2019/12/1 出エジプト記20章1~17節「十戒はいのちの道」ニュー・シティ・カテキズム8
この世界は、神によって造られた世界で、私たちはその神によって、神の栄光を現すために造られた存在です。では、どうすることが神の栄光を現すか、というと、神が私たちの望んでいることに従うことによります。神が私たちに要求していることの中心は、私たちが神を愛し、隣人を自分のように愛すること、この二つの愛に要約されます。神を愛し、隣人を自分のように愛する。聖書の命令の中心には、この二つの愛が、切り離せないこととして教えられています。イエスはこの二つを、最も重要な戒めだと仰いました。更に、聖書には、この神の律法の要約があります。それが十戒です。
第八問 十戒に記されている神の律法とは何ですか?
答 わたしの他に他の神々があってはならない。あなたは自分の為に偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。あなたの父と母を敬え。殺してはならない、姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人のものをほしがってはならない。
ここにはちょうど十の戒めが書かれています。それでこれを「十戒」と呼びます。これは、旧約聖書の2巻目、出エジプト記で、エジプトの奴隷生活から救い出したイスラエルの民に与えた言葉です。ニュー・シティ・カテキズムの前に使っていた「はじめての教理問答」でも十戒のお話しをしました。それも、最後の方でしたから、「また十戒なの?」と思っている人もいるかもしれません。今までの教理問答はどれも、十戒を最後の方で扱います。それは、私たちが十戒を守ることによって救われるのではないことを強調するためです。十戒よりも、イエスの救いについてお話ししたかったのです。でも、今回は先の十戒を取り上げます。それは、十戒が救いよりも大事だからではなく、十戒が分かることでもっと救いが分かるためだと思います。神様が、わたしたちにどんなことを求めているのか。わたしたちがどのように生きる事が、神の栄光を現すことなのか。神が私たち人間を作られた時に、どんな生き方を考えていたのか。言い換えれば、十戒は、私たち人間の、本来の生き方を教えてくれるのです。
ここには神が人間に求めている生き方が十の戒めにまとめられています。前半の四つ、
「わたしの他にほかの神々があってはならない。偶像を作ってはならない。主の御名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」
は、
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
という事を具体的に言い換えています。後半の六つ、
「あなたの父と母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、隣人のものを欲しがってはならない」
は
「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」
を、具体的に教えています。これらを来週から、何回かに分けてお話しします。十戒は、私たちに、人間としての生き方を教えてくれます。私たちが十戒を守らなければならないのではありません。十戒が、私たちの生き方を守ってくれます。十戒を通して、私たちが守られるのです。
十戒があることで、私たちは神以外のものを神にしていることに気づきます。他の宗教や、なにか神ならざるものを神にしていることがある。神は見えないお方なのに、偶像や見える形を求めてしまっている。殺してはならない、姦淫してはならない、ということもそうです。イエスは私たちに「十戒を守らなくてもいい」と仰いませんでした。むしろ、心の中でも人を馬鹿にしたり、罵ったり、自分の結婚相手以外の人を心の中で自分のものにして弄ぶ罪を禁じました。盗まない、ウソをつかない、人の物を欲しがらない。…このルールによって、私たちはハッとさせられて、事故から守られるのです。十戒という命の道によって、私たちの人生が守られるのです。十戒は、私たちを守ってくれます。十戒は、私たちの生活を、命の道に守ってくれる、大切な言葉なのです。
でも、偶像を作らないことで、教会に来ても見える形がないのを、キリスト教の分かり難さだと言われることがあります。仏壇や神棚があったほうが、目に見えて分かりやすいとは言えます。先週、日本にローマ教皇が来て、沢山のカトリックの方が集まって、アイドルみたいでした。アイドルって、偶像って意味なのですよ。だから、鳴門キリスト教会には、アイドルはいません。何を信じているのって言われて、見せられるものはありません。でも、私たちが差し出せるものがあります。それが、この「十戒」と、夕拝でも毎週一緒に祈る「主の祈り」と、三位一体の神への信仰を告白する「使徒信条」です。
三つを合わせて「三要文」と呼びます。私たちは、この三つを持っています。誰かに「クリスチャンって何を信じているの? 教会ってどんなことを教えているの?」と聞かれたら、十戒と主の祈りと使徒信条を言って下さい。私たちが信じているのはこんなことだよって、十戒を教えてあげてください。そしたら、また違う質問が来て、うまく答えられないかも知れません。それでも、神様が私たちに示して下さっているのは、こういう生き方なんだ、と伝える事にはなるのです。私たちは、神が私たちに求めているのが、神だけを神とすること、安息日を休むこと、父と母を敬うこと、殺したり姦淫したり盗んだりウソをついたりしない生き方…言い換えれば、神を愛し、人を愛する生き方だと、伝えることが出来ます。神を愛し、人を愛する。
でもそれだけではありません。十戒という戒めが、キリスト教の全てではありません。十戒とともに、使徒信条や主の祈りの三つで「三要文」なのです。「ニュー・シティ・カテキズム」では、十戒を学んだ後に、イエス・キリストのこと、そして祈りのことが触れられます。神が下さったのは、十戒と、三位一体の神への信仰告白と、祈りです。私たちは、三位一体の神様を信頼し、その神に祈るのです。そして、その神が下さっている、人としての生き方を十戒によって教えられていくのです。そして、神は私たちが心から十戒に従って生きていけるよう、私たちを教え、育て、励ましてくださる方です。
「聖なる神よ。あなたは、あなたの律法を与えることによって、あなたの民に、あなたの愛を現してくださいました。どうか私たちがいつもあなたの律法に感謝するよう助けてください。あなたは私たちが、義の道をどう歩むか分からないままにはなさいません。私たちを助けて、あなたの十戒を守ることであなたの栄光を現させてください」
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