2020/8/9 Ⅰペテロ書2章9~11節「いい人でなく新しい人に」ニューシティカテキズム34
イエス・キリストと出会うこと、イエスを信じて生きることは、本当に素晴らしい事です。本当に素晴らしい出会いです。私たちは聖書を通して、主イエスに出会い、主イエスを知っていきます。主イエスが私たちを愛して、私たちのために十字架にかかって死に、よみがえって、今もともにおられ、永遠に私たちはこの方のものであることを知っていく時、私たちの生き方は新しくされていきます。「洗礼を受けてクリスチャンになる」というと、すぐに窮屈そうなイメージを持たれることがあります。しかし、主イエスは私たちに「いい人」になることを求める方ではありません。良い行いをしたら救ってあげる、ではなく、もう私たちを愛してくださって、何も良い行いがなくても、ただイエスを信じるだけで私たちは、神の子供とされるのです。そのイエスと出会い、自分が愛され、この世界に神がよいご計画を持っておられると知ることが、私たちの生き方や行動も、良いものに変えずにおかないのです。それぐらい素晴らしい出会いです。
第三四問 私たちはただ恵みによって、ただキリストによって贖われているにもかかわらず、今もなお良い行いをして、神のみことばに従わなければならないのですか? 答 はい、なぜなら、ご自身の血によって私たちを贖ってくださったキリストは、私たちをご自身の御霊によって新しくしてくださるからです。それゆえ、私たちの人生が神への愛と感謝を表わすものとなり、御霊の実によって信仰を確信し、敬虔な行動によって他の人がキリストへと導かれるようになるためです。
ここでは、前回お話しした、私たちの救いが、私たちの行いによらず、ただキリストの恵みによって救われる、ということを踏まえて、
「それにも関わらず、今もなお良い行いをして、神のみことばに従わなければならないのですか」
と問うています。そして、その答は、
「はい」!
良い行いをして神の御言葉に従うことは必要です!と断言します。
イエス・キリストは私たちをご自身の血、つまり命によって贖ってくださいました。私たちを神様のものとして取り戻してくださいました。もう私たちは、自分が誰であるかも分からないままに生きる必要はなくなりました。また、神様に気に入ってもらうために、良い行いをしなければ、という苦しい、惨めな考えもしなくてよくなりました。主イエスが私たちを贖ってくださったからです。それだけではなく、主は聖霊を働かせてくださって、私たちの考えや生き方も、新しくしてくださるのです。それもまた一方的な恵みの御業です。まだ、私たちには古い考えが染みついていて、神の愛や清さが十分分かっていません。だから、神の言葉に従うことが窮屈に思えたり、損になったり、嫌だなぁと思うこともあるでしょう。だから聖書で、時には厳しく、悪口や姦淫や嘘や怒りが罪であることを思い出させてもらうことは、私たちにとって必要です。でもそれは、私たちを窮屈にするのではありません。むしろ、私たちを自由にするのです。
ここには、イエスを信じる者にとっての良い行いの意味が三つ書かれています。
第一は「私たちの人生が神への愛と感謝を表すものと」なること、
第二は「御霊の実によって信仰を確信する」こと、
三つ目は「敬虔な行動(=信仰から行動する生き方)によって他の人がキリストに導かれるようになる」こと、この三つです。
良い行いをするのは、神様に気に入ってもらうためとか、神様に応えるため、良い行いをしなくちゃ怒られるから、ではなく、感謝からです。愛してくださって、有り難う。恵みを注いでくださって感謝します。この感謝で生きることなのです。神様に愛されて、新しくされたから、生き方も感謝に溢れるのです。いい人になろうとはしないでください。すでに神様に愛されているのです。私たちの本心も、願いも、限界も、すべてご存じのイエスが愛してくださった。その感謝から、心を込めた生き方をして、自分がされて嬉しかったことを人にもするだけです。主イエスにあるがまま愛されているからこそ、その愛にふさわしく生きよう、嘘や暴力や不正などせずに生きたいのです。
そして、私たちの行いが新しくされる時、それは私たちの努力以上に、私たちの中に結ばれた「聖霊の実」です。自分の生き方を通して、私たちは本当に主が私を救ってくださったのだ、と確信することが出来ます。ガラテヤ書5章22、23節にこうあります。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。…
私たちの中に、キリストは聖霊によって実を結ばせてくださるのです。これは、私たちがキリストの恵みに与っていることの保証です。勿論、それは私たちが立派な人になるとか、清らかな心のふりをすることではありません。
キリスト者の「良い行い」は、無理をしていい人を演じることではありません。これは、私たちの努力である以上に、聖霊の「実」なのです。特に、この最後にあるのは「自制」です。私たちは、自分の心や行動を治めるようになる。それが聖霊の実には欠かせません。人からどう見られるか、自分の間違いを認めたくない、そんな衝動で行動してしまう癖が減っていく。むしろ、人からどう見られようと正直になれる、嫌なことは嫌、無理なことは無理とハッキリ言える。でも、喜ぶことは喜び、人への思いやりを持って、無理はしないけれど気に懸けていける。そういう自由さが、神様に愛され赦されている者の実となるのです。
そして、そのようなキリスト者の姿、私たちの伸び伸びと、正直に、喜びを持って生きている姿を見て、周りの人に「あの人の信じている聖書ってどんな本だろう。あの人の信じているイエス様ってどんな方だろう?」という思いが起こされます。これはあなたが証しを立てるというより、主イエスご自身の方法なのです。聖書の知識だけでなく、私が恵みによって豊かに潤されることが、他の人にとっても祝福となり、新しい、イエスとの出会いに用いられていく。それが次々とつながって、今に至っているのです。
イエス様の素晴らしさは、皆さん一人一人がイエス様との出会いによって変わる事で明らかになります。今、この時代に世界を少しでも良くするために、悲しみが少しでも癒やされるために、人の心に光が点るために、自分に出来ることは何でしょうか。それを私たちがさせてもらえるとは、なんと嬉しいことでしょう。それは決して小さな、無意味なことではありません。主が私たちを通して証しされる、救いの御業なのです。
「天の父よ、あなたは私たちを罪から救ってくださいました。どうか私たちがまだ罪に支配されているかのように、罪に留まることがありませんように。あなたが与えてくださった律法は、私たちの生きる道しるべです。どうかこれらの命令を宝とし、私たちを知る人々がみな、私たちの良い行いを見てあなたを崇めるようになりますように」
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