聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ2章1~7節「皇帝と飼葉桶」

2014-12-23 18:31:51 | クリスマス

2014/12/21 ルカ2章1~7節「皇帝と飼葉桶」

 

 今、読んで戴きましたルカの二章の直前、一章の最後、68節から79節に、「ザカリヤの讃歌」と呼ばれる歌が記されています。先ほど交読しました交読文44は、この部分の文語訳から持って来たものです。そこでは、美しく、力強く、神が賛美されます。全部は読みませんが、

一71この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。

72主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、

73われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、

74、75われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、

 きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

とこのように、力強い救いが歌い上げられています。キリストがおいでになること、約束されていたメシヤがお生まれになることは、本当に喜ばしい、神様の御業だと歌っているのです。

 ところが、そのような前置きに続いて、今日の二章に入った途端、意外な言葉が始まります。

二1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。

 2これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

 3それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

 一世紀に、当時の地中海世界をローマ帝国としてまとめていた、初代皇帝アウグストゥスの勅令が全世界に告げ知らされた、と書き出します。いきなり、世界史や政治の話になってしまいます。初めにこれを聞いた人はどう思ったでしょう。神様の導きによってこの福音書を書いたルカにとって、ザカリヤの讃歌に続いて、他の書き方ではなく、皇帝アウグストゥスを登場させて綴っていくことは、とても意味があったことだろうと思うのです。

 もしかすると、それはユダヤの人々の愛国心を燃え上がらせたかも知れません。アブラハムに遡る神様の契約、イスラエル民族の歩みを振り返る時、いま自分たちがローマ帝国の属州に成り下がり、税金を納めなければならず、そのための住民登録をせよと言われても黙って従わざるを得ない、という事実は大変な屈辱でした。ローマからの解放を願い、神が送ってくださる救い主が来られたなら、たちまちにしてローマ軍を焼き滅ぼしてくれるのだと、軍事的・政治的なメシヤを待望していました。そういう期待は、後のイエス様の弟子たちの中にも強くあったことが分かっています。

 しかし、ここに出て来るのは、そうした巨大なメシヤではありません。

 4ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、

 5身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

 6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、

 7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ここに出て来るキリストは、産着には包(くる)まれても、宿屋にはいる場所がなくて、飼葉桶に寝かされたような、貧しく、気にも留められない小さな存在です。皇帝アウグストゥスの勅令に翻弄されて、ナザレからベツレヘムまで行かざるを得ない、無力な存在です。また、本来、女性であるマリヤまで登録する義務はなく、まして身重の時期に長旅をするのは大変だったでしょう。それをヨセフが一緒にベツレヘムまで連れ上ったのは、正式な結婚をする前に、聖霊によってイエス様を身籠もったマリヤが、田舎村のナザレで好奇や非難の眼に曝されていて、一人残して自分が旅立つことが心配だったからでしょう。そこでもマリヤたちは、ご近所や身内からさえ理解されず、後ろ指を指されて耐えるしかない、理不尽さの中にいました。それは、当時の人々が期待していた、力強く、向かう所敵なしの救い主のイメージとは全く違っていました。神の権威と力を振りかざして、みんなを平伏させる方ではありませんでした。でも、この方こそは、真の救い主であり、私たちを救い出し、新しくしてくださるお方なのです。

 ローマでは、皇帝アウグストゥスが、主とも救い主とも言われていました。彼が「ローマの平和」という新しい時代を築き、世界を治める者として称えられ、全権を委任されていました。けれども、その「平和」は、重税に苦しむ民衆の貧しさや不満には目を瞑り、反乱が起きれば圧倒的な兵力で抑えつけることで成り立っていた平和でした。しかし、イエス様は違いました。上に立って権力を振るい、敵には剣を突きつけて言うことを聞かせる王ではないのです。

 主イエスは、私たちの世界に降りて来られ、人間となって胎に宿り、生まれ、貧しい人の子どもとなり、弱い者のようになってくださいました。そしてそれは、最初から、十字架に至る苦難と死へと向かって行く道行きでした。皇帝の力強く輝く栄華とは対照的に、主イエスは、ご自分に与えられた場所が飼葉おけであることを受け入れておられます。けれども、忘れないでください。主イエスよりも皇帝の方が強いのではありません。アウグストゥスが歴史を支配していて、キリストもキリスト者も教会も、それに対しては為す術がない、ということでは決してないのです。ここで言われているのは、この皇帝アウグストゥスが勅令を出しているただ中で、キリストはひっそりとお生まれになった。でも、飼葉おけに眠るこの方こそ、神の真実で力強い救いをなさる、真の皇帝であり、主の救いを成し遂げてくださる救い主だ、ということです。

 世界を作られ、支配しておられる神様は、偉大な栄光のお方であり、決して無力でも詰まらないお方でもありません。けれども、この神は、本当にこの世界の小さなものを愛しておられ、いる場所さえ与えられない者とともにいることを厭われないお方です。貧しく、小さな一人となることを通して、私たちに深く語りかけるお方です。上から頭ごなしに命ずるお方ではなく、私たちの心に深く語りかけることによって、形ばかりの平和ではない、本当の平和-一人一人が自己中心を捨てて、罪を悔い改めることから始まる平和-をもたらされるお方です。そのような神様のご計画こそが、世界の歴史を貫いて、神様が大切にされていることなのです。

 私たちは政治家に成り代わることは出来ません。神の力や知恵を授かって、人生の悩みや病気や悲しみを全部解決してしまうことも儚い望みです。でも、それは神様を信じても無駄だとか主イエス様が来られても何も変わらない、ということではありません。主イエスは、確かにこの世界の中に来られたように、私たちの所にも来られて、私たちの歩みを導き、私たちの心に住んで、私たちもこの世界をも深く導いておられます。

 この神に出会って、私たちが主を信じて礼拝する者となり、私たちがお互いに、精一杯助け合い、愛し合い、仕える者となっていくことは、神の前には、皇帝よりも尊く歴史を作る歩みです。私たちのためにお生まれくださった、この小さなイエス様は、救い主であり、真の王であられて、私たちの人生、政治や歴史を見る眼をも一変させ、神を仰ぎ、希望をもって共に歩ませるために来てくださったのです。

 

「主よ、あなた様はこの世界に、貧しく小さくお生まれになることによって、私たちの救いの御業を果たされ、神の御心を教えてくださいました。高く強くされることを夢見がちな私たちですが、あなた様を自分の心深くにお迎えし、愛によって癒され、新しくされることを願い、その御業に与らせてください。主の惜しみない御真実に希望と勇気をいただかせてください」

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