聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問55「聖徒の交わりを信ず」Ⅰコリント12章14~27節

2017-03-06 10:43:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/3/5 ハイデルベルグ信仰問答55「聖徒の交わりを信ず」Ⅰコリント12章14~27節

 

 「使徒信条」を少しずつお話ししながら、もうあと少しになろうとしています。今日は「聖徒の交わり」です。これは「聖霊を信ず」という私たちの告白が、「聖なる公同の教会」に具体化して、更にそれを詳しく「聖徒の交わり」と言い換えたものです。

問55 「聖徒の交わり」についてあなたは何を理解していますか。

答 第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。

 「交わり」とはキリスト教用語ですよね。教会ではよく聞くけれども、教会以外ではあまり使わない言葉です。こういう言葉は極力減らした方がいいと私は思っています。教会用語や業界用語は鼻につくものですし、自分達と外との間に壁を作ってしまいます。そして案外意味が曖昧なまま使われていることが多いのです。折角ですから、今日は交わりの意味を考えてみましょう。しかもそれを、「使徒信条」という正式な信仰告白文書の中でわざわざ入れて告白しています。それほど大事なものなのだ、ということを、この素晴らしさを、よく味わって戴きたいのです。

 「聖徒の交わり」と言いますが、この言葉のもともとはセイントです。これをカトリック教会では「聖人」と訳しているそうです。聖人、というとどうでしょう。特別に清らかな人、人間離れした人、あるいは自分は特別だと思っている人を揶揄していうこともあるでしょう。カトリック教会では教義として「聖人」という考え方があります。殉教したり特別敬虔な生涯を送ったりしたキリスト者を、教会が大変厳密な審査をして、幾つもの条件をクリアすると「聖人」として認定されるのです。そして、その聖人は特別な功績をたくさん摘んでいるので、一般の欠けだらけの信者のために執り成しをしてくれますし、信徒も聖人に祈ってキリストへの執り成しをお願いしたりするのです。そういう特別な聖人達との交流があることを「聖人の交わり」と考えるのです。

 こういう考えに対して、プロテスタントは聖書の教えに反するものとして抗議をしました。キリストが聖なるお方なのであって、私たちの事を完全に救い、執り成してくださるのだ。聖人に頼る必要などないし、聖人になれる人など誰もいないのだ。そういう考え方を打ち出したのが、プロテスタントだったのです。そして、私たちは皆、キリストが聖であり、聖なる御霊が私たちを救って下さるゆえに、「聖なる公同の教会」の一員とされた時に「聖徒」ともされているのですね。キリストが世界の色々な人を集めてくださいました。そこにある人は完璧な人などいません。聖人という意味で清くなれる人などいないのです。罪や過ちをまだまだ抱えていようとも、集めて下さったキリストが聖であるゆえに、私たちは「聖徒」であり、教会は「聖徒の交わり」なのです。

 ここでもう一歩踏み込んでみましょう。思い出して下さい。先の後半には、

 …第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。

ともありました。「聖徒の交わり」には、聖徒とされた信徒が集まっている、というだけではなく、もっと積極的な「責任」があるというのですね。

「弁えなければならない」

とは強すぎる言葉にも感じます。しかし言いたいのは、キリストが私たちを教会の一員とされた時、私たちは一人ではなくなる、ということです。自分一人が救われるとか聖人になるとかではないのです。群れの一員となって、互いに助け合い、自分の賜物を他の部分(他の一員)の益と救いとのために、用いるようになる。そういう積極的な意味が「聖徒の交わり」という言葉にはあるのです。先に読んだように、

Ⅰコリント十二26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 勿論そうは言っても、教会の交わりが楽しく素晴らしい事ばかりである訳ではありません。やっぱり違う人間同士、楽しい時もあれば、すれ違ったりぶつかったりする時、嫌になるような時もあるのですね。人の醜い部分が見え、傷つく事もあります。いっそ、教会なんか行かない、交わりなんていらない、と言いたくなる時もあるでしょう。でも「使徒信条」が言うのはそういう人たちに対してです。教会の交わりを批判して、自分一人だけ(それこそ聖人ぶって)キリスト者として生きればいいだなんて、そんなものではないのだ。様々に問題があって、難しさがあって、欠けや違いがあるとしても、キリストは私たちに「互いに愛し合いなさい」と言われました。愛し合う難しさや限界を承知の上で、愛し合いなさいと言われました。そして、その私たちの交わりの中で、確かに私たちは祝福を受けたり、自分の賜物が用いられたり、教えられ、励まされるのです。苦しい思いを通りながら、成長し、砕かれていくのです。教会の交わりは、綺麗事でも無駄でもありません。確かに主は、交わりを通して働いてくださるのです。

 実は「聖徒の交わり」という言葉は、「聖なるコミュニオン」つまり聖なる聖晩餐、とも訳せるのですね。私たちはそのような意味には直接は取りません。けれども、これは私たちが「聖徒の交わり」を理解する上でとても良い絵でもあるとも思うのです。

 聖なるキリストを現すパンを、私たちはともに裂きます。今日の朝の礼拝でも私たちは、パンをともに分け、杯を分かち合いました。言わば、目には見えませんが、世界の教会の聖徒たちと、一つのパンを分かち合うのです。それは私たちが、キリストにあって一つとされ、もはや一人ではなく互いに自分の賜物を用いて仕え合い、ともに歩む群れであることを豊かに物語っています。教会の交わり、出会い、関わりは

「聖徒の交わり」

です。教会は、人と関わり、繋がったり助けたり、笑ったり泣いたり、語り合う場です。自分の罪や限界を知らされ、罪の赦しや回復をリアルに知らされます。ともにパンを裂くだけでなく、時間や力、感謝や涙を、もっといえば人生を互いに分かち合う交わりがここにあります。そのような交わりをキリストが私たちに与えられ、聖別し、祝福して用いて下さいます。

 教会は聖人ぶった集まりではありません。自分自身をそのままに分かち合い、ともにキリストの恵みを豊かにいただいていく、聖徒の交わりなのです。

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