聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/1/9 マタイ伝26章69~75節「ぜんぶ知られている幸い」

2022-01-09 12:09:17 | マタイの福音書講解
2022/1/9 マタイ伝26章69~75節「ぜんぶ知られている幸い」

 マタイの26章は実に目まぐるしい章でした。最後の晩餐とゲッセマネの祈り、そしてイエス逮捕から裁判に至り、主イエスの真っ直ぐなメシアとしての証言に、最高法院は死刑を決めました。本当に目まぐるしく動いた章です。その最後に、一番弟子のペテロが、イエスを「知らない」と否定した事が記されます。それも三度、呪いを掛ける誓いで否定した。これがマタイの福音書でペテロが名指しで登場する最後で、忘れがたい主の御心が心に刻まれます。
  1. 砕かれたペテロ

 この時、イエスの弟子たちにまで逮捕や処刑の危険が及んでいたわけではありません。だからこそしつこく問い詰められることもなく、ペテロもその場から逃げることが出来たのです。

69…女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」

もからかっただけのイジりです。「信仰告白したら死ぬ」命がけの状況でもないのに、ペテロは必要以上に恐れて、イエスを知らないふりをしたのです。つい数時間前(ほんの2頁前)、

「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」[1]

と断言していたのです。あの勢いはどこに行ったのでしょう。ここでは女性の言葉にしらばっくれて、二人目の女性にも誓って否定します[2]。三度目は、「嘘なら呪われても良い」と強い賭けを加えて「そんな人は知らない」と段々エスカレートしてしまいます。[3]

 十二弟子の代表格のペテロがイエスを否定した。これは致命的な背任です。牧師がイエスとの関係を否定したら、その説教は聞かれるでしょうか。夫が「あんな女は知りませんよ。絶対赤の他人です」と言うなら、どんな問題よりも酷い裏切りでしょう。イエスは仰いました。

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。[4]

 これは当然です。けれどもそれさえ人は破りかねない。その大きな裏切りを、一番弟子のペテロがした。今まで目立って活躍してきたペテロ[5]、それでも自分だけは裏切らないと言い張ったペテロが、イエスを裏切ってしまう。弟子としての自信とか忠実さが音を立てて崩れるような出来事が、イエスの十字架に伴ってあったのです。その事を正直に聖書は伝えるのです。だから教会に、どんな人も来られます。私も、たくさんの失敗をしてきました。皆さんも人に言えない過去や、恥ずかしい思いがあっても、ここに来られます。そして、ここで聞くのが、そういう私たちを知ってくださっている主の御言葉である事に、慰めと力を戴いていけるのです。
  1. イエスの言葉を思い出した

74…すると、すぐに鶏が鳴いた。75ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。…

 そうです、イエスは先にペテロの否認を予告していました[6]。ペテロはあのイエスのことばを思い出したのです。自分の裏切りを後悔し、呪いを恐れたのではありません[7]。御言葉を思い出したのです。そんな自分だとイエスは最初から知っておられた。イエスはご自分を否む、大きな罪を犯さない事を求めるよりも、ご自分がペテロの弱さ、危うさ、失敗も全部ご存じで、なお愛し、ともにいてくださることに気づかせようとなさいました[8]。イエスを裏切る事は確かに大きな罪です。しかし、私たちが罪を犯さないかどうかに先立って、まずイエスご自分が私たちを知り、愛し、ともにいてくださる。その事が第一にあるのです。[9]
 
「人が恐れることが3つある。死・他人・自分の心だ」[10]。

 私たちは自分の心を見るのを恐れます。心を覆うために間違いに走ることもあれば、心を隠すために立派な行いをすることもあるでしょう。しかしイエスは私たちが隠したつもりになって忘れている、あるがままの私たちをご存じで、その私たちを愛し、ともにおられるのです。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神が光であり、神には闇が全くないということです。 Ⅰヨハネ一章5節

 神は光であって、全てを-私たちの心の奥の奥まですべてをご存じである。キリストが伝えてくださったのは、この言葉をペテロは自分の卑怯な赦しがたい過ちを通して悟ったのです。
  1. 外に出て、激しく泣いた

75…イエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。[11]

 今までまとっていたプライドやエゴが崩れ落ちて、「外に出て行って激しく泣いた」。これがマタイで最後のペテロの名指しになります。この後ペテロの名前は出て来ません。最後の28章の結びで、十一人の弟子たちの一人として登場します[12]。ご自分を裏切った弟子たちに主は近づかれて、派遣されます[13]。その前の最後が、この激しく泣くペテロの姿なのですね。自分を自分以上にご存じの主の言葉を思い出して、溜まらなくなる[14]。涙が必ずしも本当の悔い改めのしるしとは限りませんが、この激しい涙は、ペテロの心に張り巡らしていたプライドの壁も主の言葉によって崩れ落ちた涙ではないでしょうか。一番偉い弟子でありたいと背伸びして来たペテロが、子どものように泣きじゃくっています[15]。これが新しいペテロの始まりでした。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。 Ⅱコリント7章10節

 このイエスを知れば知るほど、この主を告白する事は命を懸けるに値する事だと心から思います[16]。自分の誇りがひっくり返される事です。心を見られるのは恐ろしく思えます。でも、それこそ本当の神の愛です[17]。キリストから伝えられた使信です。主に全部知られているとは本当に幸せなことです。だからこそ、いざという時には命も惜しまずに、主を告白させて戴きたい。後のペテロも最後は殉教を遂げます。でもそれも自分の力で出来た事ではなく、強めてくださる主の恵みです[18]。主に強められて、
「私はイエスを知っています、キリストが私の主です。この方が私のために命を捨ててくださったのです」
と告白させていただきたいし、今ここでの交わりにおいても、強がったり裁いたりせず、私たち一人一人のすべてをご存じの主にあって、互いを受け入れ合い、慰め合い、励まし合うような思いをいただきたいのです。

「私たちのすべてを知っておられる主よ。あなたには隠れたことは何一つありません。どうぞ、私たちの目を開き、あなたの真実な眼差しの中にあることを知らせてください。思い上がった誇りを砕いて、上辺を比べ、自慢し、裁き合う寒々とした思いから救ってください。あなたが私たちに近づき、ともにいてくださいます。ペテロを愛し、深く取り扱われ、用いられた主が、私たちをも新しくし、主の憐れみでともに歩み、心から主を証しする群れとならせてください」

脚注:

[1] マタイの福音書26章35節。

[2] 「山上の説教」では無闇に誓うことを禁じていました。14:7、9とイエスのあり方とは逆のこと。その事もペテロは破ってしまっているのです。ペテロは、二重三重にイエスの弟子としてのあり方を破りました。

[3] 「誓い始めた」、つまり否定し続けたのですから、三度以上、イエスを否定したのです。

[4] マタイの福音書10章33節。

[5] ペテロは、水の上を歩きたがったり(マタイの福音書14章28~29節「するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。29イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。」)、最初のキリスト告白をしたかと思えば(16章16節「シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」」)直ぐに主を諫めては「下がれ、サタン」と窘められたり、(16章22~23節「すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」23しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」)、変貌の山の上でも余計なことを口走ったり(17章4節「そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」」)と、大きく目立って活躍してきたマタイの福音書の脇役です。

[6] イエスは既にペテロがご自分を三度否定することをご存じでした。ですからここで、「どうしてペテロはこんな罪を犯したのか」と分析し、反面教師を捜そうとするよりも大切な事があります。イエスは、ペテロが(また私たちが)何かの時にはご自分を否定してしまう者であることをご存じです。自分ではそんな自分だとは思いたくもなくても、イエスは私たちの弱さ、限界、恐れや過ちを十分ご存じです。それでも尚、私たちを愛しておられるのです。私たちが「私なら否定しない」とか「私だって否定する」も、ここでの読み方としては不十分です。どちらよりも深く、私たちはイエスに知られ、支えられ、恐れなくイエスを証しするものへと変えられる、という招きを聞くのです。

[7] ペテロは呪われたか。呪われてもしかたない。ペテロ自身、「ああ、俺はもう呪われて永遠に過ごすとしても自業自得だ。それしかないのだ」と思ったろう。しかし、イエスは呪わない。その呪いも、ご自身が代わりに背負ってくださったのだ。

[8] この短い箇所には「いっしょに・ともにメタ」が4回も使われます。イエスと一緒にいた、はインマヌエル「神は私たちとともにおられる」(メス・ヘーモーン)と重なる。それをペテロは否定する。偽りの誓いとともにあってしまう。

[9] 主を裏切って罪を犯さず立派に生きるとしても、それを自分の力で出来ていると思うなら、神の前には失われている。主を裏切ることは大罪だが、神の愛よりも自分の行動が神との関係を支えていると思うなら神を小さく考え、引き下げている、根本的な勘違いではないか。「涙ながら」という安っぽい感動体験が必要なのではないが、自分の隠している心をさえ主は知っている、という恐れ多い事実に、人前で涙を見せることなどなかったろうペテロが激しく泣かずにおれなかったような出来事が、私たちと神との関係の根本を現してもいるのだ。幼児のように泣くペテロが、マタイにおいてペテロの名の登場の最後。

[11] 伝説では、これ以降、ペテロは鶏が鳴くのを聞く度に、涙を流さずにはおられなかった、とも言われます。

[12] マタイの福音書18章1節「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」、20章20~28節参照。

[13] 「近づいて」プロセルコマイ マタイで51回繰り返される語。(マルコ5回、ルカ10回、ヨハネ1回に対して)。今日の箇所では、「召使いの女が近づいて来て言った。」とあったのも同じ語です。近づく女に恐れてイエスを否定したペテロに、イエスは離れることなくなお近づいてくださり、派遣してくださいました。

[14] これを知って泣き崩れたペテロの涙は、まだ後悔とか自己嫌悪とか、自己憐憫や陶酔も混じっていたかもしれません。この体験以降、ペテロが完璧になったわけではないことも事実です。後のガラテヤ書でも優柔不断に動いてしまうのです。しかし最後は、ローマで殉教し、逆さ十字架についたと言われるペテロです。

[15] イエスが語られた「神の国」を表す第一の言葉は、「心[霊]の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ五3)」私たちの霊は貧しい。頑張って御言葉に従うキリスト者たちの集まりより、頑張りでは忠実を貫くことなど一歩も出来ない私たちを、主は知っておられる。自分が決してあり得ないと思っていた事態になって、自分も絶対にするはずがないと思っていた裏切りの言葉を口にしてしまって、でも主は最初からそんな事も見通して、語ってくださっていた。自分の弱さなど見せまいと思っていたら、もう主は全部ご存じだった。それは、自分が考えていた世界がひっくり返る、主との出会いです。

[16] 私たちが人に接し、正しい行動を求め、変化を期待し、神も私たちにそうなさるだろうと思い込んでいるのとは全く違う見方で、私たちを深く知り、私たちに関わり、深い所から私たちを変えてくださる。そういうイエスの言葉に、私たちの心は崩れ落ちるのです。

[17] ティム・ケラー『結婚の意味』に「知られずに愛されているのは不安がある。知られて愛されないのは、恐怖だ。しかし、知られて、愛されること。それこそ、神の愛の体験だ」というような一文があります。出典詳細は不明。

[18] 「ペテロが恐れずに立派に信仰を貫いたから-弟子たちが忠実だったから-イエスが近づいてくださった」であれば、その後の教会は全く違った集まりになったでしょう。それはイエスが願う教会でさえありませんでした。

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