[1] 羊は寒さに強いが、山羊は苦手。だから、すぐ囲いに入る。羊は、羊飼いとともにいることが大事。これも思い巡らしになるかもしれません。それぞれの行為によって不本意でも分けられる、のではないのです。左の人は、ヤギのように独立・自律を愛し、居心地の良い場所を求めます。右の民は、本来の神との関係を愛し、場所よりも羊飼い(なる主)の側にいることを求めます。私たちが求めているのは、天国という場所としてのパラダイスでしょうか? それとも、主のそばという関係性としての「神の国」でしょうか。
[2] 「羊はかわいらしく、純粋で善良で、神の民のシンボル。山羊は、サタンのシンボルで、ずる賢く性悪だ」というのは、恐らく、この箇所から演繹されて、後代に作られたイメージです。本来は、羊が神の民であるとは、人間の常識からすると逆なのです。https://www.jesusfilm.org/blog-and-stories/parable-sheep-and-goats.html
[3] これを、救いの条件と考えてしまうと、大変な問題が生まれます。「救われたければ、①最も小さい者に親切にして、②かつそれを覚えてはおらず、③最も小さい者にしなかったことがないようにしなければならない、という滅茶苦茶なジレンマで生きることになります。
[4] この言葉は、イザヤ書58章6節以下を踏まえています。つまり、イエスが初めて明らかにした規準ではなく、旧約から一貫した、主の規準です。それが分かるためにも、12節までを引用します。ぜひ、それ以降もひもといてお読みください。「イザヤ書58章6~8節「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。8そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。9そのとき、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると、『わたしはここにいる』と主は言う。もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、10 飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。11主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。12あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。」
[5] この「わたしの兄弟たち」が、一体誰のことを指しているのか、は様々な解釈があります。①ここにいるのは使徒・イエスの弟子だから、「これらの」は使徒、牧師・宣教師であり、ここに描写されているのは、信仰・宣教ゆえの迫害を指している。使徒9:4では、教会への迫害を「わたしを迫害する」と言っておられます。②すべての困窮者・貧者のこと。そこから、社会救済的な働きが奨励されます。トルストイの「靴屋のマルチン」などは、こうした理解で、最後にマタイ25章40節が読み上げられます。③あなたの敵・差別している相手のこと。
しかし、「わたしの兄弟」とは誰かという定義は、ルカ11章の「良きサマリヤ人のたとえ」を引き出した「私の隣人とは誰のことですか」という問いにも通じます。これに対してイエスは、上述のたとえを語り、「だれがこの人の隣人になったと思いますか」と問われました。「わたしの兄弟たち」とは誰か、というよりも、私たちにとって意外な人、最も小さいひとりをも、「わたしの兄弟」とイエスが言われて、「わたしにしたのである」という言葉が驚きであることがポイントです。「だれか」が定まってしまうなら、この最後の時の驚きはなくなってしまうのですから。
[6] 「祝福された人たち」ユーロゲーメノイは、「幸いだマカリオイ」とは違い、良い言葉を言うを原意とする祝福です。英語では、どちらもBlessedですが、もっと積極的です。
[7] ここでも、「わたしにしたのである」と言われた「最も小さい者(飢えた人、旅人、貧者、病人、囚人)」自身は救われないのでしょうか。彼らにしたことはイエスがご自身への行為として受け取るのに、その彼らは厳しい条件のふるいにかけられるとしたら、ほとんど救われない、とはおかしな話ではありませんか。人が良い行いや信仰を持つから救われるのではありませんし、それがないから救われない、ということなら、様々な矛盾が生じてしまいます。
[8] それは、自己嫌悪・自己卑下・罪悪感を抱くことでもありません。羊が弱く、愚かで、依存的なのは、そういうものだからであって、強く賢い動物に変わることを求められているのではないのです。私たちが自分を羊として受け取ることは、劣等感の塊となることではありません。むしろ、生かされている喜び、自分の力を超えた大きな恵みの中に生かされていることに、信頼と自信さえ持たされる事実です。
[9] それは、ここの言葉から言えば、私たちにすることであると同時に、神がご自分への行為として受け取ってくださったことでもあります。
[10] 教会史家シャフは、二世紀の教会について、「なんじの兄弟たちの中に、なんじは主ご自身を見たのだ、と言うのが、はやり文句であった」と言っています。(P. Schaff: History of the Christian Church, ii, p. 374)。榊原康夫『マタイ福音書講解 下』203頁。
[11] イエスを信じれば救われる、信じなければ救われない、というのなら、他の宗教と変わらない。イエスは私たちを救い、虐げられている者の友となり、最も小さい者と一つになりたもうお方だ。そういうお方だから、私たちは信じるのだ。イエスを中心にする世界ではなく、世界の隅々にまでおられるイエスであることを信じるのだ。
[12] 『キリストに従う』(あるいは『服従』、森平太訳、新教出版、1966年)という著作で、ボーンフェーファーがこう言っております。「神の言葉は弱いものであって、人間から軽視され嘲笑されるほどである。御言葉の前にあるのは、頑なな心と、人を閉ざす罪である。御言葉は,自分をつぶしにかかる反抗があるのを認め、そのために苦しむ」(p203)。神の言葉はそういう弱いものなのです。そして、この神学者は続けます。「この御言葉の弱さについて何も知らない弟子は、神の御子が貧しい姿を取られたという秘義を認識することがなかったであろう。人が躓くことを知っていたこの弱い御言葉だけが、罪人を心の奥底から悔い改めさせる強くかつ哀れみに満ちた言葉なのである」(p204)。マラナタ教会「すべての民族をさばく」2019年5月12日説教。 晴佐久昌英神父の説教もユニークでした。https://fukuinnomura.com/?p=8370
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