聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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2021/10/17 マタイ伝25章31~46節「最も小さい者となる神」

2021-10-16 15:55:28 | マタイの福音書講解
2021/10/17 マタイ伝25章31~46節「最も小さい者となる神」

 ここでイエスは弟子たちに「羊と山羊の譬え」として知られる教えを語っています。
31人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。32そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、33羊を自分の右に、やぎを左に置きます。

 羊と山羊に「譬え」てはいますが、「例え話」と言うより、やがての世界の裁きの「現実」が語られています。これは23章からの長い説教を締め括る、とても大事な光景(イラストレーション)です。
 羊と山羊は当時、日中は一緒に飼われていました。見た目も良く似ていて、今ほど区別はなかったようです。しかし、夕方になると羊飼いはより分けます。どうするかと言うと、寒さの苦手な山羊が自分から小屋や囲いの中に入り、羊は羊飼いのそばに留まる。山羊は自分で生きていく強い動物。一人でも大丈夫、立派に生きる野生動物です[1]。羊は逆です。弱くて、近眼で頭も良くなく迷いやすいのです。だから養ってくれる羊飼いの側から離れません。それで分かれるのです。



 羊飼いがより分けるような、山羊が自ら離れていくのでもある。そのようにして人の子(キリスト)はすべての人をより分けます。イエスのそばの右の人と、自分でも立派に生きてきた、愚かな羊なんかと一緒にされたくないと思っている左の人に分かれるのです[2]。

34それから王は右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい…。

 こう言われる、右の人々は、羊のように自分だけでは生きていけない人、羊飼いなるキリストを頼る人です。「心の貧しい人」「医者を必要とする病人」、重荷を負って疲れた人、「罪人」だと蔑まれていた人が、イエスのそばに招かれて、この祝福の言葉を聞くのです。[3]

35あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、36わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。[4]

 こう言われても、その右にいる人たちは何のことか分かりません。

37すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。38いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。39いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

 全くそんなことは思い当たらない。これも羊っぽいですね。でも王は彼らに答えるのです。
40…『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』[5]

 これは「最も小さい者にしたかどうかで祝福や御国が決まる」というより、34節にありました。

34…「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい…。

 元々、世界の最初から神は彼らに祝福を備えていました[6]。
 祝福があっても、世界には問題が起きます。飢え、渇き、家を離れ、病気になり、投獄される(無実の罪か、実際の犯罪かを問わず)ことも起きます。この王は、そんな悲惨をなくすよりも、そこで最も隅に追いやられた人、小さな人と一つになる神です[7]。そこで人もその人に寄り添うことを喜び、祝福し、忘れない方です。人は上辺しか見えませんが、神はもっと深いところにおられます。人は、その神に支えられて生きる、羊のような小さな者です[8]。でも同時に、その小さな歩みで自分でも忘れた行いは決して無駄ではなく、神がご自身への行いとして喜ばれ覚えておられる。そうして最後には父なる神に祝福されて、御国をともに受け継ぐ。そう神が備えておられるのです。そんな神の深い眼差しを知るなら、私たちは深く謙虚にならずにおれません。左にいた人は、

41「のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ」

と言われます。「永遠の火」は彼らのためではありませんでした。神が用意されるのは祝福や御国なのです。けれども、この人々はそこから離れて、山羊のように自分でちゃんと生きているように思っています。神に対する義務を果たしている自負があります。それが、神からの贈り物を受け取れなくしてしまう。結局、それは永遠に神抜きの小屋に閉じこもる滅びです。

 神が祝福の贈り物を用意しているのに、人はそれを卑しく引き下げて「良い行いをしたら救われる、立派なキリスト者になれば祝福に与れる、神を喜ばせなければ滅ぼされる」などと誤変換しがちです。そういう世界では最も小さい者は、潰されます。イエスはこの驚かずにおれない譬えを語られました。いいえイエスご自身が、最も小さい者の一人となって貧しく、飢え渇く生涯を歩まれました。旅をして宿もなく、病気の人に触れ抱きしめ、囚人となり、裸にされました。何より私たち一人一人を、自分のように(つまり神のように)愛してくださいました[9]。その不思議な、ビックリする王が、神であり、一人一人を生かしてくださっています。そればかりか、私たちの小さな業、小さな一人への行いこそ、神へのささげ物なのです。
 小さな行為が私たちの思いも付かない働きをし、小さな一人がかけがえのない価値を持っている。そんな生き方へと変えられていく時、人より正しくあろうとする生き方から、自分こそが色々な人に助けられてあることに気づかされます[10]。教会は、この世界の隅々にまで、主がおられ、主の招きがあり、自分たちが多くの人を通して主に支えられてあることを知る集まりです。[11]

 この譬えは、私たちを神の視点へと引き戻してくれます。謙虚に仕える生き方を励まします。それでもやがての終わりの時、神の前に立つ時、思ってもいない言葉に驚くはずです。本当に神が私たちの生涯を見ておられた。出来なかったことも沢山あって、それはもう本当に足りませんでしたと言うしかない。でも、そればかりではなく、私たちの小さな業を喜び祝福としておられたと聞いて、主の御名を褒め称えずにはおれない時が来る。そう思うとますます感謝をもって、謙虚な心で生きてゆけます。小さな人に主イエスを見て生きていけるのです。[12]

「大いなる、そして不思議な主よ。あなたの祝福に感謝します。私たちは、貧しく弱く限りある者ですが、あなたが私たちを生かし、また私たちの小さな業をもご自身への贈り物として喜んでくださいます。その大きな憐れみを忘れて、自分を誇り、人を値踏みしてしまう愚かさを、どうぞ憐れんで、頑なな心を砕いてください。小さき者を愛されて十字架にかかられた主の愛が私たちを深く変えますように。その御国をともに受け継ぐべく、新しくしてくれますように」

[1] 羊は寒さに強いが、山羊は苦手。だから、すぐ囲いに入る。羊は、羊飼いとともにいることが大事。これも思い巡らしになるかもしれません。それぞれの行為によって不本意でも分けられる、のではないのです。左の人は、ヤギのように独立・自律を愛し、居心地の良い場所を求めます。右の民は、本来の神との関係を愛し、場所よりも羊飼い(なる主)の側にいることを求めます。私たちが求めているのは、天国という場所としてのパラダイスでしょうか? それとも、主のそばという関係性としての「神の国」でしょうか。

[2] 「羊はかわいらしく、純粋で善良で、神の民のシンボル。山羊は、サタンのシンボルで、ずる賢く性悪だ」というのは、恐らく、この箇所から演繹されて、後代に作られたイメージです。本来は、羊が神の民であるとは、人間の常識からすると逆なのです。https://www.jesusfilm.org/blog-and-stories/parable-sheep-and-goats.html

[3] これを、救いの条件と考えてしまうと、大変な問題が生まれます。「救われたければ、①最も小さい者に親切にして、②かつそれを覚えてはおらず、③最も小さい者にしなかったことがないようにしなければならない、という滅茶苦茶なジレンマで生きることになります。

[4] この言葉は、イザヤ書58章6節以下を踏まえています。つまり、イエスが初めて明らかにした規準ではなく、旧約から一貫した、主の規準です。それが分かるためにも、12節までを引用します。ぜひ、それ以降もひもといてお読みください。「イザヤ書58章6~8節「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。7飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。8そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。9そのとき、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると、『わたしはここにいる』と主は言う。もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、10 飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。11主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。12あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。」

[5] この「わたしの兄弟たち」が、一体誰のことを指しているのか、は様々な解釈があります。①ここにいるのは使徒・イエスの弟子だから、「これらの」は使徒、牧師・宣教師であり、ここに描写されているのは、信仰・宣教ゆえの迫害を指している。使徒9:4では、教会への迫害を「わたしを迫害する」と言っておられます。②すべての困窮者・貧者のこと。そこから、社会救済的な働きが奨励されます。トルストイの「靴屋のマルチン」などは、こうした理解で、最後にマタイ25章40節が読み上げられます。③あなたの敵・差別している相手のこと。

  しかし、「わたしの兄弟」とは誰かという定義は、ルカ11章の「良きサマリヤ人のたとえ」を引き出した「私の隣人とは誰のことですか」という問いにも通じます。これに対してイエスは、上述のたとえを語り、「だれがこの人の隣人になったと思いますか」と問われました。「わたしの兄弟たち」とは誰か、というよりも、私たちにとって意外な人、最も小さいひとりをも、「わたしの兄弟」とイエスが言われて、「わたしにしたのである」という言葉が驚きであることがポイントです。「だれか」が定まってしまうなら、この最後の時の驚きはなくなってしまうのですから。

[6] 「祝福された人たち」ユーロゲーメノイは、「幸いだマカリオイ」とは違い、良い言葉を言うを原意とする祝福です。英語では、どちらもBlessedですが、もっと積極的です。

[7] ここでも、「わたしにしたのである」と言われた「最も小さい者(飢えた人、旅人、貧者、病人、囚人)」自身は救われないのでしょうか。彼らにしたことはイエスがご自身への行為として受け取るのに、その彼らは厳しい条件のふるいにかけられるとしたら、ほとんど救われない、とはおかしな話ではありませんか。人が良い行いや信仰を持つから救われるのではありませんし、それがないから救われない、ということなら、様々な矛盾が生じてしまいます。

[8] それは、自己嫌悪・自己卑下・罪悪感を抱くことでもありません。羊が弱く、愚かで、依存的なのは、そういうものだからであって、強く賢い動物に変わることを求められているのではないのです。私たちが自分を羊として受け取ることは、劣等感の塊となることではありません。むしろ、生かされている喜び、自分の力を超えた大きな恵みの中に生かされていることに、信頼と自信さえ持たされる事実です。

[9] それは、ここの言葉から言えば、私たちにすることであると同時に、神がご自分への行為として受け取ってくださったことでもあります。

[10] 教会史家シャフは、二世紀の教会について、「なんじの兄弟たちの中に、なんじは主ご自身を見たのだ、と言うのが、はやり文句であった」と言っています。(P. Schaff: History of the Christian Church, ii, p. 374)。榊原康夫『マタイ福音書講解 下』203頁。

[11] イエスを信じれば救われる、信じなければ救われない、というのなら、他の宗教と変わらない。イエスは私たちを救い、虐げられている者の友となり、最も小さい者と一つになりたもうお方だ。そういうお方だから、私たちは信じるのだ。イエスを中心にする世界ではなく、世界の隅々にまでおられるイエスであることを信じるのだ。

[12] 『キリストに従う』(あるいは『服従』、森平太訳、新教出版、1966年)という著作で、ボーンフェーファーがこう言っております。「神の言葉は弱いものであって、人間から軽視され嘲笑されるほどである。御言葉の前にあるのは、頑なな心と、人を閉ざす罪である。御言葉は,自分をつぶしにかかる反抗があるのを認め、そのために苦しむ」(p203)。神の言葉はそういう弱いものなのです。そして、この神学者は続けます。「この御言葉の弱さについて何も知らない弟子は、神の御子が貧しい姿を取られたという秘義を認識することがなかったであろう。人が躓くことを知っていたこの弱い御言葉だけが、罪人を心の奥底から悔い改めさせる強くかつ哀れみに満ちた言葉なのである」(p204)。マラナタ教会「すべての民族をさばく」2019年5月12日説教。 晴佐久昌英神父の説教もユニークでした。https://fukuinnomura.com/?p=8370


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