2017/7/23 ハ信仰問答78-9「確かに私たちのもの」ヨハネ6章53~58節
今日も、主イエス・キリストが私たちのために、定めてくださった「主の聖晩餐」を学びましょう。これこそ、イエス・キリストの十字架によって与えられる「福音」を、私たちが最もハッキリと知るための方法なのです。長いですが、二問を見ます。
問78 それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
答 いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるのでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証に過ぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の様式と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。
何度もお話しして来たように、中世の教会では、パンとブドウ酒が、本当にキリストの肉やキリストの血になる、という考え方をしていました。それが迷信になり、また、逆にパンやブドウ酒そのものを有り難がったり、拝んだり、恭しく扱ったりするような脱線にもなっていました。これを否定したプロテスタントの中でも、マルチン・ルターは「パンはパンのままだけれど、その中に、上に、キリストが本当におられるのだ」というこだわりをしました。それに対して、「パンもブドウ酒もただのしるしだ。聖餐式そのものが、ただの記念の儀式で、特別な恵みなどない」と割り切るプロテスタントの教会もありました。でも、ハイデルベルグ信仰問答はそうも言いません。今まで見てきたように、この食事の恵みを繰り返して強調して、ここでパンとブドウ酒がキリストの体と血に変わるのか、と誤解されることを想定するくらい、大切にその意味を歌い上げてきたのでした。そして、ここで改めて確認します。
問79 それではなぜ、キリストはパンを御自分の体、杯を御自分の血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロはイエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。
答 キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のためにわたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちがこれらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、わたしたちが聖霊のお働きによってこの方のまことの体と血とにあずかっていること、そして、あたかもわたしたち自身が自分の身において一切を苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされていることを、この方は、この目に見えるしるしと担保を通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです。
最後に「この目に見えるしるしと担保」とあります。聖餐はしるしであり、担保です。
…十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のためにわたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるという…
「しるし」である。もうこれは今まで何度もお話しして来た通りです。これからも何度も繰り返して私たちは、このキリストの十字架の御業を聴き、ここに立ち続けるでしょう。キリストの十字架の死が、本当に私たちの魂を養い、潤して永遠のいのちにまで確実に至らせてくれる。そのしるしとして、パンと杯を、キリストの体と血としていただくのだ、というのです。
そして、もう一面として「担保」と言われます。担保とは保証という事です。何かの約束を保証するために、別のものをあてがうのです。ここでは、
…わたしたちが聖霊のお働きによってこの方のまことの体と血とにあずかっていること、そして、あたかもわたしたち自身が自分の身において一切を苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされていること…
その担保として、主の聖晩餐という儀式で、確約して下さっているのだ、ということです。言葉だけで信じろ、というのではなく、本当にそうだ、嘘偽りなく確かな約束だと示すのが、パンとブドウ酒をいただくことなのです。
ヨハネ六53イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
イエスはこの言葉を、五つのパンと二匹の魚の奇蹟の後に仰いました。イエスはパンと魚で人々をもてなされつつ、そこにはイエス御自身に深く繋がりなさい、というメッセージがあったのです。決して、御自身の肉や血を与えられたのではありません。イエスからパンや魚を頂くという行為そのものが、イエスとの関係を表しました。聖餐もそうです。パンが本当にイエスの肉で杯がイエスの血かどうか、という考えではなく、イエスがこのパンを食べ、杯から飲みなさいと仰った事を恵みとして戴くのです。イエスが私たちと、切っても切り離せない関係を下さる。本当にキリストが私たちのために苦しんでくださった。そればかりか、そのキリストの苦しみや従順を、私たちのものだとさえ言える。その事を、このパンとブドウ酒を頂く聖晩餐が確約してくれているのです。
この事を無視して、ただ聖餐だけで御利益があるとか、パンやブドウ酒に特別な力があると考える迷信を、改革派教会は断固として退けてきました。迷信的に敬う余り、パンを礼拝し、信徒に杯は飲ませない、といった本末転倒が起きたからです。でも、そんな誤解をも覚悟の上で、主イエスはパンや杯に託して福音を味わわせてくださいました。パンや杯を迷信化するのは間違いでも、イエスの肉や血に与るなんて、それこそはまさしく恐れ多いことです。とんでもない話です。でも、イエスは
「わたしを食べ、飲みなさい」
と仰るのです。そういう聖餐を大事にし、福音の恵みをますます感謝して、恭しい思いを持ちたいと思います。限りない喜びを、溢れる感謝をいただきたいと思います。
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