同じように、「~させていただきます」もまた、ビジネスの世界と無縁ではないのかもしれない。
‘ぶっきらぼうな言葉’ と ‘丁寧な言葉’ を世俗の上下判断により使い分ける国民ですね。
>社会そのものは決してより丁寧な方向へ進んでいるとは思えない。>高齢者に対する福祉や医療をはじめ、格差の拡大や新たなる貧困の問題だけを見ても明らかである。>その一方で言葉だけが必要以上に妙に丁寧になる。
巧言令色鮮し仁 (こうげん・れいしょく・すくなしじん) ということでしょう。
>そしてその裏にはコミュニケーションの不全やお金の力が見え隠れする。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>「~させていただきます」の蔓延を単なる言葉の流行としてとらえられない理由はこんなところにある。
日本人に関する序列メンタリティ (考え方) の問題ですね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
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