2016/05/29 ハイデルベルク信仰問答18、16「弱くて強いお方」ヘブル7章26-27節
何年も前に、こんなことを言ってきた方がいました。
「イエス様は、御自分が死ぬことも惜しくはないくらい私たちを愛していると仰っていたけれど、本当に死ぬことはないのになぁ」。
私にとっては忘れがたいショックな言葉でした。
「あなたを愛しているよ。何よりも愛しているよ。あなたのためには、どんなことでも惜しまずにするよ」
とは言っていても、本当にそうするかと言ったら、
「いや、それは大変だから、もうちょっと楽な違う方法にしておこう」
と答えられたら、どう思いますか。「どんなことでも惜しくない」と言っていたのは嘘だった、と思うでしょうね。
言葉ではいくらでもいいことは言えます。でもそれが、ただ相手の気を引きたくて、大袈裟なことを言うだけで、本当にそこまでするつもりがないなら、言わない方がいいはずです。神が私たちを愛されているのも、そんな大袈裟なリップサービスではありません。神の言葉には、ただ言葉だけで綺麗なことを並べるだけというものは一つもありません。本気でない言葉は一つもありません。神は本気で私たちを愛しておられます。その事が最もよく現されたのが、神のひとり子であるイエスが、私たち人間と同じようになられた事です。そして、神であり人となられたイエスだけが、私たち人間と聖なる神との間に立って、私たちの救いを成し遂げてくださる「救い主(仲保者)」なのです。
問18 それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある、その仲保者とはいったい誰ですか。
答 わたしたちの主イエス・キリストのことです。この方は、完全な救いと義のためにわたしたちに与えられているお方なのです。
先週まで、ハイデルベルグ信仰問答の問15までをお話しして来ました。16をお話しする前に、先に18を読みました。その方がややこしくないからです。イエス・キリストこそ、真の神であると同時に真の正しい人間でもある方で、神と私たちの間に立って、この関係を取り次いで下さるお方だ、といいます。でも、イエス・キリストは「まことの正しい人間」であるとはどういう事なのでしょうか。そこで、16に戻ります。
問16 なぜその方は、まことの正しい人間でなければならないのですか。
答 なぜなら、神の義は罪を犯した人間自身がその罪を償うことを求めていますが、自ら罪人であるような人が他の人の償いをすることなどできないからです。
私たち人間が、神から離れてしまったあり方から、神に立ち戻るためには、神に対する罪の負債を正しく償うことが必要です。でも、私たちには自分で自分の償いをすることは出来ません。神に対する負債は余りにも大きくて、私たちにはどうやっても返す事が出来ないからです。だれかにお願いする、というわけにもいきません。ただイエスだけが、私たちを救うため、本当の人間となってくださって、私たちのための「大祭司」となってくださったのです。
ヘブル七26また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
27ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
イエスがおいでになる前、聖書には、神殿で「大祭司」と呼ばれる仕事をする人がいたと書かれています。日本でも神社では神主さんが、お寺にはお坊さんがいて、色々な儀式をしてくれますね。でも、ここにはこう書かれています。
「他の大祭司たち(は)まず自分のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる」
んだ。どの祭司も、まず自分自身の罪のためにいけにえを献げていた、というのです。しかも、その生け贄は「毎日」でした。決して、動物の生け贄には、大祭司や民の罪をきよくする力はなかったのですね。毎日毎日、どれほどの動物の生け贄を献げても、罪の解決はなかったのです。でも、キリストはそうではありませんでした。自分の罪のために生け贄を献げる必要はなかったのです。そして、毎日でなく、一度きり、御自分をいけにえとして献げられました。これこそが、十分な罪の生け贄となったのです。そして、イエスは私たち人間の罪を償ってくださるために、私たちと全く同じように、人間となってくださったのです。だから私たちは、もう自分の罪のために生け贄や何かを捧げなくて良い、祭司や儀式や何かまだ足りないものがあるんじゃないかと考えなくてよいのです。
キリストが、私たちと同じ人間になってくださった。これは、私たちの理解を超えています。でも、キリストは、私たちを愛し、私たちを救うために、本当に私たちと同じ人間になってくださいました。そのキリストは、スーパーマンではありませんでした。人間の姿をしていただけで、実は、人間離れした力や知恵を持っておられたとしたら、本当に人間となったとは言えませんね。罪はない正しいお方ですが、でも、私たちと同じ人間となられたのです。母マリヤの胎で十月十日、揺れていて、そこから生まれ出て来ました。赤ちゃんとして、母のおっぱいを飲み、オムツを替えてもらったり、寝かしつけてもらったりしたでしょう。そして、十字架にお掛かりになる前の活動においても、疲れたり、眠ったりなさいました。食事を食べ、歩いたり、人と話したりされました。神の子イエスだから、誰からも非難されず誤解や悩みもなく生きられたのだろう、と思ったら大間違いです。空を飛んだり、奇跡を起こしたりせず、私たちと同じようになられたのです。だから、イエスは、皆さん一人一人が人間として抱える痛みや悩みも、全部本当に深く味わい知って、言葉だけでなく身を以てご存じなのです。
この事は、理解し尽くしたり説明したり出来ない、不思議なことです。でも少なくとも、最初に話したように、イエスは私たちと同じ人となり、私たちの代わりに十字架で死ぬ。この最も大きな犠牲を惜しまれなかったのですね。もっと楽で簡単な、手を汚さないで済むやり方でもいいとはお考えになりませんでした。私たちの一番近くまで来られることを惜しまない。
このキリストは、今も、私たちのことを誰よりもご存じです。私自身以上に、キリストは私を愛してくださっています。どんな犠牲も惜しくないと仰り、本当に私たちの想像以上の犠牲を払って、私たちを救ってくださるのです。私たちの祈りに耳を傾け、毎日、そしてずっと、決して離れずに、一緒にいてくださいます。
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