聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問17 「罪と悲惨の状態に」ローマ三10~18

2014-09-06 18:47:52 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/08/31 「罪と悲惨の状態に」ローマ三章十節~十八節

                                                                                    ウェストミンスター小教理問答17

 

 人間の堕落、罪の状態についての問答がもう少し続きます。今日の17は、

問 堕落は、人類をどのような状態に陥れましたか。

答 堕落は、人類を罪と悲惨の状態に陥れました。

とまとめます。次の問18で、罪の状態について、更に問19で、悲惨の状態について述べます。ですから、今日は罪と悲惨とについて詳しく説明する必要はないでしょう。そして、その次の問20から、罪と悲惨との状態から神が私たちを救い出してくださることに話が発展していきます。そうした展開に希望を置きつつ、今は、その前に、堕落が人類を罪と悲惨の状態に陥れた、ということに注目しておきたいと思います。

 つまり、ここで私たちは、聖書が現在の状態を、堕落によって陥れられた、罪と悲惨の状態である、と言い切っているとの告白をするのです。今の状態は、人間の本来の状態ではありません。神様が計画された、もともとの世界は、今の状態とは違う、もっと素晴らしい世界だった、と信じるのです。

 多くの人が、「神様がいるなら、どうしてこんな悲惨なことが世界にはあるんだ。こんな酷いこと(大震災や病気、悲しい出来事、訳の分からない暴力的な不幸)が降りかかるのに神様を信じるだなんて、無理だ」と言います。そう言いたくもなるような悲惨な目に遭う辛さには、心から同情します。けれども、ここには二つの間違いがあります。

 第一は、さっきから言っていますように、神様はこの世界を、もともとは悲惨がない世界、祝福に満ちた、素晴らしい世界としてお造りになりました。災害も、病気も死も、暴力もない、幸いに満ちた世界をアダムとエバに提供されたのです。しかし、アダムはそこで神に背きました。神様との契約を破ったら、死ぬことになると知らされていたのに、掟を破ったのです。「死んでもいいや」と思ったのでしょうか。どう思ったにせよ、本当に死は招き入れられました。でも、それは、神様が厳しすぎる呪いを与えて、人間を不幸に陥れたのではありません。人間が神様に背いたという「堕落」によって、創造された状態から落ちてしまい、世界に悲惨が引き起こされたのです。それは、人間が神に背く選択をした当然の結果でした。崖っぷちから踏み出せば、危ないよ、と言われていたのに、面白半分であっても近づいて足を踏み外せば、崖を転がり落ちるしかないでしょう。痛い目に遭うのは、言うことを聞かないで行動した当然の結果です。危ないよと禁じていた親が、意地悪や怒り任せに痛い思いをさせたのではありません。世界の悲惨は、人間が選んだ堕落の結果です。神様のせいには出来ません。

 しかし、もう一つの間違いがあります。それは、人間が往々にして問うのは、悲惨のことばかりで、罪については(ことに、自分の罪については)取り上げたがらない、ということです。今日の問16で大切なのは、

堕落は、人類を罪と悲惨の状態に陥れました。

と言っている順番です。聖書は、やはり、まず先に「罪」を取り上げて、それから、「悲惨」に言及します。世界の悲惨以上に、神に対する罪を由々しいこととして取り扱います。先に見た、ローマ書3章10~18節で、

義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

と述べて浮き彫りにしていくのも、人間の罪であり、言葉や行動、思いの歪みです。その罪や、自分自身の自己中心、毒舌、二枚舌、好戦的な生き方を問わずに、ただ周りで起きる悲惨な出来事ばかりを問題にして、神様を責めるとしたら、可笑しくはないでしょうか。ですから私たちは、悲惨が起きるのは神様が悪い、と文句を言うよりも、自分自身の罪を認め、神様から離れている状態が悲惨を引き起こしているのであって、神に立ち帰ることこそが、すべての出発点であることを受け入れなければなりません。

 ウェストミンスター小教理問答と並ぶ、改革派の信仰問答の「ハイデルベルグ信仰問答」は、「唯一の慰めとは何か」という問から始まります。その慰めを答えた上で、

問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。(問3、86、117も参照)

答 三つのことです。第一に、私の罪と悲惨がどれほど大きいか、第二に、わたしのあらゆる罪と悲惨から、どうすれば救われるのか、第三に、そのような救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか、ということです。

 ここでは、私たちが自分の罪と悲惨がどれほど大きいかを知ることが、神様の真の慰めの中で喜びに満ちて生き、また死ぬために、知らなければならないことの第一だと言っています。罪と悲惨を認め、しっかりと知ることによって、私たちは今の世界に降りかかる悲惨を恐れるだけではない、生き方へと導かれるのです。この世界を造られた神様が、悲惨から守る以上の祝福をご計画なさっておられたのだと知るのです。世界のあちこちに開いた穴を継(つ)ぎ接(は)ぎだらけで何とかしようというのではなく、本来の祝福と栄光に満ちた世界へと、目を高く上げることが出来るのです。「どうせ世界はこんなものだ」「人生なんて大して期待をするだけ無駄だ」と悟ったような言い方をするのではなく、神様のご計画は、こんなものではない、長い目で万物を新しくし、祝福を回復なさる御業が、この世界に注がれているのだと信じるのです。

 その回復のために、イエス・キリストはこの世に来てくださいました。主イエス様が十字架で成し遂げてくださった御業は、私たちを悲惨に遭わせないというだけのものではありません。私たちと神様との関係を修復するため、罪の贖いをご自身のいのちをもって果たしてくださったのです。そして、それも、ただ罪が赦され、将来も罰せられなくて済む、ということで終わりではありません。私たちを、罪と悲惨へと陥れていた堕落そのものから引き上げて、創造された状態の、本来の祝福へとこの世界を取り戻していく、ダイナミックなご計画の一環なのです。でも、その壮大なご計画は、私たち一人一人が、自分の罪に気付き、主イエス・キリストにある赦しと和解をいただくことから始まるのです。罪と悲惨の中にいた私の救いが、神様の創造と救いの御業にとっての「鍵」でもあるのです。


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