聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問24「すべては神の愛に」ガラテヤ五章3-6節

2016-07-17 20:29:41 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/17 ハイデルベルグ信仰問答24「すべては神の愛に」ガラテヤ五章3-6節

 「チームワーク」という言葉を知っていますか。一人ずつ別々やバラバラに行動するのではなくて、何人もが集まってチームを作り、役割を分担しながら、協力してスポーツや活動をすることですね。例えば、家族で、お父さんとお母さんが、手伝って家のことをするのも「チームプレイ」ですね。野球でボールを外野が拾ってセカンドが中継をしてキャッチャーに送るのも、チームプレイです。そして身近な所では、私たちの体にしても、頭が考えた事が手や足に伝えられて、体が全部違うように動きながら、歩いたり走ったり、色々な活動をしているのも、見事なチームワークですね。他にも、ダンスや研究、ありとあらゆる場所で、よく準備されたチームワークを見ると、ワクワクしてきます。チームワークは美しいです。なぜなら、それは世界の秘密を現しているからだ、と思うのです。今日から「使徒信条」を学んで行きます。

問24 これらの箇条はどのように分けられますか。

答 三つに分けられます。第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの救いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです。

問25 ただ一人の神がおられるだけなのに、なぜあなたは父、子、聖霊と三通りに呼ぶのですか。

答 それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一のまことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったからです。

 使徒信条にも、チームワークがあります。それは、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神との共同作業です。神が三人おられる、というのではありません。聖書は神はただ一人だと繰り返して言っています。神が三人おられるのではなく、ただおひとりの神だけがおられるのです。でも、同時に聖書には、イエスも神として礼拝され、聖霊も主と呼ばれています。イエスも、聖霊も、別々のお方であり、それぞれに永遠であられます。そして

「父と子と聖霊の御名」(マタイ28章19節)

という言い方では、ひとつのお名前を、父と子と聖霊が共有しておられるのです。そういう書き方を考える時に、

 それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一のまことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったからです。

としか言いようがないのですね。神はお一人でありつつ、父も子も聖霊も、唯一のまことの永遠の神。そう聖書に啓示されているから、そうだと信じます。それは、宇宙よりも大きなお方の事ですから、私たちのちっぽけな脳味噌では到底理解できない神秘です。

 しかし、嬉しい事に、三位一体とはどういう事かは大きすぎて分からないのですけれど、その三位一体の神が、それぞれに抜群のチームプレイをなさったことに、私はワクワクします。嬉しくて嬉しくて堪らなくなります。

 三つに分けられます。第一に、父なる神と、わたしたちの創造について、第二に、子なる神と、わたしたちの救いについて、第三に、聖霊なる神と、わたしたちの聖化についてです。

 使徒信条は、確かにそうですね。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

と言います。第二に、

「我はそのひとり子我らの主イエス・キリストを信ず」

と言います。その後、イエス・キリストについて述べた後、

「我は聖霊を信ず」

と言います。こうして、父なる神が、天地の造り主であることを知り、御子イエス・キリストが、私たちの救いの御業を成し遂げてくださった事を知り、聖霊なる神が、私たちを聖化してくださることを知る、という三段構えになっていますね。本当は、父なる神も主イエスも聖霊も、創造も救いも聖化も、全部に関わっておられます。父なる神は創造だけ、子なるキリストは救いだけ、聖霊は聖化だけ、ではありません。そういうチームワークではなく、父なる神がすべてを計画され、子なるイエスはそれを実行に移し、聖霊なる神はそれを世界に適用してくださったのです。創造も、救いも、私たちの聖化も、すべて、父なる神の御心を、御子イエスが実行し、聖霊なる神が適用してくださった、そういうチームプレイになっています。

 なんだか楽しそうじゃありませんか。かけ声をかけたり、「まかせてくれ」と言ったりするような、そんな連係プレーを神ご自身がなさったのです。

 聖書は神が愛であると言っています。もし、神がおひとりだけで、イエスや聖霊は神ではなかったなら、永遠の昔から神がおられて、「わたしは愛だ」といっても何の意味があるでしょうか。何を愛しているのでしょうか。愛する相手もいないのに「わたしは愛だ」と言うなら、淋しいことです。しかし神が三位一体で、父、子、聖霊が永遠からおられて、愛し合っておられるのなら、

「神が愛です」

というのも、腑に落ちるのです。神は愛の関係をお持ちです。神の中には、生き生きとした愛の交わりがあります。その愛に喜び溢れて、世界や私たち人間をお造りになったのです。この方が遥かに分かりやすいのです。そして、その神が、世界を作るに当たっても、それぞれに役割分担をされ、助け合うことになさったのです。

 父なる神は、世界の創造とすべてのご計画をされました。

 御子イエスは、私たちの救い主として、特にこの世に来られて、十字架にかかり、よみがえるという部分を担当してくださいました。

 そして、聖霊なる神は、その救いを私たちに届けてくださって、私たちが今ここで、恵みによって成長し、新しくされるように、私たちに直接働く部分を引き受けてくださいました。

 それが全部、神の愛によって、なしておられるチームワークなのです。その愛の神は、私たちを愛されるばかりか、私たちも又、愛し合うことを目指して、働いておられるのです。

 この絵は三位一体を現した絵です。御使いの姿で神が描かれています。この絵で三人は、こちらに場所を空けるように座っています。三人だけで内側に向かい合うような、閉ざされた座り方ではないのです。私たちをお客として招くような、開かれた座り方をされています。三位一体そのものは、私たちの理解を超えています。でも、一人の神である父・子・聖霊が、互いに愛し合うばかりか、私たちのためにも、それぞれに役割を分担して、私たちを神の愛の交わりの中に、迎え入れてくださるのです。この神の愛をますます知りましょう。父と子と聖霊の見事なチームワークの中で、生き生きと成長し、神の愛のわざを現す歩みをさせていただけるよう、自分を差し出していきましょう。

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