2017/11/19 使徒の働き十二章1-19節「祈りよりも大きい神」
来週礼拝後にクリスマスの写真を撮って飾り付けをし12月のアドベントを迎えます。マタイのクリスマスの話ではヘロデ大王という悪役が出て来ます。ヘロデ大王はイエス家族がエジプトにいる間に死にますが、その孫が今日の「ヘロデ」でやっぱり悪役の役回りをしています。
1.ペテロの救出
ペテロはヘロデ王に捕まって、見世物にされて殺される所でした。それが、処刑の前夜に、主の使いによって不思議に牢から連れ出されて助けられた、というのが大筋です。そして、ここもまたとてもユーモラスに喜劇のように書かれています。特に7節以下、御使いがペテロの脇腹を突いて起こし、
「急いで立ち上がりなさい」
と言われ、
「帯を締めて、履き物を履きなさい」
「上着を着て、私について来なさい」
と事細かに言われる辺りは、寝ぼけている子どもを朝起こしているようです。実際ペテロも現実とは思えないまま、最後に御使いが離れてから、
11そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」
と言う。遅いよと言いたくなります。そしてペテロが人々が集まっているはずの家に行って門を叩きますと、出て来たロデが
14ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。
という件も喜劇です。更に、祈っていた人々はロデの言葉を信じずに
「あなたは気が変になっている」
といい、最後は
「それはペテロの御使いだ」(守護天使のようなもの)
だと端から信じないのです。ペテロを見ても、喜ぶより非常に驚いただけで、慌てるぐらい喜んだロデの方がよほど素直だったと思いますね。こういう、とてもユーモラスな書き方をしていることが分かります。
こうしてペテロは助け出されました。ヤコブの殉教にもドラマがあったはずです。教会の悲しみや喪失は大きかったでしょう。十二使徒の死は初めてですが、ステパノを始め、迫害で殉教した弟子は少なからずいました。教会は熱心に祈っていましたが、ペテロを助け出してくださいと信じるより、もう処刑を覚悟しての祈り会だったでしょう。ペテロ自身、自分が助け出されたことは最後まで現実だと分からず、御使いに脇腹を突かれなければ起きないぐらいぐっすり熟睡していました。季節はちょうど
「種なしパンの祭りの時期」
でした。ちょうど十数年前の同じ時期に、イエスが十字架に殺されたのです。自分もイエスの殺されたこの時期に務めを終えるのだと思ったのかも知れません。そういう中で、この奇蹟的な救出は起きたのです。
2.二人の王
この個所の中心は11節の
「今、本当のことがわかった」
でしょう。10章34節でもペテロは同じように
「これで私ははっきり分かりました」
と言いました。ここでもペテロは、主が自分を救い出してくださった体験をして、改めて実感したのです。期待も予想もしていませんでしたが、主は自分を救い出してくださった。「ヤコブも死んだし自分もだ、過越の季節、十字架のタイミングだからきっと自分も死ぬんだ」。そう思い込んでいた自分を、主は救ってくださったのです。勿論、ヤコブは救わなかった、他の人は見捨てられた、ではありません。彼らはペテロ自身にとってもかけがえない存在で、失った悲しみは深かったでしょう。自分の処刑も覚悟していたのでしょう。そういうペテロに主は御使いを遣わして救い出してくださいました。「ペテロが救われたから素晴らしい」とも「ヤコブは救われなかったから可哀そう」とも、「そこにも主の御心があった」とも、安易には言えません。ただ、恐れ多い事実として、主は自分に御使いを遣わして救い出してくださった。人の経験や予想を超えて、主は私たち一人一人に特別に関わってくださる。この世の王はヘロデではなく主だ、という実証なのです。
この個所はヘロデ王を大枠として書かれています。ヘロデの目論見から始まって、ヘロデが教会を苦しめ、ヤコブも殺した。しかし主はペテロを救い出されます。朝になってヘロデはペテロが見つからないため、番兵たちを代わりに処刑させるのです。彼は王としての権威をふるい、22節では
「神の声だ。人間の声ではない」
というシュプレヒコールも拒みません。でも、彼は神ではありません。人を脅かせても、結局自分の命さえもどうにも出来ません。それができるのは主なる神だけです。そして、主は恐怖で人を押さえつけ、人間に失敗の責任を押し付けて殺す暴君ではありません。この
「種なしパンの祭り」
でイエスご自身が、人のために命を与えられました。それは人の思いを超えた憐れみでした。そしてそれを既に知っていたペテロも、この出来事でまた改めて
「今、本当のことが分かった」
と繰り返したように、私たちにも見えない形で、それぞれに特別な方法で、救いを重ねて体験させてくださるお方なのです。
ペテロは主の救いを体験しましたが、それに甘えて無謀な行動はしませんでした。仲間のいる家に行きますし、17節では
「静かにするように手で制して」
説明をしてから、このことを(イエスの兄弟)ヤコブと兄弟たちに伝言するよう託して、他の場所へ隠れます。「主が守ってくださるからここにいれば大丈夫」とか「不信仰に逃げも隠れもしない」などと無茶はしません。主の守りは私たちの無茶や無責任とは別です。主からもう一度授かった命だからこそ、粗末にはせず、丁寧に生きるのです。ヤコブや兄弟たち多くが死んだのです。自分も処刑になっていないのが不思議なのです。だからその命を危険にさらすようなことはしないのです。
3.祈りの意味
だからこそ、ここでペテロがこの家に来たことは不思議ではないでしょうか。すぐに他に行くのですから、隠れに来たのではありません。また「あなたがたの祈りのおかげで助かった」とお礼を言うためでもありません。言われても戸惑ったでしょう。熱心に祈ってはいましたが、神はその祈りに動かされたのではありません。教会の祈りよりも遥かに大きな恵みを主がしてくださいました。彼らは幻だと思ったり、取り合わなかったり、説明しようとしたり、驚くほかなかったのですが、それでも主はペテロを救い、教会を驚かせてくださいました。ヤコブの死で悲しみ、ヘロデの圧力に怯えつつ祈っている教会に、思いもかけない慰めと喜びを下さいました。イエスは言われました。「異邦人は熱心に長々と祈れば、神は聞かれると考える」[1]。まるで眠っている神を、人間が大声で起こして、動いてもらうのが祈りのようです。イエスは、私たちの天の父なる神はそうではない、私たちが祈るより先に私たちの必要をご存知なのだと諭されました。人の方が眠っているのを起こし、信じてもいなかった恵みを下さったのです。
しかし「だから祈ることは無駄」ではありません。私たちの天の父がおられるからこそ、私たちは祈るのです。深い恵みの神を思い起こして、希望をもらうのです。教会がペテロの脱獄を祈ったから神が御使いを送られたのではありません。しかしそれでも彼らはペテロのために熱心に祈りました。ペテロはその自分のための祈りを思って、貴重な時間を割いてでもこの家に行きました。ロデが慌てふためいて家に戻ってしまっても見切りをつけずに叩き続けました。ペテロは教会の人たちを思い、その祈りを感謝していました。ヤコブが急にいなくなり、自分まで去った後、支えを失った思いをしないよう顔を見せて励まし、自分が受けた恵みを分かち合いました。ただ主に委ねるだけでなく、主が自分に下さった恵みを具体的に分かち合いました。それが、自分も(一時的にとはいえ)去る後の教会にとって、大きな励ましになると思ったからでしょう。祈っても無駄でもないし、祈ることによって神の脇腹を突いて起こすのでもない。祈ることで私たちは目を覚まして、祈りを超えて、思いを超えて私たちを救ってくださる神を仰ぐのです。悪や死が世界を支配しているように思えても、私たちの王は天にいます神、憐れみ深く、ユーモアに溢れ、死すべき命を恵みで飾ってくださる神だと思い起こすのです。
「すべての支配者なる主。暴力や悪意の方が強く、祈りなど無力に思える時もあります。そんな疑いや思い込み以上にあなた様が強く大きく深い御心をなさると今日またはっきりと教えてくださり、ありがとうございます。変わりゆく生活や環境の中、恐れや誘惑に流されず、あなたを仰がせてください。御前に真実にユーモアをもって、ともに歩む教会とならせてください」
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