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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

させて頂く 2/2 

2020-12-19 17:57:52 | 文化

 

>◆だれにも嫌われたくない心理

>確かに、「~させていただく」は、「話す相手に敬意を表し、許しを請う」表現であり、話す相手との上下関係の開きがはっきりとしている、 >つまり自分が相手よりずっと下であることを示しているという点では、「~します」はもとより「~いたします」などより低姿勢の、もっとも下手に出た表現だと言えるだろう。>その意味で、どんな人にも好かれることを目的とする芸能人向きの表現であり、いわばへりくだりの最上級である。 

 

我が国特有の言語問題なのでしょうね。   

 

>これがどうしてかくも人口に膾炙するかと想像するに、一つには相手に対して不快な気持ちにさせることを過剰に恐れる心理があるような気がする。

 

人を見損なってはいけないのですね。その祟りは恐ろしい。  

 

>若い人の間で他人とのコミュニケーションの取り方がうまくいかないというのは、近年話題になっていることである。>新書をみても、ここ数年「コミュニケーション」をテーマにした本が目立っている。 

 

なにしろ日本人は非理性と感情の塊ですからね。意思疎通が難しい。恣意疎通は範囲が狭く限られている。   

 

>丁寧に下手に出ていれば、まず相手に嫌な思いをさせることはないという、嫌われたくない心理が、極端に丁寧な言い回しにつながっているとはいえないか。 >それに加えて、語彙が不足して場面に応じて敬語の使い分けができないのでとにかく、下手の最上級の「~させていただきます」を濫用してしまう。>そうは考えられないだろうか。

 

そうですね。安全第一ですね。   

 

>それともう一つこの濫用の理由として考えられるのはメディアの影響である。 >テレビのなかでの芸能人の発言やギョーカイ人のものの言い方に毒されているともいえる。 >なんだ、そんなことかと思うかもしれないが、これは意外に奥が深い。 >例えば、「○○という映画に出させていただきました」とか「○○に感動させていただきました」などというのをよく聞く。 >「これらは、スポンサーやビジネス上の相手に対するヨイショや配慮ではないか」という人がいた。 >平たく言えば、商売上の言い回しということになる。 

 

これも日本人特有なのでしょうかね。   

 

>そうだとすればなんともいやらしい感じがするが、同じように感じている人もかなりいるのではないだろうか。>「よろしかったでしょうか」と同じように、「~させていただきます」もまた、ビジネスの世界と無縁ではないのかもしれない。 

 

ぶっきらぼうな言葉’ と ‘丁寧な言葉’ を世俗の上下判断により使い分ける国民ですね。  

 

>社会そのものは決してより丁寧な方向へ進んでいるとは思えない。>高齢者に対する福祉や医療をはじめ、格差の拡大や新たなる貧困の問題だけを見ても明らかである。>その一方で言葉だけが必要以上に妙に丁寧になる。

 

巧言令色鮮し仁 (こうげん・れいしょく・すくなしじん) ということでしょう。    

 

>そしてその裏にはコミュニケーションの不全やお金の力が見え隠れする。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」      

 

>「~させていただきます」の蔓延を単なる言葉の流行としてとらえられない理由はこんなところにある。

 

日本人に関する序列メンタリティ (考え方) の問題ですね。  

 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

> ***      

 

 

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させて頂く 1/2  

2020-12-19 17:34:00 | 文化

 

>362742          だれにも嫌われたくない心理  なんでも「~させていただく」社会の裏にあるもの

>匿名希望        20/12/18 PM03  >リンク より引用しています。

>***

>(中略)

>◆表面上だけでも“丁寧に”

>最後はこの種の表現の横綱級である「~させていただきます」という表現について三つ。

>一つは、郊外のある住宅街でのこと。 >その一画にあるアパートで外壁の修復工事が始まることになった。 >工事に際してはなにやら大きな音がでるらしかった。 >そこで、工事責任者が近隣の家に了解と謝罪のために回ってきた。 >30歳前後の彼は、「すいませんが、工事で大きな音を出させていただくので~」と言う。 >確かに「~させていただく」は、「相手方の許しを求めて行動する意をこめ、相手への敬意を表すという意味がある。 >しかし、つかわれる内容(行動)次第ではどうみても不適当になる。 >「工事で騒音が出る」という、明らかに良くないことをするのに許しと敬意を表すのは変だろう。  

 

止むを得ず出す騒音の許しを近隣の人に請うのでしょう。仕方のないことでしょう。     

 

>次に、北朝鮮のロケット発射事件で、政府が「発射された」と誤報を流した問題について、その直後、浜田靖一防衛大臣が、テレビで反省の弁を述べたとき、防衛省内での必要な指示を「~伝達させていただいた」などと言っていた。 >組織のトップとして極めて重要な指示を部下に出すのに「~させていただく」などと言っているのだ。>そして最後に官房長官から情報伝達に関しての注意があったことを示し、「~私としてもそれを防衛省全体にしっかりと届くように、幹部の方から末端まで指示をさせていただいたところであります」と言っている。>「指示をさせていただく」である。

 

指示は防衛大臣の義務ですね。

 

>「指示する」にも「集中する」にも、そして「検証する」にも、遠慮やへりくだりはいらない。

 

そうですね。へりくだる必要はないですね。   

 

>必要なのは、迅速で確固たる意志だ。>だから「集中し」、「検証し」と、ストレートに言うべきである。

 

そうですね。国語の勉強ですね。   

 

>政治家は大衆の動きに敏感だから「~させていただく」と言った方が、いまの風潮にあっていると感じているのか、あるいは謝罪会見だから、なんでもとにかくへりくだっていた方がいいと思っているのか。 >浜田大臣を特に批判する意図はないが、もう少し言葉を大切にされたほうがいいのではないか。>繰り返すが言葉は言葉だけの問題ではなく、思考、思想と密接に関係しているのである。

 

そうですね。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会である云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

 

>三つ目はとうとう「~させていただく」もここまで来たかと唖然とさせられた事例である。 >あるIT関係の会社の会議で、若い社員による報告のなかでそれはつかわれた。

>その会社の事業の一つとして携帯サイトを通じて会員制ビジネスを構築しているのだが、その男性社員は現在の会員数を報告するとき、「会員数は1万2000人とさせていただいています」と言ったのだ。 >これには聞いている若い同僚も「うん?」と首を傾げた。 >その時点におけるただの会員数の報告である。 >先々月は9000人、先月は1万人、といった事実の報告である。 >それがどうして、させていただかなくちゃならないのか。

 

丁寧というか、したてに出るというのか、話者は非常に神経を使っていますね。   

 

>こういう人は「5×4は20とさせていただきます」とか、「鎌倉幕府ができたのは1192年とさせていただきます」とか言うのかね。 >まさに、なんでも「~させていただく」世の中になってしまったようで、笑えるくらいだ。 >しかし、これが笑ってばかりもいられない。>おかしなものも世に広まると、それが常識になってしまうから恐ろしい。 

 

日本の常識は、世界の非常識ですかね。   

 

 

 

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自然観  

2020-12-19 09:43:52 | 文化

          

>日本人と縄文体質  >362733           日本と西洋の自然観の違いについて  >今井勝行 ( 中年層 会社員 )       20/12/18 AM01 【印刷用へ】

>リンク >日本と西洋の自然観の違いについて

>日本の自然観は人間と自然とを一体的に捉える日本人は自然の外に立って自然を管理したり、自然を和解したりするという発想ではなくそもそも自然はふるさとであり、戻るべきだと考えている。  

 

日本人には、手つかずの自然を楽しむ習慣がない。だが、整えられた自然を楽しむ習慣には凝っている。  

 

>日本の恩返しをテーマにする民話などには道理にかなった行いをすれば、自然の方もきちんとそれに応じてくれる。 (略)  >しかし、西洋ではどちらかというとマイナスのイメージ、陶治されていないや洗練されてないという意味を持っているようである。 

 

西洋人は意思により決着をはかる。日本人は意思がないから ‘事の次第・自然の成り行き’ で決着する。  

 

>例として日本の俳句という文化の中で虫の音を聞くと情緒があると感慨にふけり歌を詠むが西洋人には単なる雑音にしか聞こえないという違いがあげられる。  

 

日本人は虫に対しても忖度 (推察) するのでしょう。だから、現実直視が難しい。   

 

>西洋の自然観は人間と自然を対立的に捉える西洋人は人間は自然の外に立ち、自然をコントロールしようとする。 

 

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。     

 

>しかしそれは、人間と自然との間に距離を作ることである。 >人間は、自然ではないものとして人間を理解しようとする。 

 

そうですね。人間は言語を持ち意思を持っている。だから、理解が可能てある。 自然は言語もなければ意思も持っていない。人間の理解はあっても自然の側の理解は無い。       

 

>西洋人の生活手段であった「牧畜」は、自然環境に影響されることはあまりなかった。 >また、大地震などのように自然環境が大きく変化するようなこともほとんどなかったのだ。 >そのため自然と向きあったり、自然を深くみつめたりする必要が、それほどなかったと言える。  

 

西洋人は自然観察をする。日本人は自然鑑賞らしきことをする。だから、日本人には現実直視が難しい。   

 

>必然的に、西洋的な自然観は自然を主体に考えるようなモノではなく、自然は人間の都合で変えたり、コントロールしたりできるモノといった認識になっていくのである。 

 

そうですね。人間には言語があり意思がある。意思のあるところには方法 (仕方) がある。 自然には能動がない。    

 

>それに対して日本では地震や台風や干ばつなどの自然災害が頻繁に起きた。 >そのたびに農作物は被害を受ける。 >農作物を守るためには暑さや寒さ、温度や湿度、雨や雪、風の流れなど刻々と変化する自然の全てを深く観察しつねに自然と向き合う必要があった。>そして、人間の意志では、どうにもならない自然を目の当たりにすることで自然に対する特別な感覚ができ、そこから自然というものは神のような存在という認識が、当たり前のように出来あがっていったのである。  

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>日本的な自然観は、人間は、自然の一部であるという考え方が、一般的であったと言える。

 

そうですね。日本人には意思がない。意思決定が必要な場合には、事の次第・自然の成り行きによる決着をはかる。

 

>行動の基準の中に「これをすることで、自然がどうなるのか」という部分がつねにあった。 >「自然との共生」や「自然との一体化」を考えていく中で自分自身をみつめ、他を思いやり、いつくしむ心が養われていったのだ。 

 

日本人には考えがない。だから、自然の結果は誰の考えかわからない。個人主義がない。   

 

>こうした自然に対するとらえ方・考え方は神道にもつながることと言える。

 

我が国の宗教には、儀式 (作法) があって、教義 (教え) がない。   

 

>西洋の「人間は自然をコントロールできる」という自然観は現代科学につながっていく。  

 

そうですね。アニマルには意思のあるところに方法・仕方がある。   

 

>また日本的な「人間は自然の一部である」という自然観は科学というよりかは芸術的感性や感覚とつながっていく。  

 

人間も自己の意思を示すことがなければ、アニマル同様に自然に溶け込むことが可能である。アニマルには理性がなくて感性がある。      

 

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