聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/10/4 エペソ書3章14~21節「祈り方を教えて」ニューシティカテキズム40

2020-10-03 12:26:06 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/4 エペソ書3章14~21節「祈り方を教えて」ニューシティカテキズム40
 
 イエス・キリストは、私たちに祈る特権を下さいました。私たちは天の神に向かって、「天にいます私たちの父よ」と祈る事が出来ます。「イエス様のお名前によって」と祈ることが出来ます。この、親しく祈る特権で、私たちは何を祈ればよいのでしょうか。
第四十問 私たちは何を祈るべきですか?
答 イエスご自身が私たちに教えた祈りを含めて、神のみことば全体がどう祈るべきか導き、祈りの言葉を示し導きます。
 ここでは、神の御言葉全体が、私たちに、何を祈るべきかを導き、具体的にどういう言葉で祈るかも教えて、私たちの祈りを手引きしてくれている、と言っています。聖書を読むのは、ただ私たちが神について頭の知識を増やすためというより、私たちが神にもっと親しく祈り、神との豊かな祈りの関係を味わい、喜び、祝うようになるためです。聖書は、私たちが祈るために、神が与えてくださった手引き、ガイドブックです。

 聖書には、たくさんの祈りの言葉が出て来ます。でも、意外とそれは気づかれていません。私たちの頭は、神さまってこういう方のはずだ、神さまの要求ってすごく厳しく、難しいはずだ、神さまが喜ばれる祈りってきっとこうだろうと、いろいろと考えていることが多いのです。ですから、イエスが祈りについて教えた時も、最初に
マタイ6:5祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。…7また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。8…彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
と、神を小さく考える誤解を糺しています。私たちも、神を小さく考えて、沢山の誤解をしています。聖書に、祈り方が示されている、といっても、「きっと、自分には難しいだろうなぁ」と思ってしまっているかもしれません。安心してください。聖書は、私たちに、あなたや私が考えたこともないくらい、豊かな祈りで満ちています。
 先に読んだ、エペソ書の言葉を思い出してください。なんと豊かな祈りでしょう。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
 私たちは、このように祈って良いのです。父なる神よ、あなたの栄光の豊かさに従って、聖霊なる神さまによって、私たちを強めてください。私たちに信仰を与えて、心のうちにキリストを住まわせてください。「欲しい物を願っていい」と言われたら、私たちは何を願うでしょうね。私たちがどんなものを思いつくとしても、聖霊が私たちを強め、キリストが私たちの心に住んで下さる。これよりも頼もしく大胆な祈りは、到底重いも及びません。それほどの事が、聖書では無条件に願われているのですね。そればかりではありません。続く言葉は、もっともっと大胆です!
…そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 私たちは、神の「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」んですって。教会の周りには、夏にはゴーヤが、今は無花果が実を付けています。そのゴーヤの苗も、無花果の木も、植える前には土を耕したり、肥料を埋めたり、毎日水を蒔いたりしました。ゴーヤの苗も無花果の木も、知らないでしょうけれど、根ざしている土は、十分に準備された基礎です。私たちも、実は、豊かな神の愛に根ざし、神の愛に基礎を置いて、今ここにあるのです。その愛の、広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持ちますように。それが人知(人の知識)を遥かに超えたキリストの愛であるかを知ることが出来ますように、と祈っています。私たちは、自分が愛に根ざしていることが分からず、自分で頑張らなきゃ、神の愛っていってもよく分からないしなぁと思っていることが多いものです。神に対する愛や信頼よりも、不信とか恐怖とか、殺伐とした思いでいるかもしれません。でも、聖書の祈りは、そんな私たちが、神の大きな愛の中に生かされていることを知ることが出来るように、そして、私たちがその神の満ち溢れる豊かさにまで満たされますように、と祈るのです。これが聖書の祈りです。
 『聖書の祈りが私の祈りになる』という本もあります。また、聖書の特に「詩篇」は祈りの宝庫です。詩篇は、人間の感情のすべてがある、魂の解剖図鑑だとも言われるぐらいです。祈祷会では、詩篇を一つずつ読んでいますが、嘆きや願い、賛美や告白の大胆さに、私たちの祈りはお行儀良すぎて、聖書の祈りがなんと大胆かを思わされます。その「詩篇とともに祈る」という本もあります。また「イエスとともに祈る」という手引きもあります。聖書は、私たちの祈りの手引きです。特に、イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」は、毎日、世界中で祈られている、素晴らしいお手本です。

 聖書には祈りの手引きがあります。もっと言えば、実は、聖書を私たちが読むこと自体が祈りなのです。私たちが言葉を出すだけが祈りではありません。まず神が語られて、私たちがそれに耳を傾ける。そこに既に祈りは始まっています。神は私たちに語ってくださり、私たちに何を願うか、どんな豊かな祈りがあるのかを示してくださいます。私たちが思ってもいない祈りの言葉を心に教えてくださいます。それに私たちが聴き、それを自分の言葉で繰り返す。そして、それを神が受け取って下さる。神が語り、私たちが聴き、私たちが語り、神が聴かれる。この場がそのまま、祈りなのです。

「祈りを聞いてくださる神よ、私たちの願いと祈りが、あなたの生けるみことばによって正しいものとなりますように。みことばによって励まされ、不可能と思えることも祈る信仰を与えてください。みことばによってみこころを知り、あなたに愛される神の子として主に近づくことができますように。また、みことばによって私たちはひざまずき、あなたが必要であることを知ることが出来ますように」
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