聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問103「神の御心は最善で最高」マタイ二六39

2016-02-14 16:31:14 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/02/07 ウ小教理問答103「神の御心は最善で最高」マタイ二六39

 

 主の祈りの六つの願いを一つずつ見ています。イエスは私たちに「天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈りなさい、と教えて下さいました。「父の御名、父の御国」それに続く、今日は第三の願いです。

問 第三の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第三の祈願、すなわち「御心が天で行われるように、地でも行われますように」で私たちは、神がその恵みにより、ちょうど天使たちが天においてしているように、私たちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように、と祈ります。

 「御心」とは、「御名」「御国」と同様「あなたの意志(御意志)」という言葉です。神の御意志が行われますように、ですね。私たちは神に、自分の願いや計画を叶えてもらおうとして祈るものです。自分の意志を聞き届けてもらうために祈りがちです。そういう私たちにイエスは教えられたのは、徹底して、「私たちの」ではなく「天の父よ、あなたの御名、御国、御意志が」という祈りだったのですね。私の計画や願いがある時も、逆にそれがダメになりそうで焦っている時も、私たちはその私たちの計画以上に、天にいます私たちの父となって下さった神の御意志がなるほうが大切だ、その大きく確かで素晴らしい神の御意志がなりますように、と祈るのです。

 でも、この願いについては、私はずっとこんな思い込みがありました。

「御心が天で行われているように、地で行われますように、というように、確かにこの地上では、嫌な事や悪いことばかり起きているなぁ。天国のように、平和で楽しくて、素晴らしい事がある世界になりますように」。

 そういう願いがこの意味だと思っていました。しかし、

 …ちょうど天使たちが天においてしているように、私たちもすべてのことにおいて、神の御心を知り、それに従い、服することができるように、またそう望むようにしてくださるように。

 天使たちが天で御心を知り、従い、服し、それを心から望んでそうしている。でも私たちは、神の御心に背を向け、何となく幸せで、苦難や嫌な事がないことを願っているだけなら、それはこの祈りとは全く違うのだ、と気づかされたのです。私たちの中に、神の御心に叶わない願いがあります。神を差し置いて、自分の名声や自分の力や自分の願望を果たそうとする思いがあります。私たちの父となって下さった神の愛を信じられず、疑ったり、試そうとしたりする思いがあります。周りの環境が思い通りにならないとふくれ面をして、「天国が早く来れば良いのに」と思うぐらいなら、天国に行った時に、自分の嫌いな人がいたり、隠してきた自分の問題も明るみに曝されたりしたら、「こんな所に居たくない。地獄の方がいい」と飛び出しかねない。それが私たちです。

 そういう私たちに、イエスは教えてくださいました。

「御心が天で行われるように、地で行われますように」

と祈りなさい、と教えてくださいました。自分の願いや計画ばかりに捕らわれている生き方から、神の御心を第一に願い、それを受け入れ、従い、そればかりでなく、積極的に神の御心を学んで知り、それを行う。それが私たちの人生でありますように、そういう生き方を指し示してくださったのですね。いいえ、ただ教えるだけでなく、イエスご自身の生涯が、御心を喜び、御心に従い、御心を願うものでした。先に読んだように、十字架の死を前にした夜、ゲッセマネで祈られました。

マタイ二六39…「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 十字架の苦しみの恐ろしさ、苦しさ、悲しさを、イエスは正直に祈り、出来るものなら避けたい気持ちも、格好付けずに祈っています。しかし、それ以上に、イエスの願いは、自分の願うようになることではなく、父の御心のようになることでした。それに従って、イエスは十字架に掛かり、私たちのための贖いの業を完成してくださいました。それはその時は逃げ出したいような苦しみでしたが、しかし、天の父の大きな愛のご計画の一部であるならば受け入れて、従ってくださいました。そのための力や思いをも下さることに委ねたのだと言えます。これは、私たちにとって見本でもあります。

 しかし「御心がなりますように」と祈ることは、自分の願いを捧げて、神に服従することですが、決して悪い意味で「諦める」とか「仕方がない」と思うのとは違います。「どうせ私の願いなんか祈っても叶わないんだから諦めよう」と考える人がいますが、そういう思いこそ、神の御心ではありません。私たちの天の父である神の御心は本当に素晴らしく、賢く、恵み豊かです。

 「総合的に見てこれが精一杯の最善」

であるだけでなく、人間には考えつかないほど素晴らしく、絶妙で最高のご計画です。今は分からなくとも、大きなご計画があり、私たちを測り知れない愛で愛し、育て、喜ばせるご計画があるのです。今私たちにはその全体像など見えません。だから、出来ないことに目が行きます。神様がケチだとか、不公平だとか思いたくなります。エデンの園でも、サタンはエバに神が人間の成長を妬んで隠しているのだと唆して、神との大事な約束を破らせました。しかし、それは大きな悲しみの始まりになってしまったのです。

 けれども、神は私たちをロボットのように、間違いなく従うようにとはお造りになりませんでした。考えたり悩んだり、ノーという自由もあった上で、心からの愛で従って欲しいのです。失敗しても良いから、心から、わたしへの信頼をもって従って欲しい、そう待たれているのです。なぜなら、神は天の父として、私たちを愛しておられるからです。私たちは、分からないことを疑ったりせず、聖書にハッキリと教えられている御心に従いながら、見えない神の御心が行われることを求めましょう。神の善き御心を信じる時に、私たちは自分の失敗をクヨクヨ後悔することからも自由になれますね。

 過去を振り返る生き方も、未来に不安を抱くこともなくて済むのは、

「御心が行われますように」

と祈りながら歩む幸せの一つです。そのようにして、私たちが神を信頼し、喜んで神が聖書に教えて下さった御心に従うこと-たとえその時にはどんなに大変で、誘惑があるとしても、御心に信頼して服従すること-こそ一番大事な御心です。天の父の御心は素晴らしく、最善で最高であることを覚えて、私たちも心から祈りましょう。

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