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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

齋藤孝氏 2/4  

2020-12-30 01:30:06 | 文化

 

>ときどきニュースになりますよね、「自分さえよければいい」という気持ちで、社会のルールに反することを平然とやってしまう人。  

 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。’自由のはき違え’ となる。だから、日本人は昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’  である。本音は、’私意・我儘・身勝手’ である。だから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先も見えない闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりな安全である。

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動に関して本人に説明責任はとれない。  

 

>どんなに勉強のできた秀才でも、人としてやっていいことといけないことの判断がつかないのは、本質的なところで頭がよくない、と言わざるを得ません。

 

 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

 

 

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齋藤孝氏 1/4  

2020-12-30 01:05:52 | 文化

 

> 20/12/28 PM08  >リンクより

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>明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…   >学校生活を軸にした毎日を送るきみたちは、テストの点数だとか成績だとか偏差値というもので評価され、判定されています。  

 

そうですね。我々は序列社会に生きる序列人間ですからね。   

 

>目に見える数字のかたちで、突きつけられている。 >だから、「勉強ができる、できない」が、頭のよさを測る絶対的な「ものさし」であるかのように思えます。 

 

序列順位は一般民衆に分かりやすい評価を提供していますね。しかし、当てにはならない基準ですね。   

 

>だけど、じつはそうじゃないんです。

 

あなたは本当のことを言うのでしょうね。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら ‘序列なきところに礼儀なし’ の状態になる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位をよく心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。下々は上々の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。     

 

>学生という立場が終わって社会人になると、頭のよさを測るものさしが、突然変わります。

 

それは日本人の序列順位が変わるということですね。    

 

>「勉強ができる」ことから、「社会に適応できること」に切り替わるんです。  

 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官) 

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。   

 

>ぼくは、勉強ができるのはいいことだと思っています。 >できないよりは、できたほうがいい。 >だけど、勉強ができれば社会に出てからも「頭のいい人」としてやっていけるかと言うと、そうとは限りません。 >社会に適応できなければダメなんです。 >たとえば、一流大学を出て就職したけれど、まわりの人とうまくコミュニケーションがとれない人がいます。 >いま何をすることが求められているのかもピンときていない。 >こういう人は、「勉強はたくさんしてきたかもしれないけれど、使えないやつだ」と言われてしまいます。

>それまでずっと「勉強ができる」「頭がいいね」「すごいね」とほめられつづけてきたのが、社会に出たとたん、一気に地に落とされる。 >プライドがズタズタになってしまいます。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)      

 

>あるいは、すごい学歴をもち、社会的に高い地位についていながら、法を犯してしまうような人もいます。  

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン) 

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

 

 

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エーデルスタイン氏  

2020-12-28 04:16:03 | 文化

 

>日本の外務大臣が「日本を多様な多民族社会に変える」計画を発表 >彼は在日外国人に投票権を与えたいと述べている

 

‘We can change!’ (我々は変革できる!) ということですね。 何事も ‘お変わりがないのは良いことです’  とはいきませんね。来るべき世界の内容を提案することは、世界観のない日本人には違和感を覚えることでしょうね。現実肯定主義の日本人に、現実離れのした話を持ちかけることになるからですね。       

 

>Japanese Foreign Minister Announces Plan to “Transform Japan Into a Diverse Multiethnic Society” >summit.news 2020/11/25   

>日本の外務大臣が、日本への大量移民を奨励し、外国人住民に投票権を与えることにより「日本を多様な多民族社会に変える」計画を発表した。 

 

この国を外国人に開放することは日本人にとっての不安になりますね。高文脈文化のわが国は、なれ合いのできない人たちとは共生が難しいでしようね。だから、変革が難しい。異文化の世界に国民が投げ出されることになるからです。      

 

>茂木氏は自民党の政治家であり、2019年9月から国の外務大臣を務めている。>茂木氏は質疑応答の中で、自らの「国家ビジョン」は「 21世紀の日本を、世界中からの大量移民によって多様化した多民族社会に変えること」を意味すると述べた。 

 

世界の常識は、わが国の非常識ですね。   

 

>彼によれば、これは、「英語を日本の第二言語」として成文化し、「居住外国人に参政権」を与えることによっても達成されるという。 

 

そうですね。   

 

>日本は民族的には、日本人が 98.1%であり、次に人口の多い民族はわずか 0.5%の中国人だ。 >この国の犯罪率は非常に低く、テロは非常に稀な国でもある。 

 

そうですね。わが国は ‘なあなあ主義’ の国である。なあなあ主義ではテロはやりにくいですね。   

 

>2017年の難民危機の真っ只中に、日本は難民の 99%を拒否し、2016年には 28人しか受け入れなかったことが明らかとなっている。  

 

序列人間の日本人は、外国人をとう扱ってよいのか苦慮していますね。   

 

>2018年に、ハイチ系アメリカ人の父親を持つ半日本人テニスプレーヤーが全米オープンで優勝したため、米国の左派は日本に多文化主義を受け入れるよう要求し始めた。  

 

半日本人の優秀さが認められましたね。彼らは国粋主義の敵になるのでしょうかね。   

 

>メディア「デイリービースト」の記者ジェイク・エーデルスタイン氏は、日本では、移民が限られており、民族的に均質な日本では非常に犯罪率が低く、銃撃事件は毎年一桁のままであると認めたが、これは警察および銃規制法が強いためだと主張している。  

 

なあなあ主義では犯罪がやりにくいですね。   

 

>エーデルスタイン氏は、日本では「外国人排斥が深まっている」と主張し、少子化を理由に「国として生き残り繁栄するためには、多民族社会を構築する」ことを求めている。 

 

我が国は序列制度の国柄で、外国語は序列制度に馴染まない。だから、外国人は序列の外にいる。そして、彼らは非国民と呼ばれて、外人なのである。   

 

>「日本の人口は減少しているが、国際結婚の数はわずかに増加しているため、日本は人種差別と闘い、国として生き残りたいのであれば、多文化主義と寛容を受け入れる方法を決定しなければならない」と彼は結論付け、国を維持するために提案する国連移民計画に注意を向けた。 

 

我が国は、国連中心主義ですがね。   

 

>エーデルスタイン氏は。「生産年齢人口が一定であるため、日本は 1995年から 2050年までに 3350万人の移民を必要とする」と主張している。 

 

そうですね。我が国の人手不足は深刻ですね。しかし、頭脳不足はありませんね。   

 

>日本人は大量移民に強く反対しており、中国人移民に対しても、それは人口のごく一部であるにもかかわらず、敵意を示していると伝えられる。  

 

日本人は ‘なあなあ主義’ ですからね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。無哲学・能天気の人間は真の意味での内容を話すことはできませんね。  

 

>茂木氏が主張する方法が実現すれば、日本にとっての民族的多様性が、果たして「国家としての強みとなるかどうか」を、茂木氏自らが見出すことになるのかもしれない。

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

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安達裕哉氏 2/2 

2020-12-27 16:55:26 | 文化

 

(1/2より)   

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。  

 

>三つ目は、人に物を教えるときの態度

>知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。 >そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている。  

 

そうですね。‘自分の言っていることが分からないのは、相手の頭が悪いからだ’ と常に考えている人がいますね。頭が悪いと見下された人は恥ずかしい思いをしなくてはなりませんね。実に恨めしい人生になりますね。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。  

 

>四つ目は、知識に関する態度

>知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。>そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する。  

 

処世術に徹しているのですね。実学は技術であり、実社会において実際に実現可能な内容ですね。哲学は非現実 (考え) の内容であり、’あるべき姿’ の内容ですね。これは人間が目的を持って行動しない限りこの世では実現しない内容ですね。無哲学・能天気の日本人の政治家には政治哲学がなく、未来社会の建設に指導的な役割を果たすことができない人が大勢いますね。

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている’。 (ウスビ・サコ)  

 

>五つ目は、人を批判するときの態度

>知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。>そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。

 

そうですね。     

役立たずの批判をする人がいますね。我々には建設的な態度が必要ですね。不俱戴天の敵にならないように気を付けましょう。     

 

>知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。  

 

そうですね。 '私は、私が何も知らないということを知っている'。 (I know that I know nothing) ソクラテス  

 

[安達裕哉 2015/9/8]  

 

 

 

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安達裕哉氏 1/2  

2020-12-27 16:18:04 | 文化

 

>社員の活力を引き上げるには?

>362991          知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。 >長曾我部幸隆 ( 30 会社員 )           20/12/26 PM10 【印刷用へ】 >リンク

>私達は「頭が悪い」と言われることを極端に嫌う。  

 

特にわが国では ‘下と見られて’ 、待遇の割が悪くなりますね。  

 

>知性が人間そのものの優劣を決めるかどうかは私が判断するところではないが、実際知的であることは現在の世の中においては有利であるし、組織は知的な人物を必要としている。  

 

そうですね。 日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>だが、「どのような人物が知的なのか」ということについては多くの人々の判断が別れるところではないだろうか。

 

そうですね。特技は様々ですね。   

 

>世の中を見渡すと、あらゆる属性、例えば学歴、職業、資格、言動、経済的状況などが「知的であるかどうか」のモノサシとして使われており、根拠があるものないもの含め、混沌としている。  

 

序列社会の世俗的な物差しは様々でね。   

 

>だが、私がこの先生からお聞きした話はそういった話とは少し異なる。 >彼は「人間の属性と、知的であるかどうかの関係はよくわかりませんが、少なくとも私が判断をするときは、五つの態度を見ています」という。 >エピソードを交え、様々な話をしていいただいたのだが、その5つをまとめると、次のようなものになった。 

 

簡潔にまとまりましたね。  

 

>一つ目は、異なる意見に対する態度

>知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす

 

意見は人人により異なっていますからね。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (考え) というものがない。だから、作法ばかりにこだわって、これを励行する。子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められている。 

 

>二つ目は、自分の知らないことに対する態度

>知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。また、それについて学ぼうとする。 >そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。>その結果、それを隠し学ばない

 

そうですね。’知らぬは一時の恥、知らぬは一生の恥’ ですね。

理屈は大人にも子供にも共通である。だから、大人と子供の対話も成立する。ところが、日本人は '理屈を言うな。理屈なら子供にでも分かる' とうそぶいて理屈を言う人を相手にしない。そして、自分たちにはもっと複雑で難しく重要な事柄があると心得ているようである。'心ここ在らざれば視れども見えず' であるから、自分たちの屁理屈に気づくことは無い。 (2/2へ続く)

 

 

 

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