聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

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使徒8章1-24節「思いがけない展開」

2017-09-10 14:57:39 | 使徒の働き

2017/9/10 使徒8章1-24節「思いがけない展開」

 使徒の働きを読み続けています。これまでのエルサレム教会の展開が割合順調と言えたのが、八章で急展開して、弟子たちが散らされていきます。前回七章の最後で見たステパノの殉教から、その日のうちに大迫害となって、使徒たち以外の弟子が散らされていったのです[1]。主が教会を守られる、というのは簡単ですが、それがどういうことなのかを考えさせられます。

1.散らされることによって

 まずあるがままを受け入れたいと思うのです。決してエルサレム教会は迫害に遭わないよう守られたわけではありませんし、迫害に遭っても逃げることなく信仰と祈りで留まって守りを求めた…のでもありません。既に一万人を超えるような共同体となっていた教会が、迫害され、追い出される。それは大変なパニックです。教会を荒らし、家々に入り込んで引きずり出して牢に入れる、そういう暴力を主が留めてくださったら、と願ったでしょう。でも逃げなければならない場合もあるのですね。主が守ってくださるとは、どんな時にも安泰だということではありません。暴力や犯罪、ハリケーンや地震、戦争や政治の紛争、財政破綻や国の高齢化があろうと、教会だけは守られるわけではありません。病気や失業、家庭問題は、敬虔なクリスチャンなら遭うはずがない、とは思わないでください。そうだったら責任放棄し思考停止して楽ですけれど、神は人間に与えられた責任を肩代わりして楽をさせる方ではありません。

 同時に覚えてください。主はその迫害で散らされたことをも益とされました。彼らの生活は激変して、着の身着のまま、途方に暮れる状況だったでしょう。しかし、そうして散らされた先で、

 「あなたがたはエルサレムから大急ぎで逃げてきたのですか。どうしたのですか」

と問われて、

 「実は私はナザレのイエスと出会って…」

とイエスのことを話したのでしょう。こうして彼らはユダヤとサマリヤの地方に展開していきました。これは、最初に、

一8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

と言われていた展開です。教会は迫害によって解散させられ、弟子たちは散らされました。それは悲劇的な終わりかと思えました。しかし、主は惨めに散り散りにされたのではなく、散らされる事を通して、それまでは出来なかった新しい展開を始められました。彼らを通して御言葉がユダヤとサマリヤの諸地方に広まったのです。主は、私たちを災いに遭わせない方ではありません。私たちが思い描く「守り」、期待する「現状維持」は叶わず、生活のあらゆる出来事は変わったり衰えたり急展開するかもしれません。しかし主は、そのような喪失や悲劇や災いにしか思えないことを通しても、思いがけない新しいことを始めて下さるお方です。

2.サマリヤの宣教

 特に、5節以下には「サマリヤ」でのピリポの宣教が書かれています。このピリポは6章の最初で選ばれた七人の配給係の一人のピリポで、十二弟子のピリポではありません。使徒ではないピリポですが、彼はサマリヤでキリストを宣べ伝えました。そこには「しるし」も沢山伴いましたが、それはピリポの力ではありませんし、初代教会にいつもあった現象でもありません。主がピリポの語る御言葉を確証するために添えてくださったしるしです。

 このサマリヤとユダヤとは、歴史的な確執が深くて、「犬猿の仲」にありました。旧約の歴史を見ても、南北に分かれて数百年争っていたのです。その毛嫌いし合っていたサマリヤの人がエルサレムから来たピリポたちの話を信じるのは簡単ではなかったし、ユダヤ人にとってもサマリヤ人と何かを分かち合うなんて、真っ平ゴメンの話でした[2]。イエスはそのような敵対関係を越えた福音を下さいました。ここまで教会は、貧富の差、体の障害の有無、言葉や文化の壁を越えてきましたが、サマリヤ人との歴史的・宗教的な深い争いも越えたのです。また、そのためにしるしや癒やしの奇蹟も必要だったのでしょう。病気が治る、悪霊から解放される以上の深い驚きの出会いだったはずです。だから、その街に大きな喜びが起こったのです[3]

 そして、魔術師シモンというトリックでサマリヤの人を驚かせて、尊敬を集め、自分でも偉大な者を自称して、

 「大能と呼ばれる、神の力だ」

と言われる立場にいた人も変えられました。確かに彼は、金で聖霊を授ける権威を買おうとしました[4]。でも24節の台詞は感動的です。

24シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

 この言葉が結びです。ちょっと中途半端な気がします。でも裏を返せば、シモンがこのように言った事実をこのまま心に刻めということでしょう。人々をマジックで驚かせ、偉大なものと言われていました。でも本当は自分が偉大ではなく、汚れた霊を追い出したり病んだ人を助けることも出来ない自分だと分かっていたでしょう。神の力ではない、自分だっていつか死ぬ、トリックや名声では自分を救えないことも、どこかで分かっていたはずです。だからこそピリポのしるしに金魚の糞のようについて回り、使徒たちが祈ると聖霊が見える形で下って人が変えられるのを見た時[5]、彼は大金を積んででも、その権威が欲しいと思ったのです。

3.「私のために祈ってください」

 その彼の行為を罪だ冒涜だと排除することは出来ます。ペテロの言葉も厳しいものです[6]。しかしそのペテロの言葉も

「滅びるが良い」

で始まりつつ、この愚かな申し出を通して露わになった心の問題を指摘して、

「悔い改めて、主に祈りなさい」

と勧めます。シモンの問題は権威や力が足りないことではなく、今まで築いてきた名声や立場が危ういことでもなく、シモン自身の心でした。苦い思い、不義に囚われた思いです。その思いに突き動かされて人を騙したり驚かせたり偉そうに生きる生き方を悔い改めなさい。金で力を手に入れるのではなく、シモン自身が謙り主のもとに行く生き方を指し示したのです。それは天と地がひっくり返るような新しい生き方です。しかし、それをシモンは受け入れました。偉大な者だと自称したシモンが、背伸びを止め、恐れて縮こまり、

「私のために祈ってください」

と言えた。この変化にもまた、思いがけない神の御業が現されています。魔術師さえ、恥をさらしながら、神の前に姿勢を正すようになる。ここにもまた、本当にかけがえのない福音の展開があります。[7]

 この「シモン」から採った「シモニア」という言葉があるのですが、教会の偉い司祭職や霊的な立場を取引する考えです。今でも、お金を投じて大きな会堂を建てたら、大イベントをしたら、有名な人を呼べば祝福されるとでも言うような考えが聞こえます[8]。シモンの姿は他人事ではなく私たち自身が、神に自分を捧げるよりも、神の力をお金や何かで買って、自分を守りたい、高めたい、そういう方向にどんなに弱いでしょうか。神は飼い慣らせたり、交渉できたりするお方ではありません。しかし、その偉大さにふんぞり返って、私たちを服従させ、もてあそぶお方でも断じてありません。神の子キリストは、神を忘れて背伸びしたり争ったり空回りしている私たちの所に来られて、私たちの中に住まれ、ご自身を与えてくださいました。迫害や大失敗をさえ用いて、新しいことをなさり、人の心の奥深くに触れてくださいます。魔術師にも新しい心を与えられ、サマリヤとの長年の確執も和解させてくださるお方です。

 置かれているそれぞれの状況で、破綻や喪失や思いがけない事がある時、「主が何とかしてくださる」と、出来ることまで放り出して胡座をかくのではなく、現実的に謙虚に応じる必要があります。しかし自分にはどうにも出来ない事も沢山あります。でも、そのどうなるか分からない時も、主がそこにも働いて思いがけないことをしてくださると信じて、謙り、心を開きたい。虚栄を捨てて、互いに祈り合い、主の御業を分かち合っていきたいと思います。

「主よ。迫害や失敗さえ用いて、あなたの御業が進み、福音が広く深く働きました。力あるあなたの驚くばかりの恵みを崇めます。その力で私たちも新しくし、恵みによって和解し、一つ家族となる喜びに満たしてください。朽ち廃れ変わるものを嘆きつつも、永遠に変わらないあなたをますます覚えさせてください。その恵みに立つ交わりをいよいよ建て上げてください」



[1] 1節の「みな」といっても、後にはエルサレム教会は多くの信徒を要しています。そこで、説明としては①ステパノと同じヘレニストキリスト者が「みな」。ヘブライストキリスト者は残って、後に数万の群れとなっている(21章)。②ヘブライストキリスト者もこの時は迫害されたが、後になって戻ってきた。③「みな」は「どの人」も。ヘレニストキリスト者は、老いも若きも、貧富の差、職業に関係なく、その日エルサレムから追い出された。着の身着のままで。以上のような推測が出来ます。いずれにせよ、それでも彼らはなくしたものを嘆くよりも、イエスを証ししたのである。

[2] ルカ9章51-55節には、ヨハネとヤコブがサマリヤ人たちの態度に「私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言って叱られた話もあります。そういう彼らが、サマリヤ人の間に信仰の喜びがあるのを見て、彼らに聖霊が与えられるよう祈った、という変化も見落としてはなりません。

[3] けれども、決してそれは、癒やしの力やしるしにビックリして信じさせる、というようなものではなかった事もここから覚えたいと思うのです。そのことを示すのが、ここに出て来るシモンという魔術師のエピソードです。

[4] シモンはその力に驚きつつ、自分に授けてくれとは言わず、自分が授ける権威、それで人を驚かす権威を持とうとしました。いいものと思いつつ、自分を明け渡したくはなかったのです。自分のことは守ろう、聖霊に従うことには抵抗しようとしていました。

[5] ペテロとヨハネの派遣は、彼らに権威があったというよりも、教会的なつながり、一致の保持のためだろう。これ以降も新しい展開はあるが、使徒がいつも派遣されなければならなかったわけではない。18章でのエペソに似た記事があるが。

[6] ペテロたち、エルサレム教会が、迫害以前も喜捨によってやもめの世話をしており、迫害によって全信徒が困窮したことで、経済的には非常に苦しかっただろうことも想像できます。それなのに、この金を拒絶したことも人間には難しいこと。変化だった。それは、福音、神の御業への信頼と、大きなことをしようという誘惑への拒絶である。

[7] 勿論、シモンのような言葉を舌先三寸で言うことも出来ます。見せかけの悔い改めである場合もあります。教会の伝説には彼が後に使徒パウロの敵となった、という話やあれこれの眉唾物の話もあります。でもそれは後代の作り話かもしれません。それ以上にハッキリした事実は、教会の中には後々お金で神の祝福を買えるような発想が入った事です。

[8] 使徒の働きで、「金銀は我にない」や、アナニヤとサッピラ、そして、シモンと、「教会と金」の問題は小さくなかったことがうかがわれます。ルカでも、金銭の問題は繰り返して取り上げられています。そして後の教会は「シモニズム」になっていったのです。現代も「金に執着するな。思い煩わず、神に委ねて捧げよ」と称して、教会が守銭奴になっている例は多くあります。

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