2017/4/16 ハ信仰問答62-4「実を結ばないわけがない」ヨハネ15章1-13節
今日はイースターです。イエス・キリストが、十字架の死から三日目、日曜日の朝に墓からよみがえられたことをお祝いする、教会のお祭りです。キリストが復活されたので、日曜日にキリスト者たちは復活を記念して集まるようになりました。それまで、日曜日はおやすみではなかったのに、復活によって今の世界のカレンダーを作ってしまったのです。それだけではありません。プライドだけは高いくせに臆病だった弟子達は、復活したイエスによって大きく変えられました。大胆にイエスを証しするようになり、人に仕えるようになりました。そのような弟子達の生き方は、多くの人に影響を与えて、キリスト教はじわじわと世界に広がって、全世界に広まっていったのです。
イエスの復活は、神の恵みに生きるよう、人々を変えていきました。私自身も、イエスがともにいてくださり、私の心を変えてくださっている、その恵みに与っています。そういう生きた恵みこそ、キリスト教の福音なのです。それは、私たちが救われるかどうか、という宗教の問題よりも深い、すばらしい信仰です。
ハイデルベルグ信仰問答問62 しかしなぜわたしたちの善き業は、神の御前で義またはその一部にすらなることができないのですか。
答 なぜなら、神のさばきに耐えうる義とはあらゆる点で完全であり、律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の業ですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです。
先回、私たちは「信仰は魂の手」という言葉を学びました。キリストの義を頂くのに、ただ信じることで頂ける。それは、私たちの信仰が素晴らしいからではありません。手が美しく、器用だから食べ物をもらえるのではなく、ただで下さる食べ物を、手の汚さや人と比べて不格好かどうかなど考えずに、手を伸ばして頂くだけだ、そういう意味でした。
しかし、ここでもう一度問うのです。どうして私たちの善き業は、神の御前でちょっとでも認めてはもらえないのか。信仰だけとしか言わないで、私たちがする善い行いにだって、正しさがあるのではないか。しかしこれに対しての答はこうです。神のさばきに耐えられる、あらゆる点で完全であり、律法に全く一致する義など持てはしないじゃないか。どんなに頑張っても絶対に無理です。「ちょっとぐらい私たちの義も認めてくれたって良いのに」と人間は考えたがりますが、神の前には「ちょっとぐらい」の義を認めてもらおうなど、勘違いでしかないのです。なぜなら、私たちの精一杯の義さえ、不完全で罪に汚れているからです。まず私たちはこの事を忘れないでいましょう。自分の善意とか正義感とかは決して完全ではなく、不純物が混ざっていることを弁えて、謙虚になりましょう。勿論神は、そういう足りなさばかりを突いてくる嫌みったらしいお方ではありません。重箱の隅を突き、揚げ足を取る神ではないのです。むしろ、
問63 しかし、わたしたちの善き業は、神が今の世と後の世でそれに報いてくださるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。
答 その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです。
私たちの欠けだらけの行いにも神は功績ではなく、恵みによる報酬を下さるからです。足りない行いも、神は恵み深く「よくやった。よい忠実なしもべだ」とねぎらってくださいます。しかし、そんなことを言うと、じゃあ善い行いなんて止めた、好き勝手に生きた方が楽しいや、ということにならないでしょうか。これは、宗教改革の時に、新港のみによる救いという教えに対して向けられた批判、疑問の一つでした。そこで、
問64 この教えは無分別で放縦な人々をつくるのではありませんか。
答 いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです。
スパッと言い切っている素晴らしい答です。救われたり報われたり誉められたりするために善い業をすることはもう止めるのです。しかし、そうして恵みによって救いをくださる素晴らしいキリストに出会い、キリストに結び合わされるなら、感謝の実を結ばないことなどありえない。キリストが下さる命をいただくなら、病んでいた魂も健やかになり、喜んで明るく生きるようになる。しなくてもいいなら好き勝手に生きよう、というそんな生き方はもう出来なくなる。キリストは私たちに好き勝手にしてもいいよ、というために、ただ信仰による救いを下さったのではありません。キリストは、私たちに良い生き方を生きてほしいのです。でもそれを、誉められるため、報いをもらうため、ではなくて、神の恵みへの感謝から、喜んで行うようにしたいのです。そういう新しい生き方こそ、神がキリスト・イエスにあって私たちに下さる素晴らしい祝福なのです。
実と言えば、今日のヨハネの15章、イエスが
「わたしはぶどうの木。あなたがたは枝です」
の御言葉を思い出します。イエスと私たちの関係は、木と枝のようなものです。私たちがイエスにつながり、祈り、御言葉に養われ、神の恵みを十分に頂きながら歩むなら、そこには感謝の実が結ばずにはおれません。木の枝は、実を結んでいきます。決して頑張って、自分の力で実を生み出したりはしません。枝が頑張って、自分の力で良い実を生み出して、そうしたら木につなげてもらえる、と考えたら、大間違いでしょう。かといって、枝が木につながって、ああ善かった、もう実を結ばなくてもいいや、と思ったらもったいないですね。枝が幹につながれば、幹から養分が運ばれて、枝は生き生きとよみがえるでしょう。いのちを持つようにならずにはおれないでしょう。そうして、自然と実を結ぶようになるのです。それが、イエスが私たちになさりたいことです。
問64の後、礼拝について話してから、問86以下が第三部になります。キリスト者の生涯について十戒や祈りについての教えが始まります。この第三部の題が「感謝について」です。ヘンリ・ナウエンは
「キリスト者であるとは感謝して生きることだ」
と言いました。その事がここにも現れています。評価を求める心や、競争心やプライドから頑張る生き方ではない。感謝して生き、実を結ぶ生活を主は私たちにお恵み下さいます。感謝できる嬉しい事ばかりではありません。大変な災難も誘惑もあります。失敗もし、色々なことが起きます。それでも主は、どんな中でも、何にも勝るキリストの恵みを頂いた者として、私たちを生かしてくださいます。幹であるイエスにつながり、渇いた心を潤して頂きましょう。イエスの愛に感謝して生きる時、実は自然についてきます。ですから、大事なことは、私たちが日々、自分に福音を語り聞かせ続けることです。いつも、恵みの福音を聞かせ、毎日、十字架とイースターを覚えていくことです。
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