聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

「哀歌 手をも心をも」哀歌3章1-41節

2017-06-26 10:24:21 | 聖書

2017/6/18 「哀歌 手をも心をも」哀歌3章1-41節

 今月も聖書から一巻を取り上げます。祈りのカレンダーに従い「哀歌」を読みましょう。

1.哀歌 悲しみの歌

 「哀歌」は、旧約の時代の終わり近くに書かれた嘆きの歌です。エルサレムの都が異邦人に踏みにじられた頃、自分たちの国が陥ったこの上なく悲惨な状況を嘆いています。イスラエルの王国時代、民は神に従順であるより、逆らい、神から離れてきました。何世紀にもわたって、搾取や偶像崇拝をして、神に背いてきました。主は、たびたび預言者を送って、悔い改めを求めたのですが、イスラエル人の悔い改めはほんのひとときでした。長く複雑な歴史を経て、最終的には、紀元前六世紀に、遂に神は予告されていた通り、神の民を裁かれました。具体的には、首都エルサレムはバビロニヤ帝国に占領され、有力者たちがごっそりとバビロンに連れて行かれました。その残されたエルサレムがどんなに悲惨になっているかを、とことん嘆いたのが「哀歌」です。街は荒廃して、人々が飢え死にする。女性たちは陵辱されて、母親が幼い子どもたちを食べる。そういう様子が、特に最初の一章で嘆かれています。

 哀歌は短く、わずか五章の構成です。日本語ですと分かりにくいのですが、ただ悲しみ嘆いて、考えもなしに言葉を並べているのではなく、非常に考え抜かれた詩なのです。今日読んだ三章では、哀歌の真ん中です。悲惨のどん底から見上げる希望、主への信頼を歌います。しかし、それで四章でもっと希望や確信や信仰を深めるかというとそうではありません。また、嘆きや訴え、涙に戻るのです。そして、最後の五章はこう閉じます。

五21主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。

22それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか、きわみまで私たちを怒られるのですか。

 もっと確信や希望をもって閉じる方が聖書らしいと思いませんか。暗くて、重くて。もっと明るくて、楽しくて、ホッと出来る話のほうがいい。そう思って済む方は、あえて哀歌を読む必要もないとも思います。もう十分悲惨で心がボロボロ、という時に、無理をして哀歌の悲惨な話を聴かない方が良いかも知れません。広島の平和記念館は、すべての人が行ったらよいとは思いますが、あまりに疲れたり傷ついたりしている時は避けた方がよいでしょう。聖書をえり好みしてはいけませんけれども、それぞれの状況に応じた御言葉があるように、その状況には不適切な御言葉もあるのです。逆に言えば、哀歌のこの出口のない荒廃の中で嘆き、祈り、希望と嘆きを行ったり来たりする状況もまた、私たちの生き方には襲いかかるのです。そしてそれは、信仰があれば乗り越えられたり、変わったりすると決めつけてもならないのです。

2.「主に立ち返ろう」

 「哀歌」はエルサレムが廃墟となって悲惨な社会になっている理由を、自分たち民族の罪に対する裁きだと認めています。勿論、どんな禍も神の裁きだとか、人間のせいだと言うのではありません。このエルサレムの陥落は、ハッキリと以前から警告されていた事だったのです。その明らかな罪を悔い改めなかったために、裁きが下されたのは明らかでした。けれど彼は、原因が自分たちの罪のせいだと認めた上で、「だから自分たちが悪いのだ、こんなになっても、責任は自分たちにあるのだから、もうダメだ。諦めよう」とは言わない。ここが肝心です。

22私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

 確かに私たちのせい、罪の報いだとしても、それでも私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。今、滅ぼされずにここに生かされているのは、主の憐れみによる。そう哀歌は言います。そして、そこから主を待ち望み、主に帰ろうとします。「滅ぼされなかっただけでも有り難く思おう。後は神妙にしていよう」ではないのですよ。そんなケチな神ではない。憐れみの尽きない神にこそ立ち帰ろう。そして、自分の嘆きも悲しみも訴えるのです。

39生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。[1]

40私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

41私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。

 礼拝のジェスチャーとして手を上げるだけではなく、自分の心をも神に上げようと言います。それは神妙な、信仰深そうな事を言う、という意味ではありません。悲しみ、絶望し、涙を流し、自分の罪を思えば自責の念に押し潰されそうな、このボロボロの自分の心を、隠すことなくそのままに神に上げる、という事です。綺麗に飾った立派そうな心を、ではなくて、嘆きをそのまま神に捧げることが、

「手をも心をも神に上げる」

です。これは二19で明確です。

二19夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。

3.嘆く力

 こういう聖書の祈りを知らないままであれば、「神に祈るときは、綺麗な信仰深い言葉で祈らないといけない」と思い込んでいたでしょう。悔い改めと感謝、神の最善を信じ、神を賛美する、そういう立派な祈りをどんなときもしなければ、と思い込んでいたでしょう。哀歌や詩篇の多くの祈りはそんな私たちの思い込みを吹き飛ばすほどの、「憐れみの尽きない神」を示してくれます。私たちが勝手に神の顔色をうかがい、神の憐れみが尽きないことを忘れて壁を作るものですが、主に率直に大胆に泥臭く祈ることは、決して傲慢でも無礼でもありません。

 哀歌が嘆くのは個人レベルでの悲惨とか挫折ではありません。甚だしい暴力や、戦争の爪痕、壊滅的な無法状態です。特に、子どもたちが飢えて苦しんでいる悲惨です。今もこの世界にはそういう暴力が多くあります。沖縄、パキスタン、日本でも様々な蹂躙、人権無視があります。「そういう悲惨に比べたら私たちは恵まれている、贅沢をいうな」とは言いません。それぞれが嘆いて良いのです。でも自分のためだけ、自分が一番被害者だというような愚かな祈りは一蹴されます。

 嘆きの現実から目を逸らさずに、主の尽きない憐れみを求めて、しがみつくように祈りたいと思います。
 簡単に感謝をしたり、分かったような祈りを並べずに、嘆いて祈りたいと思います。
 悲惨から目を逸らして、明るいことばかり考えるのではなく、現実を見据え、主の憐れみを食い下がるようにして求める哀歌。
 それは、私たちの祈りでもあるのです。

 哀歌を聖書に入れられた主御自身、人の嘆きを不信仰と退けたりなさいません。世界の悲惨を説明せず、罪のせいだと片付けず、むしろ御自身の痛みとして受け止められました。主イエス御自身がこの地上に来、ともに嘆き、苦しみ、最も苦しい痛みを受け止めてくださいました。十字架は、人間の憎しみや暴力、残酷さ、孤独、絶望、自責の念、そうしたすべてをキリストが御自身のものとされた死です。神は私たちの心を、真っ正面から受け止め、私たちとともに嘆かれる方です。そうしてキリストが、私たちとともに嘆いてくださるゆえに、私たちも希望を持つことが出来ます。
 たとえ自分の招いた結果であろうとも、自分のせいだと呟くことを止めて、主に立ち返るのです。私たちの嘆きや胸の内を吐露することが出来るのです。心をそのままに祈るのです。

 いつか嘆きが完全に取り去られる日が来ると、主は約束されています。それまでは嘆かわしい現実があり、それを引き起こす罪が私たちの心には染みついています。だからこそその中で、哀歌があり、これがイエスの祈りでもあり、私たちもともに祈り、待ち望み、諦めずに訴えるよう招かれていることを、哀歌に気づかされようではありませんか。[2]

「罪の報いでも、あなたは責めるよりも、立ち返れと招いてくださいます。嘆きの心を、御前に上げる恵みを感謝します。罪の裁きを自戒しつつ、それ以上に、その末にさえ豊かな赦しで帰らせたもう主の憐れみなのです。本当に悲惨な現実をあなたはともに嘆いてくださいます。私たちもともに執り成して祈り、あなたの約束された大きな回復を切に待ち望ませてください」

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57章15節)



[1] 新共同訳では「生身の人間が、ひとりひとり自分の過ちについてとやかく言うことはない。」と訳しています。こちらの方が遙かに筋が通り、分かりよいです。

[2] 四日市キリスト教会の説教も参考に。http://yccme2015.blogspot.jp/2015/08/blog-post_30.html

 

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