聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2012/11/04 民数記二〇章「主を聖なる方とする」

2012-11-05 13:48:03 | 聖書
2012/11/04 民数記二〇章「主を聖なる方とする」
詩篇一〇六篇 Ⅰペテロ書五6―9

 少し先の話になりますが、民数記三三38―39を見ますと、
「祭司アロンは主の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日であった。
 アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。」
とあります。それが、今日の箇所、二〇22以下に記されている記事です。ですから、十五章で約束の地に入ろうとする手前まで来て、イスラエルの人々の大半が主の言葉に反抗して、四十年荒野を彷徨うことになると言われた、その四十年が、いつのまにか過ぎていたのです。十六章から十九章の出来事がそのどの辺りで起きたことなのかは分かりません。しかし、二〇章の時点では、四十年が経っていたのです。
 ここには、ミリヤムの死で始まり、アロンの死で終わる出来事が伝えられています。そして、モーセもまた、アロンともども、約束の地に入ることが出来ない、という宣言も12節にあります。
「しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、私が彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
 そして、アロンの死も、24節で、ハッキリと、
「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。」
と、10―13節の出来事と結びつけられています。四十年が終わろうとしており、ミリヤムも死に、アロンも死に、モーセもその後に続くと言われます。こうして、約束の地に入る人々の「世代交代」ということを強烈に印象づける章なのです。
 ところで、なぜモーセとアロンは、約束の地に入ることが出来ないと言われたのでしょうか。同じような出来事は、出エジプト記の十七章にもありました。エジプトを出てすぐ、水がなくなったために民が呟き、モーセを殺さんばかりの勢いになったときです。主は、ホレブの岩の上に立ち、その岩を打つように命じられました。果たしてモーセが主の臨在である、雲の柱の立つ岩を打つと、水が流れ出て、民を潤したのです。
 この出来事と、今日の民数記二〇章の出来事は一つの出来事だと言う学者も少なくないのですが、起きる出来事も言われている命令も全く違うのです 。あのときは、主が岩を打て、と言われました。しかし、今回は、岩に命じよ、と言われたのに、命じるのでなく、打ったのです。それも、二度も、恐らくは力任せに。
 この事を、主は、
「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」
と言われます。信じなかった、というのは、岩に命じるだけで水が出るとは信じられなかった、という意味ではないのでしょう。主がそれ以上の奇蹟をなさることを二人は十分に見て来たのですから。むしろ、民の不平不満、3―5節で言われているような、民の、モーセとアロンを悪者に仕立て上げた言い方をして止まないその不信仰ぶりに対する怒りに心を燃え上がらせて、主の声を信じる事を疎かにした、その態度を指しているのでしょう。実際、モーセは10節で岩を打つに当たって、
「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
と自分たちのことだけを言っています。主が命じられたことに心から従う、というよりも、「お前たちのためにやってやりたくなどないのに、主が言われるから仕方なしにやらねばならないのだ」とぶちまけ、でも腹立ち紛れに岩を二度打つのです。それが、主が言われる、
「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」
という問題なのですね。
 しかし、こういう心境は私たちにもよく分かるのではないでしょうか。せっかく四十年がやっと経った。書かれてはいないけれども、沢山の出来事や苦労があったでしょう。何よりもハッキリしているのは、そのひと世代前の、男だけでも「六十万三千五百五十人」とあった人々が 、全員亡くなってその埋葬をしなければならなかった、という事実です 。どんな思いで同胞を葬ってきたか。その末に、姉のミリヤムを葬った。どのような思いだったか。それなのに、また民が、四十年前と変わらない呟きで喚(わめ)き出すのです。モーセとアロンの思いはもう一杯だったのでしょう。それを、主が、二人に約束の地に入ることは許されないとは、あまりにも厳しいではないか。もう少し、違う、軽い罰でも十分ではなかっただろうか、と思いたくならないでしょうか。けれども、主はこれに厳しく処せられるのですね。
 ここで、主は、ご自分を聖なる者とする、と言われます。また、13節では、
「これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。」
と言われています。これは、どういう意味なのでしょうか。
 聖である、ということは、レビ記の一章以来お話ししてきましたように、一切の私利や固執を持たない、損得を惜しまない、という面があります。言い換えれば、聖であるとは主が愛のお方であることに通じます 。ここでもそのことはハッキリとしています。主は、怒ったり脅すような奇蹟でもって迫られたり、もう四十年間荒野を彷徨わせたりしても良いだろうこの状況で、そういう方向ではなく、静かに岩に命じるだけで水を与えようとなさいました。そして、それをモーセたちが踏みにじったにも関わらず民に水を与えられ、また、主を代弁するべきモーセたちが怒りを表すことによって主の聖なる御業を歪めたことを厳しく罰せられることによって、ご自身が聖なる者であること、測り知れない忍耐をもって民を導かれる方であることを示してくださったのです。
 14節から21節には、エドムの地を通ろうとしたけれども、受け入れられずに遠回りをしなければならなかったことが書かれています。ヨシュア記に行きますと、こういう場合は戦闘になりますし、次の二一章では早くもそういう「聖絶」の戦いが始まりますが、ここでは主の命令がありませんからイスラエルは引き上げます 。二一章の中にこの出来事があった、という繋がりから考えさせられるのは、主がその民を約束の地に導かれる道程(みちのり)は、人間が思うような道ではない、ということです。人間が常識や感情で判断することを主はお閉ざしになる。人には回り道のように思える道を受け入れなければならないように、感情的には受け入れがたいほどの主の聖なるあわれみ、赦し、慈しみを信じ、それに従わなければならない、ということです。私たちが怒り、妬み、力任せに生きようとする心を、一片たりとも持ち込むことは出来ないのです。勿論、それは律法的に、道徳的に、私たちがそうしなければならない、ということではありません。主はそのようにさせてくださる。けれども、それは私たちが何もせずに、いつの間にか、寛容で忍耐深い性格に変わっている、というようなものではなくて、毎日の葛藤や、怒っても当然というような状況で、主の前に謙らされ、砕かれて、自分の思いを捧げる、そういう作業を通してなのですね。主は、私たちをそのようにしてお取り扱いくださるし、お取り扱いくださっている、ということです。なぜかといえば、そうでなければ、主が聖なるお方であるとすることが出来ないから-人間が考えたりギリシャ神話に出て来たり、「仏の顔も三度」と言われるような、所詮はそんな神でしかないのだ、神の恵みだといっても、人間の努力が必要なのだ、と思わせてしまうから-であります。主が本当に恵みの尽きないお方であることを表すようなキリスト者とするために、主は私たちを訓練されて止まないのです。それが、主の備えられた地上の道です。
 アロンが召されたことは、アロンの最後である以上に、その息子のエルアザルに大祭司職が継承されたこととして強調されています。大祭司が絶えず民のために執り成しをすることと、アロンからエルアザルへの世代交代は、民に次の新しい時代への希望をもいだかせたはずです。そして、この大祭司職の末がイエス・キリストです。イエス・キリストが私たちを導いてくださっています。聖なる御愛をもって、決して私たちを滅ぼさずに忍耐をもって導いておられる。その導きに似た私たちとされることを願います。

「聖なる主が、私共をも聖なる者としようとしておられる。私共以上にあなた様の忍耐はどれほどでしょう。どうぞ、私共の心を見せかけの愛から救い出し、主の愛によって砕き新しくしてください。この願いと祈りを、どうぞ日々新たにし強めさせてください」



文末脚注

1 両者とも、「メリバの水」という、原因譚(げんいんたん)的な文章で結ばれますが、地理的に離れた場所に同じ名前の地名を付けることも不思議ではありません。
2 民数記一46。
3 十六章の神罰では「一万四千七百人」が死んでいます(49節)。こういう突発的な出来事もあったわけですが、平均すると四十年では(男だけでも)一日四十人が亡くなる計算になります。女子どもを加えると、毎日百人平均の埋葬をしたことになります。
4 このことは、以前にもホセア書十一8―9でお話ししたことです。「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」ここには、「聖なる者」であることが、イスラエルを「燃える怒りで罰しない」ことと結びつけられています。
5 また、これは、エドム人との関係が、聖絶の関係ではなく、先祖を兄弟とする友好関係にあることを教えてもいるでしょう。


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