2017/9/3 使徒7章48-60節「二つの叫び」
「ステパノの殉教」として知られる箇所です。初代教会最初の殉教者です。彼が死の直前に語った説教は七章最初から53節まで長く続いています。使徒の働きでも最も長く詳しく記録されている説教です[1]。しかし今回は概略だけお話しして、一つの要点を見たいと思います。
1.ステパノの説教
ステパノを殺した人々は、ステパノやキリスト教徒たちが話すキリストの福音が気に入りませんでした[2]。けれども論争をしても勝てないので議会に連れて来て、濡れ衣でステパノが「聖書を汚し、エルサレム神殿を冒涜するような教えをしている」と訴えたのです。これは当時、死罪に値する大罪で、結局、ステパノは冒涜罪の処刑方法、石打で殺されるわけです。[3]
これに対するステパノの長い説教では彼らへの反論が繰り広げられます。これが本当に長々とした説教でなんとステパノは創世記のアブラハムの召命から論じ始めるのですね。要点はこうです。
- ユダヤ人が律法を重んじると言うけれど、ユダヤ人の先祖は律法に逆らい続けていた。
- エルサレム神殿を冒涜するとはけしからんと言うけれど、神はエルサレムに縛られず、カルデヤやエジプトや荒野でご自身を現されたじゃないか。
- イエスがメシヤであるはずがないというけれど、ユダヤ人はいつだって神が遣わした指導者を理解できず逆らってきた。
それがこの説教の主旨です。強い言葉だけで、非難や断罪や対決だと早合点してはなりません。ステパノが語った内容は、アブラハムから始まる聖書全体の読み方をひっくり返してしまったのです。
聖書には人間が守るべき律法があって、それを守ってきたユダヤ人がいて、中心になるエルサレム神殿がある-それは人間の宗教的な見方です。多くの民族や宗教の信奉者はそういう読み方をします。教会もそのようになりがちです。自分たちは正しい側で、他の人はそうではない。自分に反対する奴は傲慢だ、頑固だとレッテルを貼って、敵視するわけです。
聖書はそんな枠組には入りません。神の民はずっと神に逆らい通しでした。神の民は主のご計画を理解せず、神の遣わされた指導者を迫害してきました。逆に言えば、主はいつも神の民の不従順に忍耐され、憐れみ続けてくださいました。主のなさることはいつも人間の理解や常識を越えていました。また、人間が憧れるヒーロー、カリスマ的な指導者とは正反対の卑しく期待外れのような指導者を通して、民を導かれました。そういう事実を直視して、謙虚になり、自分の限界や間違いを認めよう。そうして心を開くよう、ステパノは問いかけたのです。
この事を私が確信するのは、ステパノの最後の言葉です。
60そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」。こう言って、眠りについた。
2.二つの絶叫
57節にはステパノに敵対する人々が
大声で叫びながら、耳をおおい、いっさいにステパノに殺到した。
とあります。彼らもステパノも
大声で叫び
ました。人々はステパノの弁明に心を閉ざし、耳を塞ぎ、自分の守りたいもののために必死な、怒りや恐れの「大声」です。一方のステパノは自分が殺される時、最後の力を振り絞って、大声で叫んだのは、自分を石打にする人々の赦し、憐れみを求める願いでした。もう59節で
「主イエスよ。私の霊をお受けください」
と祈って後は何も考えずに死んでもよかったでしょう。しかし彼は最後のひと息で、自分を殺す人々のために祈ったのです。それも
「大声で叫んで」。
余裕があったのでも、格好をつけたのでもないですね。本心からそう願うので無い限り、決して真似できない絶叫です。それがステパノの本心だとすれば53節までの説教に流れているのも、その願いなのでしょう。言葉は対決に聞こえても、相手も何を聴いても激高しか出来なかったとしても、ステパノの願いは、主の赦し、憐れみです。彼らが自分を殺し、イエスを受け入れない罪の報いを受ければよい、いつか裁かれ滅ぼされながら自分の過ちを思い知るが良い、ではないのです。ステパノは喧嘩を売ったのではなく、事実を聖書から示して、如何に民が間違いやすく、頑なだと書かれているか、そしてその人間を憐れみ、導いてくださる主であったか、を伝えたかったのです。
二つの絶叫の違いを心に留めましょう。私たちは正しくありたいものです。自分の立場を危うくするものには激しく大声で反応します。イエスはそのような恐れから私たちを自由にしてくれます。「私は正しい」にしがみつかず、不完全な自分でもイエスが主でいてくださる。そうなると、敵にも心を開いて、本心からその人たちを案じる心に変えられて行く。これがキリスト者の聖書の読み方であり、歩んでいく道なのです。勿論それは私たちが自分でそんな気持ちになることは出来ませんし、キリスト者になれば自動的にそうなる訳でもありません。むしろそういう深い取扱を蔑ろにして、教会もまた、独善的になり、プライドばかり高い宗教団体になることが多いのです。だからこそ、私たちは愛があるふりではなく、自分の深い願い、憎しみや敵対感情、恐れを積極的に主に差し出して、取り扱って戴く必要があるのです。そうして私たちが本当に深く変えられる時、聖書の示す方向へと向いてゆけるのではないでしょうか。
3.立ち上がるイエス
このステパノの祈りは、イエス・キリストが十字架の上で祈られた祈りと重なります。
ルカ二三34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
こう祈られた祈りを、ステパノがどのように聴き、思い巡らし、大事にしていたかは分かりませんが、確かにステパノはこの祈りを深い所で受け止め、その眼差しで敵をも見るようになっていたに違いありません。でもそれも、ステパノの受け止め方、という以上に、そうさせてくださったイエスの御業であり、私たちのうちにもそういう思いを与えてくださるイエスの御業があるのです。ここでステパノは、天が開けて、人の子イエスが神の右に立っておられるのを見ました。これ自体、神殿の分厚いカーテン越しにしか神に通じることは出来ないのが常識だった中で、冒涜としか思えない発言でした。しかし、イエスはそのような人間の常識を踏み越えて、天から私たちとつながってくださる方です[4]。神の右で治めておられるイエスは、敵を大声で黙らせる方ではなく、敵のために命を与え、人の回復を願ってくださるお方です。ここでも主は、神の右で
「立って」
おられます。殺されようとしているステパノを見て、もう座ってなどいられないかのようです。そのイエスにステパノは「私の霊をお受けください」と祈りました。これが私たちも含めたキリスト者の祈りです。イエスは私たちの主であり、神殿や儀式や償いなど一切なしに、ご自身の執り成しによって受け入れてくださるのです。
「私の霊をお受けください」
と祈れないとしても、
「わたしとともにパラダイスにいます」
と約束してくださるイエスだと、聖書は語ってくれているのです。そして、こんな主の常識外れの恵みによって、私たちの生き方、願いを問われ、心の底まで変えられるのが、イエスの御業なのです。
それは余りに楽観過ぎる生き方でしょうか。ステパノの大声よりも敵達の大声の方が強かったではないか、と思いますか。ここでステパノの石打に立ち会った
青年サウロ
は、九章で再登場します。彼はこの後も教会を迫害しますが、イエスが彼に出会ってくださって、彼はキリスト者となり、後に使徒パウロとなるのです。ステパノの叫びは無駄ではありませんでした。耳を塞いでも無視できない響きとなって、サウロはイエスを受け入れ、彼もまた、自分の思想を守る生き方から、他者を受け入れ、愛する生き方へと変えられたのです。イエスはステパノだけでなく、敵であったサウロも、私たちをも受け入れてくださいます。その出会いが、私たちの信仰も、生き方も新しくせずにはおかないのです。自分の生き方を照らして、祈りましょう。
「主よ。私たちの深い本音を、憐れみによって取り扱って癒やしてください。聖書にある、人間の過ち、愚かさ。それを越えたあなたの憐れみを通して、私たちの生き方、願い、現実にあなたが働いてくださることを切に求めさせてください。ミサイルや戦争の危機がある今こそ、執り成して祈り、憐れみを求めます。耳を塞ぐことなく、本当の平和のため祈らせてください」
[1] 長いものとしては、二章のペテロのペンテコステ説教、一〇章のペテロのコルネリオの家での説教、一二章のピシデヤアンテオケ説教(以下、パウロの説教)、一七章のアテネ説教、二〇章のエペソの長老への説教、二二章のエルサレムでの証し、二六章のカイザリヤでの証し、などがあります。一番長いのは、この七章のステパノの説教です。パウロより長い、ということだけでも、使徒の働きが説教(宣教)を一部の教師だけのものではなく、名もない信徒に広げている視点をうかがうことができます。
[2] 六章九節によれば「リベルテンの会堂に属する人々」とあります。ローマの各地で奴隷となっていたユダヤ人が、解放されて、エルサレムに集まって住んでいた、解放奴隷であり、ヘブル語ではなくギリシャ語を話す人々でした。
[3] ステパノの死を、公式な処刑か、集団暴行(リンチ)のような非公式なものと見るか、は意見が分かれますが、議会の承認を得た、サウロの公的な責任のもとになされた処刑と見るのがより自然だと思います。
[4] それも、議会の中、つまり屋内にいながら、天が見え、遠い天で「点」のようなイエスが見えたのではない、というところからも、これはイエスがステパノだけに見せてくださった幻であったのでしょう。
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