2020/2/16 マタイ伝6章9~11節「日毎の糧を今日も」
主の祈りの後半、
「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」
に入ります。「日用の糧」を「日曜日の食事だと思っていた」とは、よくある笑い話ですが、しかし、イエスが「特別な必要」でなく「毎日の食事」を祈らせているのは、改めて驚くべきことです。原文では最初に「糧」という言葉が来ます。直訳すれば
「パン」
です。「パンを!」と叫ぶなんて、品がないと思いませんか。イエスは、そのような祈りを教えてくださいました。私たちが今日も、パンかご飯かを口にしている。それは「天にいます父」が糧を与え、養い、生かしているからです。
この祈りの直前、8節には、
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」
と言われていました。この後も25節以下で
「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり…するのはやめなさい。…あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」
と語られます。私たちは心の底で、生きていけるか心配がある。イエスの頃よりも遥かに豊かな社会になり、今の日本で飢え死にする心配は大幅に減りましたが、昨今は貧困問題も深刻で、厳しい生活の人も大勢います。そんな貧困とは無縁でも、何かあると「そんなことでは食っていけない」と言われます。「生きていけないんじゃないか」という心配は、今も根強くあります。イエスは私たちに染みついた深い心配をご存じで、その心配と心配の間に
「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」
と祈るよう教えられたのです。この祈りは、食事が当たり前ではない事を気づかせます。パンもご飯も野菜も肉もお菓子も、天の父からの糧です。「あって当たり前」でなく、神によって養われて、今ここにいる、そう思えて、ホッと息をつくことが出来ます。勿論、それで心配がなくなる訳ではないでしょう。でも、パンを下さる神は私たちに必要なものを全てご存じです。パンだけでなく、他の必要も神はご存じで、備えてくださいます。
ここで、
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」
という御言葉を思い出すことも出来ましょう[1]。人は、パンや食事だけで生きる動物ではなく、神の言葉で生きている。それは聖書の御言葉、という意味でもあります[2]。そして、聖書が語っているのは、この世界を最初から神が言葉を語って造られた、という御業です。この世界に、太陽を照らし、雨を注ぎ、稲や麦や野菜を生えさせ、パンが焼ける仕組み…私たちが食事が出来る営みがすべて、神の御業です。また、御言葉は私たちに慰めや戒めや律法をくれます。その言葉によって私たちは生きていくことが出来ます。また、御言葉そのものが人の必要を汲み取っています。
「人がひとりで生きるのはよくない」
と家族や友情、コミュニティの必要です。また、神はご自分に背いた人間にも、皮の衣を着せてくださいました。罪を犯さずにはおれない人は、赦しと愛を必要としています。他にも人の必要は沢山あります。
自分が誰とも違うもの、自分らしさ、個性が認められること
励ましや分かってもらうこと
睡眠や安息日
安心
ユーモア・・・
人は沢山の必要を持つ、複雑でデリケートな存在です。来月、東日本大震災から9年です。大災害に関して「サバイバーズギルト」という言葉が言われます。多くの人が亡くなった中、生き延びた方が抱く罪責感です。端から「生き残って良かったね」と言われても、本人が自分だけが生き残っている事に罪悪感を覚える。生き続けることさえ出来なくないことがあります。「命を絶つ」という行為は、人が何とかして生きたい思いと、生きているだけでは満たされない、生き甲斐とか意味とか、いくつもの必要も持っているからでしょう。「生きているだけでいい」とも言いますが、「生きているだけでいいよ」「あなたがいてくれることが嬉しいよ」と優しく言ってくれる人たちが必要なのです。「日毎の糧」を祈る時、天の父が、私たち人間を、沢山の必要によって支えられる者としてお造りくださって、その必要すべてをご存じであることを覚えて、生かされている恵みに驚くのです[3]。
ともすると、ここまでの祈りは神のための祈り、「日毎の糧」からがやっと私たちのための祈り、正直ホッとするという思いがあるかも知れません。しかし、聖なる御名の、王なる神が、私たちに日毎の糧を下さっていることは、別々のことではありません。私たちが、神が日毎に自分の必要を満たしていることに驚き、感謝することこそ、御名を聖とすることでしょう[4]。この後も、五つのパンと二匹の魚で五千人を養う奇蹟(これは、四つの福音書が四つとも伝えている唯一の奇蹟です)によって、イエスは天の父の養いをハッキリと示しました[5]。更に公生涯の締めくくりに聖餐を定めて、パンを
「これはわたしのからだです」
と仰いました。パンに託して、ご自分の十字架による命を覚えさせました。そこに結ばれていくのが、主の祈りの「日毎の糧(パン)を」の祈りです。天の父は、私たちにあらゆる必要を与え、私たちの身体も魂も養い、後に世界中の主の民とともに囲む食卓へと招いてくださっています。その喜びや、身体も心も養われる食卓が、今ここでも始まるのです。聖餐において、パンと杯を頂くとき、「パンを聖別して下さい」と祈りますが、それで聖餐のパンだけが特別に聖なるものとなるのではありません。私たちの毎日のパンもまた、聖別されうる、聖別されることを待っている神のパンであり、やがて神が私たちを聖なる永遠の御国の食卓に連ならせてくださって、一緒に食事をする。無条件の恵みに与らせてくださる。その事をイエスはこの祈りで既に覚えさせています。
この祈りは
「私たちの日毎の糧を」
と祈ります。「私たち」には、自分たちだけではなく、イエスが呼び集めてくださる世界中の人たちが含まれます。諄(くど)くなるからでしょう、訳されていませんが、丁寧に訳すなら
「私たちの日毎の糧を、私たちに今日もお与えください」
という祈りです。自分の糧だけが与えられるのではなく、その世界中の人たちの糧も祈ります。私たちそれぞれの分の糧を、私たちそれぞれに。人の分まで取りませんように、という祈りです[6]。これは特に、私たちが食いっぱぐれる心配はあまりなく、むしろ、世界の貧富の格差の中で富んでいる側にいることを覚える時に、大事な意識です。自分の分で満足すること、満ち足りることなく「もっともっと」「もう少し、あれもなければ」と煽り立てて来る文化の中で、私たちが満足することを覚えて、貧しく飢えた人に心を留める心を持つよう、主イエスは囁いています。つまり、自分のための食事だけで満足してそれ以上を求めない、という禁欲や清貧よりももっと積極的です。私たちが他の人も同じように養われる必要があることに思いを向ける愛を養いたいのです。食事が満足に出来ない民族が世界には大勢いて、その飢餓の解決のために働いているキリスト者がいます。しかし彼らの働きは飢えている人に食べ物を与える(恵む)だけではありません。受けるだけの惨めな存在とせず、働く意味、働く喜び、互いに助け合い、神が下さった命の喜びを思い描くよう働いています。それこそ命を養う糧だからです。
私たちの周りの全ての人が、パンだけでなく、愛されること、働きを認められること、休息、話を聞いてもらうこと、ほっといてもらう事、笑うこと、要するに人として扱われる様々な必要を抱えています。私たち自身、自分を、主の豊かな養いに生かされる事実を十分味わいましょう[7]。食事を感謝し、御言葉から、神がどんなに豊かに私たちを養い、もてなし、楽しませ、生かして下さっているか、どれほど多くの人から支えられているか、を気づかされて驚くなら、神を誉め称えずにおれません。それが更に、他の人たちも、どれほど多くの養いを必要としているか、深い思いやりを持つ心を持つ。そう養われたいと願います。そのためにイエスは簡単な、しかし素晴らしい道を備えてくださいました。それが
「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」
の祈りです。この祈りをゆっくり味わい、
養って下さる天の父を思いましょう。
自分の必要や渇きを思い、生かされている恵みに驚きましょう。
すべての人をも、この養いを必要とする人と見るようになる。
この祈りで、私たちは変わっていくのです。
「日毎の糧を今日もお与えくださる父よ。あなたがすべての必要を備えてくださって、私たちが今ここにあることを覚えて感謝します。どれほど多くの恵みによって満たされ、支えられているかを知って驚き、あなたの御名を誉め称えます。どうぞ、感謝し満ち足りることから、私たちが分かち合い、思いやり、あなたの御心を持つ者となるよう、私たちを養ってください」
[1] マタイ4:4、申命記8:3。
[2] たとえば、詩篇119篇50節「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに あなたのみことばは私を生かします。」など。
[3] ウェストミンスター小教理問答問104「第四の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。答 第四の祈願、すなわち「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」で私たちは、神の無償の賜物の中から私たちが、この世の良きものをふさわしい分だけ受け、それらをもって神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります。」 ハイデルベルグ信仰問答問125「第四の願いは何ですか。 答 「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」です。すなわち、わたしたちに肉体的な必要のすべてを備えてください、それによって、わたしたちが、あなたこそよきものすべての唯一の源であられること、また、わたしたちの心配りや動きもあなたの賜物でさえも、あなたの祝福なしにはわたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです。」
[4] 御名が聖なるものとされ、御国が来、御心が行われるという願いの中で、初めて私たちは、自分が日毎の糧を与えられていることが、なんと深い意味があるかを知るとも言えるでしょう。また、その聖なる御名の神が、私たちに下さっている日毎の糧が、パンもご飯も、聖なる糧であるし、その聖なる糧を頂いている私たちの命や存在も聖なるもの、神の栄光を現すために生かされている自分だと気づくのです。
[5] マタイ14章13~21節。
[6] 箴言30章7-9節「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。8むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。9私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」
[7] 「神は、必要最低限の食事と御言葉だけを下さっているのだから感謝すべきだ」と、非常に狭く貧しく、ケチな神理解や信仰理解で生きる道もあります。
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