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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

会議文化 2/2  

2020-12-13 14:31:23 | 文化

 

>◆納得するまで話し合う

>ともかく村の取り決めのことは皆が納得するまで何日でも話し合うのです。 >まず皆で話し合って、それからそれぞれの地域の組で話し合い、その結果を区長にもっていきます。 >その結論が揃わない時は、再びそれぞれの地域へ戻って話し合います。 >区長や総代はただ話を聞くことに専念します。 >だから2日も3日も懸かるわけです。 >それでも取りまとめの区長や総代は彼の結論を出すことはありません。 >2日も過ぎた頃、寄り合いの場から、宮本本人に声がかかり、説明するように求められました。 >そのまま説明したところ、寄り合いに参加していたある老人が「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話を決めようではないか」とかなり大きな声で話しました。 >すると寄り合いの参加者が宮本の顔をあらためて見直し、区長にだれも異存はないと話します。 >区長はそれでは責任は区長が負うからといってようやく結論を出したのだそうです。   

 

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について下のように述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。 自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない。    

 

>◆意思決定と合意形成

>日本におけるムラの意思決定は存外に民主的でした。 

 

そうですね。直接民主主義に近いですね。   

 

>そうであるから村として決めたことには、全員が揃って努力することができたのです。

 

日本人には意思がない。だから、彼らの結論は事の次第・成り行きで決まるのが常である。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)    

 

>その伝統が現代の企業社会にもそのまま「会議」という形で続いているのではないでしょうか。  >国際会議において日本代表がイエスと答えるときには、その後ろにいる組織が大丈夫と判断しているとみられ、実施においてはまず心配なく行われ、逆にノーというときには、背後の組織が合意形成できず、駄目と言っているとみられます。>イエスという返事を出すまでは時間がかかるが、イエスと言ったならばその後はまず確実であるというのが日本の特徴であること、これは現在では海外の国際会議に係る関係者の常識ともなっています。 

 

そうですね。事の次第と成り行きによる決着は、日本人の現実肯定主義と合致しますね。アニマルも同様ですね。     

 

>逆に欧米代表が会議の場でイエスと言って、会議の結論がまとまった場合でも、いざ実施の段階に入ると困難な事情がでてくることが多いのも国際会議に係る関係者の常識でもあります。  

 

そうですね。個人が違えば、意見も違いますね。

我々日本人は民族の特殊性を強調することなく、欧米の方式を学んで国際協調すべきですね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>***

 

 

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会議文化 1/2  

2020-12-13 14:04:43 | 文化

 

>362562          日本の会議文化  >匿名希望    20/12/12 PM09

>リンク より引用しています。

>***

>◆日本の会議文化

>日本の会議は長い。 >延々と会議をします。 >これは海外の関係者にはよく知られていて、カイギという日本語がそのまま使われることすらあります。 

 

現実肯定主義者の結論の出し方ですね。    

 

>海外から電話などの連絡があったとき、カイギで席を外しているという説明がされることが多く、それが重なると、日本人はいつも会議をしているようだという理解と認識になるのでしょう。 >確かに会議が多い。 >何かと会議をし、関係者を集めます。 >一体、会議で何を議論しているのかと言えば、それはさまざまです。 

 

そうですね。実況放送・現状報告の内容が公表されるのですね。   

 

>◆さまざまな会議

>問題解決のための知恵を出すための会議もあれば、組織としての意思決定のための会議もあるでしょう。   

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)      

 

>ただ、そうした水準の高い会議は通常は少なく、多いのは関係部署の関係者の考えを揃えるための会議が多く、その延長線には集団の気持ちを一致させて、頑張ろうと気合を入れる会議もあるようです。 >実際にある会議のほとんどはそうした会議なのではないでしょうか。 >なにしろ日本人は、集団のなかにあってそこから外されることをひどく嫌い、情報の伝わらないことを恐れるのです。 

 

一億一心’ への道ですね。この道はいつか来た道。ああ、そうだよ。        

 

>だから何があっても会議となれば馳せ参じることとなります。 >会議に出なければ自分だけが情報シャットの状況になるかもしれません。

 

そうですね。村八分になりますね。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会である云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

>それは最悪の事態です。

 

非国民・外人扱いになりますね。真に大切な自己の序列の絆を失うことになります。脱藩のようなものでしょうか。         

 

>組織の上からすれば、会議で決めた、説明した、合意したということは後々、重石となって集団の努力へとつながることが期待できます。 >逆に組織のメンバーから、それは聞いていない、説明されていないと反論されることはどうしても避けたいという組織原理が働きます。

 

それは太平洋戦争のようなものですね。戦争中、玉砕するまで戦い抜いた日本人を見たアメリカ人は、「日本人は間違った情報を伝えられていて、正しい情報を得ていないに違いない」と考えた。    

 

>◆宮本常一の「対馬にて」

>日本をくまなく歩いたとされる民俗学者宮本常一の「対馬にて」を読むと、彼が対馬の北端に近い伊那の村の寄り合いを見て、経験したことが昨日のことのように描かれています。 >宮本がその村の旧家を訪ね、その老人から、村に古くから伝えられている帳箱があり、そこに区有文書が入っていることを知ったので、それを見せて欲しいと頼みました。 >その老人は自分の一存では決められないこと、ちょうど村に寄り合いがあるから、皆の意見を聞いてみるのがよいということとなったのです。 >老人の息子が寄り合いの場に出かけていき、事情を説明しました。 >朝、寄り合いの場で事情を説明し、20人ほどいる村の皆は話し合います。 >村の取り決めのこと、昔、村の旧家で御判物を貸して問題が生じたこと、これまで村の帳箱にある文書を貸したことはなかったことなど、昼になってもまだ話しているのです。

 

事の次第・成り行きの話が長引いていますね。    

 

 

 

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村木大輔氏  

2020-12-13 02:42:03 | 文化

 

>362545          なぜ日本は、悲しい話や政治の話をすると“腫れ物”扱いされてしまうようになったのか >八千頭身 ( 23 会社員 ) 20/12/12 AM09

>リンク

>今年も漫才最高峰の祭典「THE MANZAI」が放送される。>そこで毎年、物議を醸すのがウーマンラッシュアワーの漫才だ。>沖縄の基地問題、原発、朝鮮学校についてなど、政治・社会問題に触れた漫才を披露し、賛否を巻き起こしている。 >彼ら(いや、村本大輔)は、なぜ漫才の場で、メッセージを投げ続けるのか?  

 

それは村本大輔氏が日本人の政治音痴に注意を呼び起こし、音痴を治したいからでしょう。

 

>・・・

(略)

>●この国の最大の悲劇は、国民の無関心だ  >無関心なのはテーマパークの中にいすぎたせいだ。

 

日本人は昔からお花畑 (日本語) の中で生活して来たからでしょう。   

 

>テーマパークの外では誰かが痛みを抑えている。 >誰かが悲鳴をあげても、「わがままだ」「自己責任だ」と言って聞こえないふり。 >痛み止めを出す芸人も、テーマパークに来る無関心なお客さんを踊りで魅了することに必死だ。 

 

何事も全ては金の為、人の為ですね。だが自己がない。  

 

>キング牧師「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。」

 

そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について下のように述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない。

 

>ガンジー「無関心は暴力より卑劣である。」

 

日本人には批判精神がない。 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) の内容もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。’どうせ人間のやることだ’、’どっちもどっちだ’ になる。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければ、あるのは現実だけで、その正解は一つである。閉塞感がある。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>この国の最大の悲劇は、国民の無関心と芸人の沈黙だ。  

 

そうですね。国民の能天気とインテリの思考停止ですね。   

 

>僕はそこに喜劇があると思っている。

 

日本人はさしずめ喜劇役者ですかね。悲劇役者にならねば良いが。      

 

 

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