2016/02/21 ウ小教理問答105「和解の福音」エペソ2章14~16節
ドイツに行ったある牧師が、招かれた家での食事で、お祈りを捧げた子どもがこんな祈りを聞いたことが忘れられない、というエピソードを言っていました。■「父よ。我らに今日もなくてはならぬものを与えたまえ。日ごとの糧と、罪の赦し」。先週もお話ししたように、「日ごとの糧」と「罪の赦し」は並んで、必要な無くてはならぬものです。今日は朝の礼拝でも「罪の赦し」という福音をお話しして、午後の学び会でも「罪意識は必要?」というテーマで学び、夕拝でも第五祈願から「赦し」の話しをします。
問105 第五の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。
答 第五の祈願、すなわち「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたから」で、私たちは、神がキリストのゆえに、私たちのすべての罪を、無償で赦してくださるように、と祈りますが、私たちは、神の恵みにより、他の人々を心から赦すことができるようにされているので、なおさらそのように求めることが奨励されています。
主イエスは、私たちに、このように祈るようにと仰いました。私たちが、祈る度に、主の赦しを頂くように、そして、他の人を赦すように、と御配慮くださいました。これは本当に大きな恵みです。私たちが、赦されて者として、また他者を赦す者として生きる。それは、私たちの内側からは決して出て来ない、神からの恵みの賜物なのです。
もちろん、私たちが人を赦すことで、天の父も私たちを赦してやろう、と思ってくださる、という事ではありません。人を赦せないなら、私たちのことも赦してはくださらない、なんて筈はありません。そうでないと私たちも、「どうしても赦したくない人がいるから、私のことも赦してもらえなくたっていいや」とやけっぱちになるかもしれませんね。天の父は、私たちに、人を赦すことを「条件」として求めておられるのではないのです。天の父は、私たちの負い目を赦すだけでなく、私たちにも人を赦す者になってほしいのです。赦されて嬉しい、ホッとした、というだけで、人の事は赦せない、腹が立つ、いつまでも怨みを抱いている-そういう生き方から、赦しへと招かれます。
主の祈りのここで、文語文では
「罪」
というのを、新改訳では
「負い目」
としていますね。「負債・借金」のことです。罪とは、ただ悪いこと、だけではありません。私たちは神から、この身体や、人生、チャンス、能力や時間を、お預かりしているのですね。それを、神の御用のために使うように、とお借りしているのです。それを、私たちが勝手に自分のものにして、違う使い方をしてしまうのが罪です。神に負債を造るのです。しかもそれは決して返せません。ただ、神がその私たちを憐れんで、借金を肩代わりしてくださるのです。決して、ただ帳消しにするのではありませんよ。それは、不正ですからね。そうではなくて、神が私たちに代わって、負債を肩代わりしてくださる。それが、イエス・キリストが人間として、私たちの代わりに、正しく聖い生き方を、完全に果たしてくださって、十字架にいのちまで捧げてくださった御業です。
エペソ二14キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
ここには、キリストが、十字架の死において、罪の赦しだけでなく、「私たちの平和」となってくださったと言われていますね。人間が、生まれや国や民族が違ったり、戦い合っていたり、ぶつかったり傷つけたり、敵意を抱いたりしている関係から、平和を持ち、互いに和解して、赦し合うようになること。それが、神との和解と結びついています。神とだけでなく、お互いにも和解させることが、十字架の目的だというのです。ですから、イエス・キリストの福音とは、ただ私たちの罪が赦される、というだけではありません。自分が赦されて終わり、というほっぽり出した御利益ではなく、神とも全ての人とも、敵意から和解へ、平和へ、新しい「神の家族」へと導きたいのが、十字架のゴールなのです(エペソ二19)。その手始めとして、私たちは自分の罪が赦される、それもイエス・キリストの十字架によって、完全に赦される恵みに与るのですね。
けれども、人を赦すというのは、難しいことです。小さなことでも、大きな負債でも、簡単ではありません。悪いことは悪いとした上で、ですが、私たちの心の中で、人を恨んだり憎んだりしないのは難しいことです。でも、その赦すことの難しさに気づくことがあって初めて、自分が赦されることも、当たり前ではないと気づけるのです。赦される事ばかり求めているなら、その有り難みさえ忘れます。戦争や大変な苦しい出来事があった後、教会の礼拝でも主の祈りを祈る時、この第五祈願の所では、「私たちに負い目のある人たちを赦しました」と言えなくて、声が小さくなった、という話しがあります。赦していない自分の罪に気づく時に、赦しを戴くことが簡単ではないと迫られたのです。そして、自分も神に赦してもらったに過ぎない、同じ事をしている者に他ならない、そう気づかされることが、私たちにとって必要なのです。■
イエスは、私たちが心からの赦しと和解に生きるために、この祈りを教えてくださいました。私たちが自分で憎しみから解放されることは出来ません。イエスが私たちを憎しみや思い上がりから救い出してくださるのです。日ごとの糧を祈り求める前から、毎日の食事や必要が与えられているように、この祈りに先立って、イエスは私たちに赦しを下さり、和解と平和、神の家族の交わりを既に備えてくださっています。実際、犯罪の被害者が犯人を赦したり、殉教者の家族が迫害者を赦したりした事実は、沢山あるのです。そこに向けて、私たちは生かされています。人を赦せないから自分の罪も赦されていないと恐れる必要はありません。十字架によって、既に私たちは完全に赦されています。人を赦せない思いは、赦した振りをしたりせず、その思いこそ、主の前に差し出して、じっくりと解放して戴きましょう。そして、私たちが主の恵みによって、考えられないほどの大きな赦しと和解へと進んで行く途上にあることを信じていきましょう。
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