2019/12/8 マタイ伝5章27~37節「髪の毛一本さえ」
アドベントに入っても、マタイの講解説教を続けています。アドベントを意識することで「山上の説教」の意味がより立体的になります。今日の所も
「姦淫してはならない。離婚をしてはならない」
も、マタイ福音書の最初の出来事を手がかりにして読み直すことが出来ます。イエスの母マリアはヨセフと婚約していましたが、二人が一緒になる前に、聖霊によってイエスを身籠もった。ヨセフは、婚約者マリアが自分の子ならぬ子を宿したと知って、マリアを「離縁」しようとしました。が、御使いがヨセフの夢に現れ、恐れずにマリアを迎えよ、と離縁を思い止まらせたのです。しかし、狭いナザレの村では、イエスがヨセフの血を引いた子ではない事実は公然の秘密だったようで、後に
「この人は…マリアの子…ではないか」
と言われます[1]。「ヨセフの子」と呼ぶのが通例なのに、
「マリアの子」
と呼ばれる。イエスがヨセフの実の子ではないと揶揄されていたことを臭わせています。イエスは、「不義の子」とかシングルマザーの子と後ろ指を指される道から踏み出されました。そしてその生涯では、罪人や遊女に福音を語り、姦淫の女と蔑まれた女性たちにも分け隔てなく接してくださったのです。イエスは、姦淫の女の友や、不品行の子どもと呼ばれた方なのです。[2]
この事を思うと、今日の箇所は、イエスの道徳の高潔さ、心の中で性的な考えを抱くことさえ罪とされた、という意味ではなさそうです。「性欲は思うだけでも罪だ」とか「まして、実際に性欲を満たすことは罪だ」とか、セックスに関わる事件は恥ずかしいし、汚らわしい、と考えるのは、イエスの態度ではないのです。マタイ5章では、前回も見たように、当時の宗教家たちの理解、
「律法学者やパリサイ人の義」
への批判として、神の義が語られています。この27節以下では
「姦淫してはならない」
が、実際に姦淫行為をしていなければいい、という理解だったことを問題にしています。特に31節に続くように
「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」[3]
-妻を離婚したくなったら離縁状を出せばいい、好んだ女性が誰かの妻であったなら、離婚させてそれから自分と再婚すればいい。あるラビなどは「どこかで美女と結婚して関係を楽しんだら、一日で離婚して戻ってきたい」とシャアシャアと言ってのけたそうです[4]。そういう実に身勝手な考えに対して、イエスは
「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」
と言いました[5]。自分は姦淫という行為の罪はないとふんぞり返って、心でも実生活でも、女性をぞんざいに扱っている。神が定めた結婚や尊い性を蔑んでいる、そのあなたこそ、神の定めを踏みにじって姦淫を犯している、と言われたのです。
28節の
「情欲を抱いて」
は、性欲に限らない、強い欲望です。しかも、必ずしも悪い意味ではありません。13章17節では、預言者たちがイエスの御業を見ることを切に願っていた、とある同じ語です[6]。性欲は、食欲や生存欲求と同じで、悪いものでも汚れてもいません。むしろ、神が人間に下さった祝福です。この28節で言われているのは、性欲のことよりも、心の中で女性を強い欲望の対象とする、つまり心の中で支配したり弄んだりすることです。それは必ずしも性的な妄想とは限りません。相手を(人の妻、姦淫の過去のある女性、自分の妻、だれであろうと)自分の欲望の下に弄ぶ。先週も触れたように、この「山上の説教」では神の御心(律法)がテーマですが、終盤の7章12節で
「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」
と明言されます。人を自分と同じように人として大事に扱う。異性に対する、無条件の尊厳を自分のうちに持つ。その大事に扱う尊厳ある人間を、心の中の想像ででも、欲望の対象にしてはならない。自分の方が正しい、男性の方が優っている。それが、既に姦淫です。「右の手」が象徴する正しさこそは失わなければ自分が滅びる、と強烈な教えなのです。
聖書以外の文化にも「心の姦淫」という倫理を謳うものはあるそうです。しかし、その場合、性欲は罪で俗悪な煩悩とされます。もし魅力的な女性が現れて、心に妄想が引き起こされると、それは「その女性が誘惑の元凶だ、女は魔物だ」と男尊女卑を強化するのです。それは更に、「女を支配しよう、押さえつけよう」という事にさえなります。イエスは違います。異性であれ、誰であれ、自分のように大事にしなさい。心でさえ、女性を欲望の対象にしてはならない。誰をも自分の支配下に置いてはならない。好き勝手に離縁したり離縁させたりしてはならない、かけがえのない存在として扱え、ということです。「性は汚らわしいから、性的なことが罪」なのではなく、性はあまりにも聖いから、大事だから、生涯の誓いをもって一対一の関係でしか分かち合えないデリケートなものだから、軽々しくもてあそぶことが罪なのです。だからイエスは、不品行の現場で捕らえられた女性の名誉も守り、特別な配慮をもって励まされました。イエスの言葉は、離婚されたり、性的な罪を犯したり、性を商売にしたり、シングルマザーになって、生きづらい思いをしている人には、慰めに満ちた言葉です。徳島新聞で「性暴力」について連載記事があります。レイプに対する誤解や、被害者が自分を「汚れてしまった」と考える苦しみ、加害者の動機が性欲よりも支配欲や歪んだ価値観であることが綴られています[7]。本当に痛ましい事実に対して、イエスは、どんな人も決して汚れてはいないし、心や噂話でも弄ばれて汚されていい人などいない。もし心で誰かを貶めるなら、その人自身の姦淫だと強く仰っているのです。
続いて33節以下
「偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ」
と「誓い」の問題が取り上げられます。これも誓約自体を禁じているのではなく、主に誓ったら果たさなければならないけれど、天にかけてならいい、地に賭けてなら、エルサレムに賭けてなら、破ってもいい、という本末転倒な誓約が罷り通っていたことが取り上げられているのです。最初から破れるよう、後から不利にならないよう、逃げ道を用意している。そういう在り方は今日でもあります。そもそも嘘やハッタリやその場凌ぎの言葉を人が使わなければ、誓約など必要なかったはずです。ですからイエスは
「37あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」
と仰るのです。はいをはい、いいえをいいえとする。当たり前のようですが、あったことをなかったかのようにしたり、なかったことをあったかのように言うことを私たちはやらかしがちです。
しかしイエスは仰います。
「あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのです」。
白髪を黒く塗ることは出来るじゃないか、とは言えません。この当時も白髪染めはあったそうです。しかし、それは塗るだけです。私たちは髪が白くなることも、老いることも留められません。まして、人の過去や身の回りの事実を変えることは出来ません。嘘や噂話や、心の中の妄想で、神のご存じである事実を塗り替えることは出来ません。しかし、その神を忘れて、言葉や心で他者を踏みつけてしまう。自分の髪の毛一本さえ白くも黒くも出来ない人間が、白を黒と言い、黒を白と言い、心の中で人を踏みつけています[8]。神が創造された性や、生涯にわたる筈の結婚関係を、弄んだり歪めたりしている。でも、そういう私たちの思いも心も、事実もウソも、裏も表も全部、神はご存じです。その神がなお、人を尊び、どんな罪やどんな暴力によって虐げられた人でも、決して貶めてはならないと仰る。その方の前で、私たちは真実を語るのです。
そのためにイエスは、自らが卑しい歩みをなさいました。イエスが人となったのは、人が貶められ、結婚が壊れ、誓約が軽々しくされているどん底にでした。マリアの「訳ありの連れ子」と見られる始まりをし、遊女や取税人の友となりました。不品行の女たちの希望となり、5回も離婚された女性と親しく話して彼女を変えました[9]。人には自分の髪の毛の色さえ変えられませんが、イエスは何でも出来る王です。負いきれない過去をもった人たちをも神の子どもとして変えました。性の悩みも受け止め、心の中の支配欲や劣等感をも解放して、私たち自身も誰をも、貶められてはならない、と解放の強い言葉を語りました。そして、そのイエスの言葉には、決して偽りはありません。そのイエスが私たちの心に来てくださった。人を尊ぶ思いを育て、誰をも貶めず、命を喜ぶ言葉を語らせて下さることを、強く強く願わされるのです。
「主イエスよ。私たちが心においてでも、あなたが愛し尊ぶ人を、自分のように尊ぶよう変えてください。自分の髪の毛一本さえ白くも黒くも出来ない、という事実に、自分の小ささを弁えます。あなたが私たちを生かし、禍を恵みに、悲しみを癒やしに、罪人を神の子どもに変えてくださるのです。私たちのうちに、御言葉が宿り、形作られ、恵みの器とならせてください」
[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] イエスご自身が、シングルマザー、父なし子と見なされるようなスキャンダルの場に立った。クリスマスは処女降誕という面もあるが、マリアが白い目で見られること、女性の蔑視の立場に立たれたのも事実。徳島バプテスト教会がこんなコメントを載せています。「明日からアドベント(待降節)が始まります。救い主誕生の知らせが多くの人に届きますように。その喜びの意味を共に味わい祝うことができますように。明日はマリアの受胎告知について考えます。予期せぬ妊娠はいつの時代も女性の人生を狂わせます。現在日本では毎年16万人以上の人が中絶をしています。中絶は母親の心身を深く傷付けます。でも、中絶を選ばざるを得ない人が毎年こんなにたくさん居る...。「おめでとう恵まれた方」この言葉を素直に受け取れない女性たちの苦しみに、主が寄り添ってくださり、「その子はわたしの子だよ」と言ってくださる神の言葉に慰めを、子どもを生み育てる励ましを受け取っていきたいと思います。」徳島キリスト教会、2019年11月30日投稿。
[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] 榊原康夫『マタイ福音書講解 上』
[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] 「情欲」エピスミア。マタイ13:17「まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。」その他、ルカ15:16「彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。」(16:21も)、17:22「イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。」、22:15 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。」、使徒20:33「私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。」(ローマ7:7、13:9、Ⅰコリント10:6、ガラテヤ5:17)、Ⅰテモテ3:1「次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」、ヘブル6:11「私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、」、ヤコブ4:2「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。」、Ⅰペテロ1:12「彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。」、ヨハネの黙示録9:6「その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。」
[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] 自分の頭に賭けて誓うなんてことは、実にたわいもないことだから、いざとなれば、髪の毛ぐらい剃ればいい、と思ったのかもしれない。「三日坊主」とはまさに、頭を剃って、坊主になる決意をしても、三日で決意を翻すことを指したらしい。しかし、そのあなたが白くも黒くもできない髪の毛は、どうでもいいものではなく、主なる神のものだ。自分が白くも黒くもできない身の程を弁えて、真実を語れ。神の前に語っていることを知れ。あなたの心の奥の狡さも、支配欲も知っている神の前に、はい、いいえ、とのみ語れ。それ以上のことをしようとするなら、それは悪い者からの行為だ、と言われている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます