2017/1/8 ハイデルベルグ信仰問答45「いのちは勝利する」ローマ書4章25節
久しぶりにハイデルベルグ信仰問答に戻ります。今日は問45です。主イエスの御業を「使徒信条」に沿って見てきましたが、ここでは「三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白した、キリストのよみがえりについて、実に力強く簡潔に言い表されます。
問45 キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。
答 第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。
今まで、主が
「処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて、葬られ、よみに降り」
と低く、卑しくなってくださったことを見てきましたが、それが
「三日目に死人のうちよりよみがえり」
と一挙に明るくなるのですね。復活は本当に喜ばしい知らせ、素晴らしい勝利の知らせです。
復活は確かに奇想天外な告白です。奇蹟中の奇蹟であって、簡単には信じがたいことです。聖書そのものが、復活を驚くべき事として記しています。幻だとか集団催眠だとか、仮死状態だったのだとか色々な説明をしたがる人も後を絶ちませんが、そういう理屈での説明を超えた、文字通りの事実として、イエスはよみがえられたと聖書は言っていますし、教会は主にそのように信じてきました。これは決して教会にとってどうでもよい枝葉の信仰ではありません。譲ることの出来ない肝心要の告白です。「使徒の働き」では
「イエスが死んでよみがえられた」
と繰り返して、教会がイエスの十字架と復活を宣べ伝えたと記しています。キリスト教とは「イエスの十字架と復活の福音」です。
ローマ四24…私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
主イエスが十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった、という事は大事です。でもそれだけで、イエスが死んだままであったなら、そんな言い草そのものが負け犬の遠吠えでしかなくなります。なぜなら、イエスは死に負けたままで、結局はイエスよりも死の方が強かった、イエスは死に損ないであった可能性が否めません。しかし、神はイエスをよみがえらせてくださいました。ここに第一の、
…この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によって私たちのために獲得された義に私たちをあずからせてくださる、という…
「益」があります。死によって私たちのために獲得してくださった義、というのがただの理念や口約束などではなくて、現実に私たちがあずかれるのは、キリストがよみがえってくださったからです。イエスの復活は、イエスの謙りや苦しみ、十字架の死が現実に私たちのためであったことを意味づけるのです。神の愛とか、罪の赦し、犠牲的な死というテーマだけでいいと言う人もいるでしょう。しかし、もしそういう道徳や美談であれば、私たちがそれに本当に預かれるかの保証はありません。キリストが命に代えて果たされた赦しを私たちが受け取るかどうかは、私たち次第、という話に人間はしてしまうからです。イエスは死んで向こう側に行ってしまわれたのを、私たちこちら側にいる者が何とかしてそれに肖れるよう努力する、という話にならざるを得ないのです。しかし、そういう人間の側の不確かさや不信仰や弱さに関係なく、イエスは先によみがえり、私たちのところに復活した方として現れてくださいました。私たちに、罪の赦しと新しいいのちを約束してくださいます。私たちは、そのシステムをまだ十分理解できません。復活についても詳しく説明したり納得したり出来ません。それでも、イエスが私たちのために既によみがえられたのが事実である故に、希望をもって信じるのです。そして、その時に、私たちは現実に、新しいいのちに生かされる恵みに与るのです。
…第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。…
キリストのよみがえりは、神との関係が改善されたというだけではありません。その復活の力に私たちも与って、今や新しい命に生き返らされている、というのです。キリストの復活の力は、キリストをよみがえらせただけではなく、私たちにも働いているのです。これも素晴らしい約束ですね。キリストが復活されたのが事実であるなら、それは二千年前だけのことではないのです。今に至るまで、キリストのいのちは、神の民に働いている。私たちも神の民として、生かされているというのです。勿論、病気にもなりますし、不死身でもありません。けれども、だから意味がないとか、早く天国に行きたい、とは考えません。私たちが今すでに新しい命を生かされている。今ここで、私たちが神の御心を仰いで生きる営みそのものが、神から与えられている尊い歩みとして生きる事が出来るのです。キリストが魂として現れたのではなく、からだをもって復活されたことは、この世界を神が尊いものとして祝福なさることの保証です。
…第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。
キリストの復活は、やがて私たちが完全に
「祝福に満ちたよみがえり」
に与ることを確証します。つまり、キリストの復活を信じるとは、よみがえりの奇蹟を信じられるかどうか、経験的には信じがたいけれど聖書や教会の歴史を考える時に事実として信じないわけにいかないじゃないか、というだけのことではないのです。キリストがよみがえられたからには、キリストが私の救い主だという事も本当に違いない。今の私も既にその命に与っているに違いない。そして、やがて私たちが死を迎えても、その後には祝福に満ちたよみがえりにも与れないはずがない。そういう繋がりを持っているのです。
イエスが日曜日に復活されたので、教会は日曜日を礼拝の日としました。それが世界のカレンダーとなり、私たちも今ここに集まっています。イエスの復活を懐かしみ記念するだけでなく、神を礼拝する恵みに生かされています。これ自体、復活の証しです。
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