聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/2/16 ローマ1:19~25「それは神にはなれません」ニュー・シティ・カテキズム17

2020-02-16 14:30:23 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/2/16 ローマ1:19~25「それは神にはなれません」ニュー・シティ・カテキズム17
 皆さん、聖書の一番初めの言葉は知っていますか?それは
「初めに神が天と地を創造した」
という言葉です。そして、神がこの不思議な世界を、ひとつひとつ丁寧に造られた様子が描かれています。神は天地の創造主です。世界もまだまだ不思議や驚きに満ちていますが、その全てを造って、今も支えている偉大な神を聖書は語っています。
ローマ1:20神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる…
 神の永遠の力と神性は…被造物を通して知られ、はっきりと認められる。でも、その神を否定する人たちが大勢いる。それが、このローマ書で書かれている状態です。
1:21彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
 偉大な創造主の神を神とせずに、他のものを神にしてしまう。世界よりも大きな神に替えて、人間や鳥、獣、這うものを神として崇める。香川に金比羅山がありますが、金比羅とはクンピーラという鰐(ワニ)の神だそうです。這うものを神にしたものです。他にも、日本でも聖書の書かれた地中海一帯でも、色々なものが「神」として拝まれています。世界よりも大きな神がおられるのに、その神を捨てて、世界の中の何かを神にして拝んでいるのです。人間は、何かしら、神がいなければ生きていけないものなのですね。
第十七問 偶像礼拝とは何ですか? 答 偶像礼拝とは創造主ではなく、造られたものに私たちの希望と幸福、人生の意義と安定のために信頼することです。
 先週、罪とは、神に背を向けること、神との関係を壊すことだとお話ししました。それは言い換えれば偶像礼拝なのです。人が、世界の創造主である神を礼拝する代わりに、違うものを神としているなら、それは偶像礼拝です。そして、神に背を向けた人間は皆、神以外の何かを神にしたり、拝んだり、自分に希望や幸福、人生の意義や安定を与えてくれるものとして縋らずにはおれなくなるのです。
 それは鰐のクンピーラのような形を取ったり、石や木の神、何かの宗教の形を取ることもあります。それは、ハッキリした偶像礼拝です。また、迷信や占いや運命を信じるというのも「偶像崇拝」になります。聖書は、そのような霊的なものに信頼して生きることを厳しく禁じています。それは、私たちを守るためです。しかしそういう偶像礼拝だけではありません。「造られたもの」に希望、幸せ、意義、安心を求めて信頼しようとするなら、それは全てその人にとっての神、つまり偶像なのです。
 たとえば、お金。お金は便利な道具ですが、お金が自分にとっての神のように心を占めてしまうことがあります。
 或いは、仕事。仕事そのものは大切ですが、仕事の成功ややり甲斐、出世や評価が自分にとっての神になってしまうなら、それは偶像礼拝です。私は、牧師という仕事や、教会の活動、集会が順調に行くか、どれだけの人が集まったか、ということを偶像にしてしまいかねません。
 或いは、遊びや趣味。楽しみも神さまが下さった、たくさんの祝福の一つですが、それ自体が自分の心の中心になってしまうなら、それも偶像礼拝ですね。「アイドル」という言葉は、文字通り「偶像」です。趣味そのものは神からの祝福ですが、それを神や偶像にしてしまうちぐはぐが怒るのです。
 他にも、自分の健康や若さ、恋人、家族、子ども、どんなものも偶像(神)になり得るし、なっています。
 お金でも仕事でも、趣味や家族でも、それが偶像になってしまうと、私たちはいつもそのことばかりを考えてしまいます。それを失うことを恐れて、人を傷つけたり、嘘をついたり、時間も力も大事なことも犠牲に捧げるようになります。理不尽な要求も受け入れて、犯罪や不道徳なことをするかもしれません。そして、それを失うぐらいなら、命を絶ってしまう悲劇さえ起こるのです。勿論、本当の神だけを神にしているなら、そんな絶望には終わりません。私たちが神を失わないために、犠牲を払う必要は決してありません。神ではないものを神にするから、私たちが犠牲を払わなければならなくなり、しかも、どんなに犠牲を払っても、それは決して深い希望や幸せや、人生の意味や安定をくれることは出来ません。神になれるのは神だけです。神以外のどんなものも、それは神にはなれないのです。なぜならそれは神ではないからです。
偶像崇拝とは何でしょう。
高速を走っている時に考えているもの
寝る前に心配しているもの
慰めを求めてしまうもの
将来それなしでは生きられないと思っているもの
それを失えば自分には何もないと思っているもの
それがあれば世界の中心になると思っているもの
それを持っている人たちをあなたが憧れているもの
持っていない人たちを見下しているもの
それをくれる人の言いなりになるもの
それを遠ざける人には激怒するもの
その要求には服従するもの
それを満たさなければあなたは乾ききってしまうもの
あなたを見ることも聞くことも返事も出来ないものなのに、あなたはそれに似てしまうもの
あなたはそれを思わずにはおれないもの
あなたを愛してなどいないのに、あなたはそれを必要として止まないもの
・・・
それが偶像です。

1:24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。25彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン
 神は、そのような人間の偶像崇拝を罰したり邪魔したりはしません。むしろ、その欲望に引き渡されました。このローマ人への手紙の1章後半には
「引き渡す」
という言葉が三度出て来ます。神は、偶像崇拝を禍に変えるのではなく、偶像崇拝に引き渡される。したいままにさせる。それが、神の最善の裁きです。人が神以外のものを神とした結果、失望や不幸、虚しさや不安に底着く。それは、神の裁きであると同時に、それこそ本人が望んだことなのですね。いいえ、誰かのことではなく、私たち自身が常に、イエス・キリストを礼拝しながらも、違うものを神にしてしまう危うい者です。そして、いつのまにか神を信頼するよりも、神が下さったものを偶像にしていたことに気づかされては、どうにかしてその事に気づかされ、神に立ち返り、神以外のものを神としてきたことも、そのために、人を傷つけたり裏切ったり、自分の人生を無駄遣いし、神を忘れて酷い侮辱をしてきた罪を認めて、告白するのです。そして、神はその私たちの悔いる告白を受け入れ、赦しを与え、また立ち上がらせてくださいます。こんな神は、他にいません。
 神はすべてを造った恵み深い神です。すべての良いもの、仕事も楽しみも、人も私たち自身も神の賜物です。しかしそれは神ではありません。楽しむときも失う時も、それを一時、惜しみなく贈ってくださった神に感謝しましょう。そして、いつも神に希望と幸福、人生の意義と安定を信頼しましょう。主だけを礼拝し、ワクワクと喜びましょう。

「創造主なる神よ、被造物を崇める私たちをお赦しください。どのような人も物も私たちの希望や信仰の対象にはなり得ません。主よ、あなただけが自ら存在される神であり、あなたには足りないものがありません。どうかあなたが私たちの全てとなりますように」
Hello. I am an idol.
Don’t be afraid, it’s just me. I notice you’re turned off by my name: “Idol.”
It’s okay. I get that a lot.
Allow me to rename myself.
I’m your family.
Your bank account.
Your sex life.
The people who accept you.
Your career.
Your self-image.
Your ideal spouse.
Your law-keeping.
I’m whatever you want me to be.
I’m what you think about while you drive on the freeway.
I’m your anxiety when you lay your head on the pillow.
I’m where you turn when you need comfort.
I’m what your future cannot live without.
When you lose me, you’re nothing.
When you have me, you’re the center of existence.
You look up to those who have me.
You look down on those who don’t.
You’re controlled by those who offer me.
You’re furious at those who keep you from me.
When I make a suggestion to you, you’re compelled.
When you cannot gratify me, I consume you.
No—I cannot see you, or hear you, or speak back to you.
But that’s what you like about me.
No—I am never quite what you think I am.
But that’s why you keep coming back.
And no—I don’t love you.
But I’m there for you, whenever you need me.
What am I?
I think you know by now.
You tell me.
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