>ところが日本のテレビや新聞ときたらどうでしょうか。 >驚くべきことに、日本ではこういった国際ニュースはマイナーな扱いで、公共放送のNHKやクオリティペーパーと呼ばれる大手一流新聞でさえ、次のようなトピックがトップニュースとして掲載されている有様です。 >●老人の車が暴走 >●あおり運転事続発 >●ヒグマに襲われた >●オリンピック会場に下水垂れ流し >どうでしょうか。 >どれもよく流れているニュースばかりですね。 >海外でいえばはっきりいってゴシップ新聞に載る程度のトピック。>にもかかわらず、日本ではクオリティペーパーであっても、なぜかこういった内容がニュースとして大きく取り上げられてしまうのです。』
日本人にはこれら以上に大切なニュース見あたらないからでしょうね。
>どの国でもそうだが、人は、自分に関係ないことには、興味や関心がない。 >また、切羽詰まらないと行動しない、というのも同じだ。 >特に、日本は、豊かさに慣れてしまった人がほとんどだ。 >すると、自分のこと以外に興味関心が薄くなる。
日本人には世界観がない。だから、自己の世界観の白紙の部分を新知識で興味を持ちながら埋めて行こうとする意欲が見られない。世界の有様を覗いて見ようという意欲は無く、目先・手先の事柄以外に関心がない。
>しかし、日本は相対的に貧乏になってきている。 >海外からの評価も同じだ。
そうですね。‘おごる平家は久しからず’ です。わが国は ‘元の木阿弥’ に返るのかな。
>そろそろ目をさまさないと大変なことになる、というのは「明治維新」の例を見ても分かる。 >江戸時代は260年鎖国が続いたが、現在でいうなら、失われた30年という平成の時代がそれにあたる。 >GAFAという黒船がとっくに上陸しているのに、まだ多くの国民はゴシップ的な国内問題に終始している。
そうですね。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。
自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。
意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (教え) というものがない。だから、作法ばかりにこだわって、これを励行し停滞する。子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められている。
>マスコミを作っているのは国民だ。>国民一人ひとりが変わらなければ、マスコミも変わらない。 >「この国の行く末を憂える人」が少でも増えることを心から願う。
そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
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