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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

安達裕哉氏 2/2 

2020-12-27 16:55:26 | 文化

 

(1/2より)   

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。  

 

>三つ目は、人に物を教えるときの態度

>知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。 >そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている。  

 

そうですね。‘自分の言っていることが分からないのは、相手の頭が悪いからだ’ と常に考えている人がいますね。頭が悪いと見下された人は恥ずかしい思いをしなくてはなりませんね。実に恨めしい人生になりますね。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。  

 

>四つ目は、知識に関する態度

>知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。>そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する。  

 

処世術に徹しているのですね。実学は技術であり、実社会において実際に実現可能な内容ですね。哲学は非現実 (考え) の内容であり、’あるべき姿’ の内容ですね。これは人間が目的を持って行動しない限りこの世では実現しない内容ですね。無哲学・能天気の日本人の政治家には政治哲学がなく、未来社会の建設に指導的な役割を果たすことができない人が大勢いますね。

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている’。 (ウスビ・サコ)  

 

>五つ目は、人を批判するときの態度

>知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。>そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。

 

そうですね。     

役立たずの批判をする人がいますね。我々には建設的な態度が必要ですね。不俱戴天の敵にならないように気を付けましょう。     

 

>知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。  

 

そうですね。 '私は、私が何も知らないということを知っている'。 (I know that I know nothing) ソクラテス  

 

[安達裕哉 2015/9/8]  

 

 

 

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安達裕哉氏 1/2  

2020-12-27 16:18:04 | 文化

 

>社員の活力を引き上げるには?

>362991          知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。 >長曾我部幸隆 ( 30 会社員 )           20/12/26 PM10 【印刷用へ】 >リンク

>私達は「頭が悪い」と言われることを極端に嫌う。  

 

特にわが国では ‘下と見られて’ 、待遇の割が悪くなりますね。  

 

>知性が人間そのものの優劣を決めるかどうかは私が判断するところではないが、実際知的であることは現在の世の中においては有利であるし、組織は知的な人物を必要としている。  

 

そうですね。 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>だが、「どのような人物が知的なのか」ということについては多くの人々の判断が別れるところではないだろうか。

 

そうですね。特技は様々ですね。   

 

>世の中を見渡すと、あらゆる属性、例えば学歴、職業、資格、言動、経済的状況などが「知的であるかどうか」のモノサシとして使われており、根拠があるものないもの含め、混沌としている。  

 

序列社会の世俗的な物差しは様々でね。   

 

>だが、私がこの先生からお聞きした話はそういった話とは少し異なる。 >彼は「人間の属性と、知的であるかどうかの関係はよくわかりませんが、少なくとも私が判断をするときは、五つの態度を見ています」という。 >エピソードを交え、様々な話をしていいただいたのだが、その5つをまとめると、次のようなものになった。 

 

簡潔にまとまりましたね。  

 

>一つ目は、異なる意見に対する態度

>知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす

 

意見は人人により異なっていますからね。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (考え) というものがない。だから、作法ばかりにこだわって、これを励行する。子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められている。 

 

>二つ目は、自分の知らないことに対する態度

>知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。また、それについて学ぼうとする。 >そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。>その結果、それを隠し学ばない

 

そうですね。’知らぬは一時の恥、知らぬは一生の恥’ ですね。

理屈は大人にも子供にも共通である。だから、大人と子供の対話も成立する。ところが、日本人は '理屈を言うな。理屈なら子供にでも分かる' とうそぶいて理屈を言う人を相手にしない。そして、自分たちにはもっと複雑で難しく重要な事柄があると心得ているようである。'心ここ在らざれば視れども見えず' であるから、自分たちの屁理屈に気づくことは無い。 (2/2へ続く)

 

 

 

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